婿がね不在 皆さまは不法侵入 2
つづき
衣架の棹を戻して、静かに向き直る。
いまだに放心しているかと思いきや、八重を見てすべてを察したのか、父の表情はすっかりと落ち着いたものだ。
「咲子、あれを何処で知った」
「天井画の外し方なら、絵柄をお決めになるときにお母さまが。いつかご自分も、板を取り替える様子をご覧になりたいって」
「違う。縁側のアレだ」
「八重と知り合ったのは、十年前です。それからは数日おきに会っているかしら」
「なんと! 八重っ!」
「あ、怒んないでー大臣。俺はあくまでも付き添いだしぃ、そこのほら、松葉だって三日に一度は姫様に会いに来てるよ」
「まつば? まさか、あの松葉か!? 産婆の……!」
「そうよお父さま、その松葉さま。八重とは反対に、動きやすいから装束はいつも男物なのですって。それとね……」
屏風のそばの松葉へ笑いかけ、簀子縁で腰をおろした八重には目配せをして。
あと一人、承諾なしにこの場にいる者を引っぱり出さなくては。
「お父さまはいろいろと秘密をお持ちなのでしょうけれど、わたしに関することなら八重や松葉さまが教えてくださったわ。いつか不意に知ってしまうより、早いうちから心の準備をしておいたほうがよいでしょうって」
言いながら、厨子棚の前で膝を折る。水瓶に手を掛けて、胸もとから取り出した畳紙に中の水をたっぷりと含ませて。
「……咲子よ、次は何をするつもりだ」
「ほかにも隠れている子がいるから。彼のことも、ご紹介したく存じます」
「まだおるのか……いや、察しはつく。八重を見たときに、嫌な予感はした」
「うっふふ」
本当は少し、不安なのだけれど。
なにしろ自分と『彼』とが同時に父と対面するのは、今日が初めてなのだ。
「それでも、ずっと今のままではいられないものねぇ……。『重大なお話』ついでに、すべてを明らかにしたほうがきっと楽だと思うの」
――と、いうわけだから。
曇りのない笑みを添えて、咲子は濡らした懐紙を差し出した。
「どうぞ。忠助さん」
「……」
しっとりと手巾のような紙束を向けられ、侍従のぶ厚い瞼が歪む。
否やの所作はみせないが、取りに来ようとする気配もない。
「ねえー。しらを切るのなら、わたしが無理やりふき取りますから」
「なんじゃい姫様。拭き掃除でしたら、女房どもにお任せなされ」
「声を作ってもだめ。樒の〝うつし身〟は、全部わかるのよ」
「そう仰いましてもなぁ……無理だって。ただの水で、顔膠が落ちるわけねえだろ」
「いつもやってるじゃない」
「あれは膏薬を混ぜてんの」
しかし変にごまかすつもりもないようで、老人の口から、拗ねた少年の声が咲子に反論してきた。
そうして彼――『忠助』の顔をした樒の視線が、あきらめたように縁側を見遣る。
「八重、焼石は」
「あるよー。回収したてのほっかほか!」
「持ってこい」
「包んで埋めてたから、土やら埃やら付いてっけど」
「樒が行きなさいよ。何度も言うけど、ここはお父さまの寝所なの」
ポイッと放った畳紙をつかんだのは、皺だらけの小麦色の手。
ただし姿はともかく、中身は咲子と同じ十六歳なのだ。〝うつし身〟という扮装で見目はすっかり別人だが、立ち上がる動作は、実にきびきびとしたもの。
御簾を払って縁に出た彼は、手際よく〝顔膠〟落としの準備を始めた。
(すこし、わたしの考えていたのとちがうけど)
作り物の頬や瞼を、膠を剥がすようにそっと拭き取るだけ。それだけだと思っていたのだが、外でなされているのは、どうやらその前の手順らしい。
濡れた畳紙には、膏薬らしき白い液体が染み込まされた。さらにしっとりとした紙束に、八重の渡した焼石なる石ころが乗る。水の焦げる音とともに、丸く包んで数十秒。
最後に石を出し、紙の具合を確認して終わり……のようだ。初めて見る作業はとても新鮮で、咲子も、いつの間にやら父も御簾に寄って縁側を覗きこんでいる。
「それがいつもの〝落とし紙〟?」
「いや、ただの代わり」
「でもそれで拭くのよね。わたしにやらせて」
「咲子っ、なんとはしたないことを! そもそもお前には、れっきとした婿がねが」
「今だけよ、お父さま。他人がいないからわたしもこんな恰好になれたのだし、だからほら、樒」
こちらへ寄って、紙を貸してと、咲子はそわそわと御簾横から腕を伸ばした。今の恰好で外には出られないという、いちおうの自覚はあるのだ。それなのに。
「っ、ちょっと!」
樒はこちらを無視して自分で顔を拭き始めている。「拭くとか」「莫迦だろ」とかなんとか、くぐもった暴言を呟きながら。
紙で押さえられた顔膠は、すでに形を成していない。朽葉色の霙のように半透明で、額・目もと・頬・顎、溶けたそれらが拭われるたびに、赤らんだ少年の肌が下に現れる。
「わたしは、ただの好奇心で拭きたいと言ったわけじゃないのよ」
「ふうん」
「ちゃんと自分の手で暴いて、紹介したかったの!」
「あっそ。……鴇原の姫様が『暴く』とか怒鳴るなよ」
顔を拭き終えた樒が、咲子の方を向いた。
御簾を挟んで見ても、やはり彼は似ている。
細い顎も、鋭くつった目も、まるで白い蟷螂のような――しかし若さと張りのおかげで、言われなければ親子とは分からない――鴇原家当主こと、右大臣の容貌である。
ついては隣のその人に目がいくが、こちらは妙に落ち着いた顔だ。
だから咲子も心が鎮まり、臆してはいられないと身も引きしまった。
「……お父さまは、いろいろと秘密をお持ちよね」
「ああ。まさに今日、これから明かすつもりでいたよ」
「わたしの婚約者にも、すべてを明かして継いでもらわなくてはならないものね。この者たち……皆さまがたを」
咲子は年頃の紅い唇を綻ばせた。
もうすぐ、自分は夫を迎える。
父に従い家を継ぎ、招いた婿に、この家の財と権力を託す。
「秘密明かしは不要ですわ。おのれの生まれも、お父さまと『皆さま』との関係も、すでに存じております。こちらの樒はお父さまの実子であり、そして――」
咲子は御簾を上げて樒を手招いた。
今度は素直に従ってくれたので、父と三人、息をひそめて続ける。
――この子はお父さまのとっておき。うつし身の賊〝白鷺党〟の次期頭領。
「でしょう? お父さま」
「そのとおりだ。おまえは鴇原の大切な姫だが、血縁はない。樒と取り替えた賊長の娘―……鷺姫だよ。咲子」
答えた父の顔は、不自然なほどに晴々としていた。咲子とて不安は大きいが、それを表情にして何かが変わるわけでもない。
だから微笑い返す。
なにゆえにこうなったのか。
どうして今ごろ明かされたのかは、実はとても単純明快。
「婿がねの宮さまは、なんとおっしゃるのかしら」
後にも先にも、それが全てなのだ。
序章終了