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31.5話 逃げたくない


 渚君曰く、貞子視点です。


 ガシャンッ!!


 怖い。


 パシィンッ!!


 恐い。


 ドガッ! ドガッ! ドガッ!


 こわい。


 ゴッ! ダンッ!


 コワイ。


「うえええええええええんっ!!!!」


「うるせぇぞ!! 殺されてぇのか!!」


「ごほっ! やめてっ!! 紫穂に乱暴しないでっ!!」


 怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ怖い恐いこわいコワイ。


 わたしが覚えている、一番古い記憶。


 小さなアパートの一室。


 鼻が曲がりそうなほど強い、タバコとお酒の臭い。


 わたしの父だという、『あの男』の怒鳴り声。


 わたしのお母さんの悲鳴。


 そして、『あの男』の暴力に震えるわたしの泣き声。


 物心ついた頃から続いていた、日常。


 いつも誰かが叫んでいて。


 いつも誰かが泣いていた。


「見てんじゃねぇよ、クソガキがぁ!!」


 殴られる。


「うるせぇっつってんだろうがぁ!!」


 蹴られる。


「あぁ!? 何勝手に動いてんだ!?」


 怒鳴られる。


 毎日。


 ずっと。


「紫穂、大丈夫? 痛い? ごめんね? 私のせいで、……ごめんね」


 (あざ)だらけのわたしを抱きしめ、泣きながら謝るお母さん。


 お母さんだけが、わたしの『味方』で、『仲間』。


 そんな生活の中、わたしは自然と男から気配を消すことを覚えた。


 目線があわないように、髪を切らなくなった。


 声を聞かれないように、言葉を我慢するようになった。


 動きを悟られないように、静かにゆっくり動くようになった。


 当時のわたしの世界には、二人の人間しかいない。


 男という『恐怖』と、お母さんという『味方』。


 家から一歩も出なかったわたしが知るのは、たったそれだけ。


 でも。


 転機は突然だった。


『あの男』から、ある日放り投げられた、一枚の紙。


 お母さんはその紙に何かを書く。


 ほとんど手ぶらでわたしの手を取り、お母さんは地獄(アパート)から出て行った。


 後で知ったが、あの紙は、離婚届だったらしい。


「あらあら、この子が紫穂ちゃん?」


「ちっちゃくて可愛い子だ。よろしくね?」


 それから、わたしたちはお母さんの実家で暮らすようになった。


 初めて会う、おばあちゃんとおじいちゃん。


 タバコやお酒の臭いがしない部屋。


 みんな、わたしが見たことのない、笑った顔をしている。


 殴られない、蹴られない、怒鳴られない、新たな日常。


 わたしには、それが不思議で、()()()()()


「紫穂ちゃん、お行儀がいいね~」


 食事の後かたづけをしていたら、おばあちゃんが笑う。


 そうしないと、()()()()


「あ~、紫穂ちゃん、ありがとうね~」


 肩を()んだら、おじいちゃんが笑う。


 そうしないと、()()()()


「ただいま。紫穂、いい子にしてた?」


 新しいお仕事を見つけ、いっぱい働くお母さんが笑う。


 そうしないと、()()()()()


