婿がね不在 乳姉妹は、ちょっと心配症 1
(そういえば、正殿で別れてからずっと姿を見ていない)
樒たちといるときは例外だが、伊予が対屋を離れることはめったにない。
どんな用で不在だったのかしらと考えたとき、ようやく咲子の耳にも、それらしい衣擦れの音が届いた。
視線を向けた簀子縁。急ぎ足で現れた伊予が、御簾を巻かずに下からザッとすくい上げて――。
「えっ、ひ、姫様……!?」
――すぐに止まった。動作も言葉も。
細く垂れぎみの目はいっぱいまで見開かれ、また信じられないといった様子で、唇をわななかせている。彼女の言葉を待つつもりでいた咲子も、心配になり思わず問うた。
「どうしたの伊予。なにかあった?」
「いえ、いいえ、姫様。眩暈はもう治まりましたの?」
「眩暈?」
「中門の廊で……頭がくらくらとして歩けないので、少しお休みになりたいと、先程は。人目もありますし、急ぎお姿をさえぎる物のご用意をと、思ったのですが」
「そう……〝わたし〟は出掛けていたのね。伊予や忠助も一緒だったのかしら」
「? はい。あ―……まさか、おまえはっ」
最後の『おまえは』は咲子に向けたものではない。穏やかなはずの伊予の目は火矢のように鋭く燃え、屋内の八重を睨んでいた。
八重は袖で口もとを隠しながら、にやにやとした視線を彼女へと向けている。
「おまえは、家の者ではなく、鷺の!」
「八重子でーす」
「黙りゃっ! ああ、もう、なんということ……! 姫様、わたくしはまた騙されていたのですね。たしかに、お話を終えるのがずいぶんお早いとは思ったのですよ」
「伊予、いいのよそんなに肩を落とさないで。お父さまだって、忠助になりすました樒をうっかりおそばに侍らせていたんだから」
「まあ。殿が重大なお話があると仰るから、わたくしもあの場を離れましたのに!」
「いつものとおり、率先して勝手に強引に護衛を務めてくれたのよ。樒もちゃんと姿を明かして、今はお父さまとご歓談中です。心配いらないわ」
「失礼ながら、納得できません。そのたびにわたくしは、うつし身たちに騙されて連れ出されて」
「だってぇー、伊予サンの小言って長えんだもん」
「お黙り鬘男」
ああ売り言葉に買い言葉と、咲子は目を泳がせた。幼少の頃より鴇原に仕える伊予は、ある日突然現れた八重たちのことを、
「たしかに、おまえには助けられた事もありましたよ。ならず者にからまれれば、女のわたくしに出来る事などたかが知れていますからね。しかしいくら鴇原家秘蔵の護衛といっても、姫様の悪い虫になりつつあるのなら、おまえもその辺のごろつきと同じで」
と言った認識で見ているらしい。盗賊ということは明かされておらず、ひとたび火がつけば八重に煽られるまま「居直れ!」とばかりに仁王立ちで語りだす。
「姫様も姫様ですわ。お年ごろのあなた様が、仮にも、ええ本当に仮にも、お身内でない男性と面と向かって語らうなど、あってはならないことですのに。しかも姫様、その縫い物は、この女男の衣ではありませんか」
「ええ……そう、だけど」
「姫様がお気をまわす必要などございません。いけませんよ、甘やかしては」
そしてその火の粉は、主たる咲子の方へも飛んでくる。こちらを想っての事とわかるので不愉快ではないが、言葉が厳しくなっているため、実はけっこう、耳が痛い。
「やー、頼むよ伊予さま。唐物の生地ってすっげえ硬くてさ、俺縫えないなんだぁ」
「知っています! それをあえて、か弱い姫様にお任せするなんてっ」
「あの、いいのよ伊予。これはわたしから引き受けたんだもの」
「まあ……まあ、姫様。それではわたくしが縫いますわ。ご器量良しの鴇姫様とはいえ、こんな男崩れの厚顔半女のせいでお指を刺しでもしたら大変。お美しい朱色の血がもったいのうございます」
「でももう縫い終えたし、怪我もしていないし。今のうちに練習しておけば、宮さまにも噂どおりのご器量良しだと見せつけてあげられるじゃない」
「宮様……」
他意はなかった。しかし咲子が述べた途端に、伊予の表情は一変する。
怒れる瞳にサッと水が下りたかと思うと、萎々とその場に座りこんでしまった。
「……あれぇー……伊予さんったら、どしたの。目まい?」
「伊予、勇んで話しすぎてしまった? 疲れたのなら、すぐに人を」
「いいえお二方……お気遣いは不要です。特に『八重子』の親切など只でも買いません」
「それは少し言葉が過ぎるわ。よくわからないけど、金では計れない価値のある者よ、たぶん」
「姫様っ……申しわけありません、腐ってもご友人であらせられますものね。わたくしはね、お姫様。そのようにお優しいあなた様が、心配でたまらないのですよ。無礼を承知で申しあげますと、不安なのです。あなた様のご結婚が」
「不安なのは、そのとおりね。わたしも無礼を承知で申しあげると、昔の綽名が綽名だものね。天狗殺――」
「いけません。なりませんわ、そんな恐ろしい綽名をお口になさらないで下さいな」
「だけど宮さまは噂ほど恐ろしいかたではなさそうだし、わたしが優しいというのも、きっと伊予の思い違いよ。申しわけないけれど」
「まあ、そのようなことは決して!」
「優しく可憐な娘であれば、お父さまだって婿取りにも他の事にも、もっと気を回してくれたと思うもの。……いけないわね、口にするとやっぱり腹が立ってきた」
対屋へ入ったときと同様、もやもやと熱いものが咲子の内で煙りだす。
――だめだめ。中身はともかく、女房らが言ってくれるような〝咲う牡丹〟〝うつむく白百合〟らしい、優美で可憐な姫様であるべきなのに―……頭では思うのだが、今は自分を正殿から追いやった父への、愚痴ばかりが立ち昇ってくるのだ。
「不満ばかりではないはずなのに、おかしいわねぇ。いっそ『わたしの人生をなんだと思ってるの、この●●●』と一言吐けば、すっきりするのかしら。でも後悔するのも目に見えているし」
「姫様ー。まっ黒いなんかが、綺麗なお口から漏れ出てますよー」
「やだ、八重ほんとう?」
「うん、袖で隠して消えるもんでもないと思う。まぁー心中はお察ししますよ」
「……それはどうも」
「今世は運がなかったんだよ、姫様。姫様はじゅうぶん可憐だし、俺が親だったらきっと手放さない。来世はうちにおいでな」
にこにこと言う。袂をはらってまた横たわり、慈しむような瞳で見上げてくる。
しかしこの十年、白鷺党の彼らは本名も住まいも一切明かしてくれなかった。秘密や偽りだらけのくせに「おいで」だなんて、なんと都合のよい慰めなのだろう。
(だけどちっとも恐ろしくないし、むしろ心が休まるから不思議だわ。……血のおかげかしら? 一門の血が濃いと、そばにいるだけで血族がわかるというし)
自分と同じ、鷺の血を引く二人を見て思う。
一方で父が樒のうつし身に気付かないのは、〝鴇〟以外の――外の血も積極的に取り入れてきた、鴇原家の社交性がきっと起因している。
咲子が感じるのも鷺の血族のみで、樒のそれは分からないのだ。長年の付き合いからうつし身は見破れるようになったものの、たとえば姿を見ない限りは、後ろに彼がいてもまったく気付かない。
「八重、松葉、帰るぞ」
ちょうどこんなふうに。