婿がね登場 ただしお文だけ 2
枝を受け取った父は、それを御簾の下から差し入れてくる。まるで女房のようだ。
わが子・他人の子を己の都合で取り替えておきながら、この面倒見のよさはおよそ貴人らしくない。腹は立つのに、娘として尽くしたいとさえ思えてしまう。
「こんなふうだから、どうあっても敵わないのよねぇ……」
「なんだ、他にも叶えたいことがあるのか? 言ってごらん」
「……いえ……その『叶わない』ではなくて」
いけない、これ以上世話を焼かれたら、自分の機嫌は花びらでも枝でもなく、庭の桜花と並ぶほどに満開となってしまうだろう。
蝶よ花よと育てられた咲子は、とりつくろってはいても結局は甘えたがり。父はきっと、そんな娘の内心をわかった上でこちらをかまい、調子にのせようとしているのだ。思いどおりになるものかと咲子は口を噤んだ。
気を取り直して文を開き、したためられた歌を目で辿る。料紙に移った蘭麝の薫物が、蕾の枝を包むように、一瞬、ささやかに立ち昇った。
――雲珠桜 なべてうづまん山の背の 訪ふこちはまだき匂へり
「咲子。宮様はなんと?」
「『雲珠桜は、一面を埋めつくすように咲くことでしょう。山の背より訪れる東風からは、早くも美しい香りがします』」
「見せてごらん……なるほど、景色・音・香り、すべてを届けてくれる文じゃなか。その枝は雲珠桜の蕾で、そうなると鞍馬山か。やはり道中の手土産だね」
「おもしろい歌だわ。ほんとうにたった今詠まれたものなの?」
不思議な心地がする。
相手の気持ちだけではなく、咲子自身までもが歌に詠みこまれているからだ。
婚儀の前、しかも父のいるこの場で、興の醒める歌は送られなかっただろうけれど、こうも巧みに心を惹きつけられるとも思わなかった。
「もちろん、たった今だよ。家人を宮様のもとへやったのはこの私で、それもたまたまだったのだから」
「そう。そうよね」
「それにその歌は……『訪ふこち』が『此方』であるのなら、色づいているのは宮様のお心だ。しかし『東風』と言われたら、今なら東の屋にいるお前のことも連想できるね。やはりこの場で考えられたのだろう」
「わたしは、べつに、色づいても浮かれてもいませんけれど」
「じゅうぶんに色づいているよ。心も姿も、本当に美しくなってくれた」
(うっ)
しみじみと言う父の様子は、出世のために子どもを利用しているようにはとても見えなかった。眼差しには確かな親心があり、樒に対しても、身分の隔たりこそあれ愛情を向けているのを知っている。五日間の出入り禁止だって、つまり六日目以降は、好きにして良いということだ。
「返歌を……ご用意しないと。わたしはもう退がりますから、お父さまもどうぞお戻りになって」
「そうだね、そうしよう。あとのことは伊予たちに任せて」
「あっ。でもお父さま、外に」
お客さまが。
気付いた瞬間思わず声をあげると、すぐに父も庭先を見た。
「――……。お邪魔でございましたか?」
夜風を撫でるような、艶のある声。
手すりの向こうに立つ鮮やかな被衣の色に、しかし、咲子はまず訝しんだ。
その女人に付き人はおらず、静かに一人きり。じっと顔を俯かせたまま、唇の紅が月影に妙に映える。被った衣の色や紋様から察するに、女房というわけでもなさそうだ。
「祇園御前か。邪魔ではないよ、そろそろお前の出番だと思っていた」
けれども、父には見知った相手らしい。
親しみのこもった返事に、女人が錦の下からちらりと視線を上げる。その瞬間、夜闇に浮かぶ桜のような、まっ白な肌が輝いた。
(うそ、まるで天女! 『祇園御前』さま……白拍子だわ。お父さまご贔屓の)
余興で呼ばれたのだろう、歌や舞いを披露する芸者である。女房らの話にも聞くし、その祇園御前の歌声だけは、宴席に出ない咲子も覚えていた。
正殿で催される季節ごとの宴。流れる水音のように、いつも自然と耳に届くのだ。それは今夜も――
――父と祇園御前が去った正殿のほうから、聞こえてくるに違いなかった。
返歌をしたためた咲子は、人知れず耳を澄ましてそのときを待つ。正刻を告げる鐘の音、四つ時を知らせる家人の鼓、客人のざわめきも、次第に庭から邸の内へと移っていく。
「姫様?」
そして、外がすっかりと静かになった頃。
咲子は前奏の篳篥が聞こえるやいなや、伊予の手を引いて共に端近に寄った。座ると同時に届いたのは、筝と琵琶の音色に重なる、瑞々しくもあえかな歌声。
『あはや逃げにし大殿が鳥
滝なす尾羽に黄金なる嘴 げにや妙なる白鷺なり』
五霊鳥〝白鷺〟の逸話を歌った、都ではありふれた今様歌である。けれども白鷺党とつながりの深い咲子には、その歌がいつも、とても特別なものに聞こえるのだ。
「……すはや、追へよ、そちなりや」
目を閉じ、合いの手をぽつりと呟く。ちょうどこの後の、婚儀への不安があったからかもしれない。
昼間に会った三人―……鷺たちの賑やかな様子が、瞼裏にありありと思いだされた。
彼らは、今ごろどこで何をしているのだろうか。
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頬にあたる夜風が冷たい。
星の瞬きをすぐ真上に感じながら、咲子は低くうなるように息をついた。
「ほんっっとうに、何をしていたの。怒るわよ。ううん、もう怒っているけど、わたしが本気で怒ったら、わかるでしょう。ひとを呼んで『助けて』と言いながら、うっかり気絶してあげるわ」
「あー、それはぁ……ちょっとすっごくコワい、かも」
「伊予はだいじょうぶなの? いったい何を吹きこんで、どうたぶらかしたの」
様子のおかしい乳姉妹に、涙ながらに着せてもらった切袴の膝を抱える。
そうして隣を睨むと、同じ袴で片膝を立てて座る『八重子』は、月影さえもからかうような無邪気な笑みをみせた。
「伊予さんの仰ったままですよ? 姫様のことが心配だから、婚儀はうつし身でやり過ごすって」
「そうかもしれないけど、伊予だって思わなかったはずだわ。わたしを―……わたしがこんな、屋根の上に連れていかれるなんて」
檜皮葺の屋根の香りが強く鼻をつく。このような高みに八重といるなんて、伊予が知ったらきっと「話がちがう」と激怒し、落ちこみ、ともすれば鷺の三者を道連れに自分も! などという恐ろしいことさえ考えてしまうかもしれない。
しかし伊予の心配性はともかく、なぜ自分まで言いくるめられてしまったのか。
つい先刻の自分を、咲子は叱責せずにはいられない。