 わたしは、『いい子』でなければならない。


 お母さんが、毎日、そう聞くから。


『いい子』じゃなかったら、みんな『あの男』のようになる。


 わたしにとって、お母さん以外の人間は『あの男』にしか見えない。


 でも、『あの男』よりも厄介だった。


 だって、他の人間はすぐに怒らない。


 笑って、褒めて、優しくする。


 わたしが知らないことばかりをしてくる。


 だから、こわかった。


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 わたしは、新しい日常を過ごすようになってからずっと。


 お母さんが帰ってくるまで、怯えて、顔色を(うかが)って、生きてきた。


 だが。


 わたしは、もう取り返しのつかないことになっていた。


「あら、可愛い子ね~? お名前は?」


「…………ぁ、………………ぅ、……………………ぁっ、…………」


 お母さんとお買い物に出かけた時。


 近所のおばさんに話しかけられた。


 名前を聞かれている。


 答えなきゃいけない。


『いい子』じゃないと、殴られるから。


 でも、声が出ない。


 お母さんたちの会話は聞いているし、一人で絵本を読む時は、小さいながらも声にしていた。


 言葉は、わかる。


 なのに、声が出ない。


 出てくれない。


「……紫穂?」


 お母さんが心配そうに見ている。


 わたしは必死に声を出そうとする。


 汗が出る。


 心臓がうるさい。


 息が、苦しい。


「ご、ごめんなさい。この子、人見知りみたいで……」


「いいのよぉ。気にしないで。じゃあ、またね?」


 一向に話せないわたしに代わり、お母さんが頭を下げた。


 すると、おばさんは笑い、挨拶を残して去っていく。


「……紫穂、自分のお名前、いえる?」


「…………ぃ、……いっ! ……い……ぃ、……ぉ、…………し……ほ、…………」


 家に帰ってから、心配そうなお母さんに聞かれ、わたしは必死に口を開く。


 でも、お母さんが相手でも、声がうまく出せなかった。


「紫穂? ほら、ちゃんとお名前言ってみて? 紫穂よ? し・ほ」


「ぃ、いっ、い、し、しし、ほ、し、ほ……」


「紫穂…………っ!」


 見る見る内に、顔色が悪くなる。


 わたしも。


 お母さんも。


 この時、わたしは気づいた。


 わたしは、人前で上手に話せないことを。


「ほら、紫穂? 『おはよう』。ちゃんと言ってみて?」


「お…………、ぉ、……は、…………よぉ…………」


 それから、お母さんはわたしの言葉をがんばって治そうとした。


 お母さんが調べた結果、『吃音症』という病気の症状に近いらしい。


 この時、わたしは小学校に上がる前だった。


 多分、わたしの学校生活を心配してくれていたのだと、今は思う。


 でも、わたしの声はどんどん出なくなっていった。


 指摘される度、言葉を出すことがこわくなっていった。


 焦るお母さんに強く怒られることもあって、余計に出なくなった。


 そして、わたしはそのまま、小学校に通うことになる。


「……っ、…………ぁ、…………ぁ、………………わ、…………わた、……わたわた、…………わたし、…………は……」


 初めての自己紹介。


 長い沈黙の中、言えた言葉は、これだけ。


 同い年の子の、不思議そうな顔。


 担任の先生の、困ったような顔。


 こわかった。


 逃げたかった。


 でも、どうしようもなかった。


 一度恐怖に支配されたら、わたしは何もできなくなる。


 その日から、わたしはからかいの対象となった。


 学校はすぐに嫌いになった。


 でも、行かないわけにはいかない。


 だって、『いい子』じゃないと、みんな、『あの男』になる。


 その恐怖心だけが、わたしを突き動かしていた。


 苦痛な学校生活が続く中で、わたしを(かば)ってくれる子もいた。


 それが、カツくん。


 九重(ここのえ)葛也(かつや)くん。


 一年生から同じクラスで、わたしがからかわれていると、いつも助けてくれた。


 わたしが一人でいるところを見つけると、いつも遊びに誘ってくれた。


 勉強もできて、他の子より遅れがちだったわたしに、いろいろと教えてくれた。


 初めてできた友達。


 初めて知った、お母さん以外の『味方』。


 恐がりで人見知りだったわたしが、カツくんに慣れるまで時間がかかった。


 でも、カツくんはわたしのペースに合わせてくれた。


 うれしかった。


 でも、結局カツくん以外に友達はできなかった。


 小学校、中学校、高校と、カツくんと違うクラスにならなかった。


 カツくんが他の人とわたしの間に立ってくれた。


 わたしの人間関係は、カツくんなしで行われたことはなかった。


 ずっと。


 だから、わたしは。


 カツくんがいないと、ダメな子になってしまっていた。


 そんな、わたしの依存関係が、高校二年生まで続いた時。


 わたしたちは、異世界召喚の事件に巻き込まれた。


(こわい、こわい、こわい、こわい!)


