婿がね不在 乳姉妹は、ちょっと心配症 2
先触れはもちろん、気配もなかった。
「ひっ」と身を竦めた咲子はそれでもすぐに状況を理解し、脱力し、鬢削ぎが床に着くくらいぐったりと息をついた。
「……いつからいたの」
「今」
「後ろは、わたしの寝所じゃない……! 中を横切ってきたの!?」
「なんも盗ってねえよ」
「姫様は、そのように疑っておられるのではありませんっ。女人の私室を抜けるなど、無礼極まりないことですよ!」
すかさず伊予が叱ってくれた。しかし咲子の背後から間の中央に出た樒は、こちらの言い分などまったく気に留めていない様子だ。童髪を結い、白地錦の水干を纏ういつもの姿の彼は、立ち居振る舞いのすべてがふてぶてしい。
「それに、ちょっと待って。ほんとうにこのまま帰るつもりなの?」
八重と松葉も立ち上がり、縫っていた細長をぱたぱたと畳み始めている。
こちらの声に振り向いた松葉が「また参りますね」と笹の葉で包んだ菓子を持たせてくれたが、それだけで静かに見送る気にはなれない。
けっきょく咲子は、父や樒となんの話もできていないのだから。
たしかに、秘密明かしは不要とは言った。けれどももう少し何か――将来やこれまでのことを、語らう時間があってもよかったのではないか。
「んな暇ねえよ。すぐ大臣も来るし」
「だったら、なおのこと……樒たちもゆっくりしていけばよいのに」
「それをすんなって念を押されてきたんだ。だから帰る」
「あなたらしくないこと。お小言くらいで素直に帰るなんて」
ようやく樒がこちらを見た。女装の八重や松葉とは異なり、素顔の彼は精悍な異性そのものだ。頬や口もとにはまだ少年らしさが残るものの、切れ長の目には、夜の湖面に映る月のような、静かな妖しさがある。
見慣れており、また咲子も顔を見せ慣れてしまった幼馴染である。ただし真正面から向き合うとさすがに委縮してしまい、伊予が横から扇を差し出してくれたので、形ばかり、それをかざして口元を隠した。
「……お父さまから、なにか言われたの?」
「言われたというか、言わせたというか」
「どんなことよ」
「姫様の今後。正確には今夜」
今夜。ああ観桜の宴のことねとすぐに思い当たる。が、しかし。
「〝天狗の宮〟が来るってさ。婿がねの」
それは予想外で、少しだけ肩が強張った。さらに。
「上手くいきそうなら、そのまま三日夜通いを始める。だから絶対邪魔すんな、なり代わんな、護りも不要、今日から五日間邸への出入りを禁ずる、って言われてきた」
「まあ、五日間……」
……いや。気にするべくはそこではない。
そうではないと分かるのだけれど、咲子の本能が頭で囀っている。
三日夜通い? 聞こえない聞こえない、知らんぷり知らんぷり。
ほんの少し、そんな現実逃避をしているうちに、樒たちは無言でその場を去っていった。
残されたのは伊予と咲子。ごく穏やかな日常の風景である。
「あのう……お姫様」
「いいの伊予、聞きまちがいよ。三日夜通いってあれでしょう? 殿方を閨に迎えるという……そんな大事が、今日突然あるわけがないわ」
チヨチヨと賑やかな小鳥たち。黄金色の春の陽ざしと、こちらを見つめる伊予の姿。
すべていつもどおりである。唯一そうでなかった父の『重大な話』とやらは、咲子の生まれと、白鷺党との繋がりについて、この二件のみで終わったはず。
(だけど、そもそも……それを明かされた理由は、婿がねの宮さまにも、白鷺党のことをお伝えするためであって……)
陰で党を支援し、この鴇原家をいっそう栄えさせる。
詳細は父から婿がねへ語られるのだろうが、妻となる咲子も、白鷺に関してそ知らぬふりは出来ないのだ。つまり党との繋がりを明かされたということは、近いうちに、咲子の婚儀がいよいよ詰めを迎えるということであって。
「ううん、でも婚儀というものは前々からの準備も大切よ。お文はたしかに交わしているけれど、まだほんの九年ほど。頻繁に頂くようになったのも、裳着の後からで」
「姫様、仰るとおりです。ああどうしましょう、もうじゅうぶん過ぎるくらい準備は整ってしまっておりますのね」
「ひ、日の良し悪しは、お父さまがご自由に決められるものではないわ。祝い事にふさわしい日取りを占っていただいて、とくに宮さまは難しい過去をお持ちのかただもの。今日よ明日よとあっさり決められることではないはず」
「ええ、まったくそのとおりですわ。わたくしも、なぜ姫様の裳儀から長ぁ~~い間お文のやり取りのみであったのか、ずっと不思議でしたの。もしかしたら、殿がほかの婿がねを探しておられるのかと期待もしたのですが……あら、少々失礼致しますね」
いつの間にやら、縁側に先触れの者が。
咲子自身が迎えてどういうことだと問いただしたかったが、それは伊予の役目である。気が気でないまま奥で座っていると、すぐに彼女は戻ってきた。
「姫様、お待たせ致しました。殿はこちらへはいらっしゃらないそうです」
「あら! それではやはり樒の勘違いね。今の者は、何か言伝でもあったのかしら?」
「はい、それが……」
父からの言伝も、ごく普通の内容である。
――今日は吉日だ。明るいうちに湯浴みを済ませてしまいなさい、と。
しかし伊予と咲子は、外の空よりも青い顔で、その言葉の真意を汲み取った。