 知らない人。


 知らない世界。


 知らない力。


====================

名前:菊澤(きくさわ)紫穂(しほ)

LV:1

種族:異世界人

適正職業:守護魔法師▼

状態:混乱


生命力:50/50

魔力:200/200


筋力:5

耐久力:5

知力:200

俊敏:5

運:10


保有スキル

【結界LV1】

====================


 こわいローブの人に促されて、触った水晶が見せた、わたしの情報。


 いいのか悪いのかもわからない。


 でも、ローブの人はわたしを褒める。


「なんと、適正職業が二つもあるのですか? これは珍しい。貴女のユニークスキルのおかげでしょうな」


 意味が分からなかった。


 でも、(へんなきごう)を意識するように言われ、こわかったから、従った。


====================

適正職業:《守護魔法師》 空間魔法師

====================


 そうして表示されたのが、二つの職業。


 ローブの人によると、どちらも珍しい職業で、強くなる資質がある、らしい。


 だからか。


 わたしは王城に残る、特に優秀だというグループに入った。


 そこには、カツくんもいた。


 学校でも成績優秀だったカツくんは、二年生で生徒会の書記として活動している。


 この世界で頼れる、わたし唯一の『味方』。


 カツくんがいてくれるから、何とかなる。


 何とかしてくれる。


 そんな、無責任なことしか、考えていなかった。


 次の日から、勉強と訓練の日々が始まる。


 わたしはすぐに落ちこぼれた。


 勉強の時間に問題を聞かれても、答えられない。


 こんな大勢の人に囲まれたままじゃ、わたしは平静じゃいられない。


 訓練の時間も、魔力と知力以外の値が異様に低かった私は、すぐに息切れを起こす。


 兵士や騎士の言葉が恫喝(どうかつ)にしか聞こえず、わたしの(おび)えは増すばかり。


 わたしを見る目はすぐに厳しく冷たくなる。


 イガルト王国からも。


 異世界人からも。


 わたしはこわかった。


 こわがってばかりだった。


 カツくんとも一緒の時間はほとんどない。


 自分で自分を、守るしかない。


 わたしは、わたしに与えられた唯一のスキル、【結界】を頼るしかなかった。


 魔法の訓練をしてすぐ、【結界】は点の魔法だと気づく。


 魔力を1消費する点をばらまき、点と点をつないで平面や立体にする。


 そうして作った空間に魔力で干渉し、【結界】として使うことができる。


 勉強はできないのに、【結界】のスキルだけは、元から知っていたようにすぐに理解できた。


「条件が満たされました。スキル《鬼才・魔法LV1》を取得します」


 何回か【結界】を練習していたら、覚えた。


「条件が満たされました。スキル《生体感知LV1》を取得します」


 急に魔法が使いやすくなって、魔力反応を頼りに人を避け続けていたら、覚えた。


「条件が満たされました。スキル《隠神(かくしがみ)LV1》を取得します」


 どうしても逃げられなくて、わたしの姿を【結界】で隠していたら、覚えた。


 わたしが覚えるスキルは、全部逃げるための力だった。


 それでよかった。


 わたしは戦いたくなんかない。


『あの男』のような、いや、それ以上のこわい相手となんて、出会いたくもない。


 会いたかったのは、カツくんだけ。


 わたしは人から逃げるさなか、カツくんの姿を探していた。


「ぁ……っ!」


 ようやく出会えたのは、召喚された日から三ヶ月が経とうとしていた時。


 わたしは《隠神》で気配を極限まで消していた。


 カツくんは他の異世界人たちと訓練をしていた。


 この頃になると、わたしは勉強にも訓練にも出なくなった。


 ただただ、逃げるための(スキル)を、人知れず練習するだけ。


 カツくんと一緒に、こわいことから逃げたかったから。


「ちょっと休憩しようぜ、九重」


「そうだね」


 気配を殺して観察していると、訓練を終えたカツくんたちが訓練場の壁際に集まる。


 談笑しているカツくんたちの近くまで移動する。


「あ~あ、まだ騎士とか兵士とかは、俺らを外に出してくんねぇのかな?」


「しょうがないよ。まだ魔物と戦えるだけの力があるか、わからないんだから」


 でも。


「僕たちは騎士さんたちと模擬戦をしても、まだあまり勝てないじゃない?」


 わたしの足は。


「それが、僕たちに足りない経験(もの)なんだとしたら、いきなり魔物を相手にしても、危険だって思われてるんだ」


 カツくんの言葉で。


「だから、今僕らにできることは、外に出ても大丈夫なくらい強くなることだよ。そして、魔王を倒す。そうすれば、帰れるんだから」


 完全に、止まった。


「真面目だなぁ、生徒会の書記様は。それもこれも、彼女ちゃんのためか?」


 周りの人がカツくんを小突いてからかう。


 雰囲気は、とても和やか。


 わたしと違って、カツくんはみんなと仲良しで、友達も多い。


 だから、この光景はよくあること。


 でも、わたしは動けない。


 わたしが気になったのは、そんなことじゃない。


「紫穂ちゃんのこと? まあ、彼女、ってわけじゃないけど、大事な幼なじみだから、守ってあげたいと思ってる」


 照れたように、わたしの名前を呼んで、カツくんは周りの人からまた冷やかされる。


 わたしは、まだ、動けない。


 動くことが、できない。


「その紫穂ちゃんって、最近見かけねぇらしいじゃん?」


「そういや、勉強も訓練も出てねぇって聞いてるな」


「そういやそうだな。彼氏として、そこんとこどうよ?」


 視線がカツくんに集中し、わたしもカツくんに目を向けた。


 ドキドキしながら、待った。


「紫穂ちゃんは、すごく恐がりだから、仕方ないよ。でも、もし見つけたら、僕からちゃんと言うよ」


 喉が、干上がる。


 ドキドキが、治まらない。


 脂汗が、止まらない。


 手の汗が、妙に気持ち悪い。


「僕も頑張るから、紫穂ちゃんも頑張ろう、って。僕が守るから、()()()()()()、って。紫穂ちゃんも強いスキルを持ってるはずだし、一緒に戦ってくれたら心強いだろうしね」


 カツくんは。


 笑いながら。


 言った。


 わたしを。


『戦わせる』と。


 はっきりと。


 口にした。


「…………ひっ!」


 耐えられなくなったわたしは、カツくんからも逃げ出した。


 ようやく気づいた。


 カツくんも。


 わたしが戦うことを望んでいるんだって。


 カツくんの『頑張ろう』も。


 カツくんの『守るから』も。


 わたしも『戦う』んだってことが、前提なんだって。


 そして、周りの人も、それを否定しなかった。


 知ってしまった。


 気づいてしまった。


 みんな、『戦いたがってる』。


 わたしみたいに、『逃げたい』なんて、思ってない。


 カツくんも、みんなと同じ『戦う』意見だったんだ、って。


「…………ふぅ、……っ! …………ううううう、…………ひっ! …………うええぇぇ…………!」


 どこまで走ったのか。


 お城の廊下の真ん中で。


【結界】と《隠神》を発動したまま。


 独り。


 泣いた。


「うえええええええええんっ!!!!」


 スキルの効果で、わたしのことは誰もわからない。


 見えないし、聞けないし、触れないし、気づけない。


 だから、思いっきり、泣いた。


 どうしても、『戦わなきゃいけない』んだって。


 逃げちゃダメなんだって。


 でも、わたしはどうしても、そんな現実を受け入れきれなくて。


 泣いた。


 カツくんも、わたしの『味方』じゃなかった。


 そんな、どうしようもない悲しさに、勝てるわけがなかった。


「ふえぇ……、うえっ! うわああああああああああんっ!!!!」


 止まらない。


 止められない。


 涙。


 いつまでも、()れない。


 あの日からずっと、わたしは食事と睡眠以外、一日中、泣いていた。


 人気のない場所に【結界】を張って。


 その周りを《隠神》で覆って。


 独り。


 ひたすら。


 泣き続けた。


 もう、何も考えたくない。


 何もしたくない。


 イヤだ。


 逃げたい。


 帰りたい。


 助けて。


 誰か、わたしを、助けて。


「ぐずっ! ふうぅぅぅ、ひっぐ! えぐっ、うえぇぇぇ……」


 心の中で、何回も何回も、それだけを叫んで。


 時間だけが過ぎていった、ある日。


「ぐじゅっ! うえぇぇぇ、ひぐっ! う、あっ、ああぁぁぁ……」


「あ~、……どうした?」


 わたしは、『あの人』と、出会った。


「ぐじっ! …………ぇ?」


 いきなり隣から聞こえた声に、わたしは心臓が止まるくらい驚いた。


 急いで隣を向くと、そこにいたのは、『知らない人』だった。


 イガルト王国から服を支給されてるはずなのに、学生服のままだった『その人』。


 わたしの顔を見るなり、『その人』は顔をしかめた。


 わたしは固まってしまう。


 殴られる。


 蹴られる。


 怒鳴られる。


 お母さんやカツくんじゃない人は、『あの男』になる。


 そう信じていた。


「とりあえず、顔()け。紙の質は最悪だが、水気くらいはとってくれんだろ」


 でも。


『その人』は、ポケットから硬そうな紙を取り出し、わたしに差し出した。


「……ぇ、……ぁ、……ぅぅ……」


 わたしは混乱した。


 殴らないの?


 蹴らないの?


 怒鳴らないの?


 どうすればいいの?


 知らない。


 こんなこと、知らない。


「…………はぁ」


 ため息を吐き出した『その人』に、わたしはびくっと身体を(こわ)ばらせる。


 今度こそ、殴られる!


「ちょっと我慢しろよ?」


 そう、思ってたのに。


 ぎゅっと目をつむったわたしの顔に、何かが押しつけられる。


 容赦なく押しつけられる何かは、硬くて、ざらざらしてて、痛かった。


 でも、代わりに、わたしの涙が、消えていった。


 それに、何だか。


 こわく、ない。


「ん。これですっきりしたか?」


「ぇぅ……」


 涙が綺麗に拭き取られて、わたしはぽかんと口を開けていた。


 そして、一瞬だけ『その人』に視線を向けて、すぐに逸らす。


「ぁ……、ぅぁ……、ぇっ……、ぅぅ……」


 優しく、された、と、思う。


 でも、わからない。


 わたしなんかに、優しくする理由も。


『この人』が誰なのかも。


 わからない。


 それに、さっきから、じっと、顔を見られている。


 顔を見られると、目が合うと、殴られる。


 だから、こわかった。


 そのはずなのに。


『この人』に、見られるのは、恥ずかしい。


 たぶん、泣き顔を、見られたから。


 そんなに、真っ直ぐ、じっと、見ないで……。


 思ったように言葉が出ないから、心の中で呟いて。


『その人』から、顔も背けた。


「無理すんな。言いたいことがあんなら、まず落ち着け。んで、ゆっくり考えて、言いたいことが(まと)まってから、(しゃべ)ればいい」


 すると、わたしのぼそぼそ声を聞いた『その人』は、そう言った。


 落ち着いて、考えて、喋る。


 それは、お母さんにも、カツくんにも、言われたことがない言葉。


 お母さんは、『もっと流暢(りゅうちょう)に話せるようになろうね』って。


 カツくんは、『言いたいことがあるなら、紙に書けば伝わりやすいよ』って。


 言ってた。


 でも、『この人』は。


 言葉が詰まってしまう、ダメなわたしの、『そのままの言葉』でいい、って。


 言った。


 わたしは、目線だけを、『その人』に向けた。


 わたしは、朝に誰もいなかった訓練場の隅で、座って、泣いていた。


 なのに、いつの間にかきた『その人』は、わたしの隣に座って、空を見上げていた。


 黙ったまま。


 じっと。


 わたしが何かを言い出すまで、本当に待っているみたいに。


 飽きずに、空を見上げていた。


(…………変な、人……)


『その人』への印象は、その程度だった。


 わたしは、『その人』がどこかへ行くまで、待った。


 どうせ、『この人』も、わたしなんて相手にしない。


 わたしの『味方』なんて、いない。


 すぐにどこかへ行ってしまう。


 そう思っていた。


 でも。


『その人』は、全然動かなかった。


 時間が止まったように、空を見上げたまま。


 時々、体勢を変えるくらいで。


 わたしの隣に、居続けた。


(……ぁ、…………お礼、…………言わなきゃ…………)


 一人でモジモジしていると、ふと、思い出した。


 紙は、ちょっと痛かったけど。


 わたしが泣いているのを見て、涙を拭き取ってくれた。


 お礼を、言わないと。


『いい子』じゃないわたしは、『殴られる』。


 だから、言わないと。


(……ぅ、……ぁ)


 でも、出ない。


 わたしは、人前ですぐに、声を出せない。


 もどかしい。


 早くしないと。


『この人』が行ってしまう。


『いい子』じゃなくなってしまう。


 焦りだけが募り、おろおろするしかない。


「…………」


 だけど。


 そんなわたしの様子なんて、全然見ていないように、『その人』は動かない。


 無理して何かを話そうともしない。


 ただ、待っている。


 わたしが、きちんと、話し出すのを、待っている。


(…………っ、お、おれ、お礼っ……お礼……は、……あ……ぁ、あっ、…………あり、ありが、……ありが、……とう…………)


 わたしは、心の中で何度も練習した。


 さっき、『この人』に言われたように。


 落ち着いて、は、無理だったけど。


 考えて。


 口を動かして。


 伝えたいことを。


 言葉にする。


「……あ、……の…………」


 いっぱい練習して。


 たくさん時間が過ぎて。


 わたしは、ようやく、声が、出せた。


「あり、が、と…………」


 声は震える。


 言葉は途切れる。


 声量は小さい。


 でも、言えた。


 ほとんど、初めてと言っていいくらい。


 わたしの思いを。


『言葉』にできた。


「……気にすんな」


 何時間も待たせた。


 何時間も躊躇(ためら)った。


 怒られると思ってた。


 でも、『その人』は。


 怒らず。


 静かに。


 わたしの言葉を、受け取ってくれた。


「…………ぇへへ」


 言葉で伝える、思い。


 誰かに伝わる、言葉。


 誰もが当たり前の、それは。


 わたしの知らない、素敵なこと。


 知らず、わたしは、笑っていた。


 人前で笑うのも、わたしの初めて。


 知らなかった、楽しいこと。


「…………くくくっ」


 すると、『その人』も、笑った。


 カツくんの友達とは違う、とっても小さくて、静かな、笑い声。


 全然楽しそうじゃないのに、嫌そうでもない。


 見たことのない、不思議な笑み。


「はははっ……」


「ぇへへへ……」


 わからない。


 でも。


 そんな空気が、とても、安心した。


 笑い声がなくなっても、立ち去る気になれない。


『この人』は、もう、こわくない。


 もう少し、お話ししたい。


 でも、何を話せばいいのか、わからなかった。


「あの……」


「……ん?」


 だけど、聞きたいことは、あった。


『この人』は、わたしの言葉を待ってくれる。


 だから、たっぷり考えて、言葉にして。


 ずっと疑問に思っていたことを、聞いてみた。


「わたし、の、【結界】、どう、したの……?」


 わたしはずっと、【結界】と《隠神》を使っていた。


《隠神》でわたしの存在は感知できず。


【結界】でわたしに触れることはできない。


 そのはずだった。


 なのに、『この人』がきたときには、いつの間にかどちらも消えていた。


 わたしは消した覚えがない。


 わたしの【結界】も《隠神》も、魔力をそんなに使わない。


 集中力の欠如で消えるほど、複雑な魔法じゃない。


 それに、わたしの魔力は全然減っていない。


 魔力供給が切れたはずもない。


 なら、『この人』が何かしたはず。


 だから、尋ねた。


「さぁな。俺にゃ、わかんねぇよ」


 でも、返ってきたのは、そんな言葉。


 誤魔化(ごまか)されてる?


 とぼけられてる?


 嘘をつかれてる?


 じっと、『その人』の横顔を見る。


 …………わからない。


「そう…………」


 でも、たぶん。


『この人』が知らないのは、本当だと思った。


 だから、言葉に詰まる。


 話すことが、なくなった。


「あの、えと、その……」


 それでも、何か言葉を探して。


『この人』と、お話がしたくて。


 わたしは、思いつくままに。


 言葉を、吐き出した。


「わたし、怖い、んです」


「ああ」


「人、とか、魔物、とか、魔王、とか、戦う、とか、……死ぬ、…………とか」


「……そうだな」


「でも、みんな、戦う、って。カツくんも、頑張ろう、って、守る、から、って、言ってた」


「……そうか」


「いつの、間にか、みんな、魔物と、魔王と、戦うの、が、当たり前、に、なってた…………」


「……おう」


『その人』は、相づちを打って、聞いてくれる。


 こんなにスムーズに話せたのは、生まれて初めてかもしれない。


 すごいことだ。


 そう思うのに。


 わたしには、そんな感動なんて、なかった。


「でも、わたし、は、怖い……」


 だって。


「戦うの、も、争うの、も、怖い。死ぬのは、もっと、怖い…………」


 出てくる言葉は。


「でも、みんな、戦う、から、わたし、も、戦わなきゃ、いけない…………」


 今のわたしの、こわいこと、ばかり。


「逃げたい、のに、みんな、ダメ、だって、いうん、です。いつも、わたし、の、味方、だった、カツくんも、『頑張ろう』、って、『守るから』、って、いったんです」


 気持ちが落ち込む。


「わたし、は、嫌、なんです。ドジで、ノロマで、意気地(いくじ)なしで、臆病で……。だから、戦っても、負ける、のは、目に、見えてる、んです。で、も……、負け、たら、死んじゃう、んです、よね…………?」


 視界が涙でにじむ。


「怖い、っ! 怖いんですっ!! こんなこと、したくないのにっ!! したいなんて思わないのにっ!! 死んだりっ、死なせちゃったりっ!! そんなっ!! でもっ、そうしなきゃ、わたしが死んじゃうからっ!! 逃げることもっ、できなくてっ!!」


 気づけば、わたしは、叫んで、泣いていた。


「わたしっ!! いやだっ!! こわいっ!! もうっ!! やだっ!! やなのっ!! ふっ、ふううううっ!! ううううううううううっ!!!!」


 戦うことがこわい。


 魔物も魔王も人も、みんなこわい。


 死ぬのなんて、もっと、こわい。


 誰にも言わなかった。


 誰にも言えなかった。


 誰にも気づいてもらえなかった。


 精一杯の、わたしの、『言葉(おもい)』。


 全部『その人』に吐き出して。


 わたしは、また、泣いた。


「ひぐっ! ……ぐずっ! ……ふっ、ぐぅ…………っ!」


 長い時間、止まらなかった涙。


『その人』は、ずっと待っていた。


 泣いてばかりのわたしなんて、鬱陶しかったと思うのに。


 ずっと、待っていた。


「…………あのよぉ」


「…………ぇ?」


 そして。


「俺、思うんだけどさぁ」


「…………ぅん」


『その人』は。


「本気で、嫌なんだったら……」


 言った。


「逃げても、いいんじゃねぇか?」


「……………………ぇっ?」


 わたしが、本当に聞きたかった、言葉を。


「…………ぇ、…………ぁ、…………ぇ、っ?」


 何も、考えられなかった。


 聞けるはずのないと思っていたことを、初対面の『この人』の口から聞いて。


 わたしは、『この人』の顔をじっと見つめて、動けなかった。


「嫌だったら、逃げればいい。

 戦いたくなかったら、逃げればいい。

 死にたくなかったら、逃げればいい。

 それがお前の意思なら、逃げてもいいんじゃねぇか?」


「っ!?」


 なんで?


 どうして?


『この人』は、わたしの心が、わかるの?


「で、っ、でもっ! みんな、み、みんながっ! たっ、たたか、戦う、って!!」


 焦ってどもる言葉も気にせず、わたしは叫ぶ。


 何を言いたかったのか、わたしにも、わからない。


「周りは周りだ。そいつらがそう決めたんなら、それでいいじゃねぇか。

 だけど、お前の人生は、お前だけのもんだ。

 誰かに束縛されるもんでもねぇし、誰かに強制されるもんでもねぇ。

 誰かにつき従うのも、独りで逃げるのも、お前の権利で、自由なんだ。

 最後は、他の誰でもない、お前だけの意思で、決めるしかないんだ」


 自分の、意思。


 わたしだけの、意思。


 そんなこと、考えたことも、なかった。


 だって、今までは。


 ただ、お母さんや、カツくんについて行けば。


 何とかしてくれるって、思ってただけだったから。


 わたしから、何かするなんて、考えたことも、なかった。


「お前ってさ、適正職業、なんなんだ?」


 わたしの『意思』が何なのか。


 それを考えている途中で、『その人』が、また聞いてきた。


 さっきのこととは、全然、関係ないこと。


 でも、わたしがわかること。


「『守護、魔法師』、と、『空間、魔法師』、です」


 だから、すっと、言葉が出てきた。


 ほとんど、無意識だった。


「二つもあんのか。そりゃ、よかったじゃねぇか」


『その人』は、笑った。


 他の人は、一つだけらしい。


 ローブの人にも、そう聞いた。


 でも、うれしくない。


『この人』も、わたしに、『戦え』って。


 言うのかと、思ったから。


「俺はな、『なし』、だ」


「…………?」


 でも、違った。


『この人』の言葉を理解できなかったわたしは、首を傾げて、無言で問いかける。


「『ない』んだよ。

 俺には。

『適正職業』が、『ない』んだ」


「…………ぇっ?」


 ……ない?


『適正職業』が、ない?


「『適正職業』ってさ。

 俺たちにとっちゃ、己を鍛える指標だよな?」


「ぁっ、……ぁぅ」


 そんなこと、聞いたことがない。


 みんな、何かしら一つは、『適正職業』がある。


 そう、ローブの人には聞いた。


 でも、『この人』には、ない?


 嘘?


 ……違う。


 本当の、こと?


「何も、『ない』んだ」


 ぼーっと。


 空を見たまま。


『その人』は、何でもないように。


 そう、言った。


 その言葉が。


 わたしにはとても悲しく。


 腹立たしいと、思った。


「ぅぅ……っ! ……ぅぅぅっ!!」


 違うっ!


『あなた』に、何も『ない』なんて、違うっ!!


 わたしは、自分でもなんでそう思ったのか、わからないけど。


『この人』の自虐を、どうしても、否定したかった。


 でも、『この人』は気づかない。


 わたしの心の声が、聞こえていない。


 当たり前だ。


 わたしは何も話していない。


 わかるわけがない。


『言葉』にしなきゃ、伝わらない。


『この人』が、何かを(しゃべ)っていたけど。


 そんなことは、わたしにはもう、()()()()()()()()


「そんなことないっ!!!!」


 ようやく言えた、否定の言葉。


 勇気を振り絞って、怒ってる気持ちも表に出して、立ち上がった。


 でも、わたしの『意思』は、伝えるのが、遅すぎた。


 だから、だろう。


『この人』には、正しく、伝わらなかった。


「違わねぇさ。

 お前には【結界】があるだろ?

 それに頼ればいい。

 誰がお前に何を吹き込もうと、【結界】だけは、お前を守ってくれるから」


「ちが、っ! わたし、っ! ちがっ……!!」


 そんなことを言いたかったんじゃない。


 そんなことを聞きたかったんじゃない。


 わたしは、ただ。


『この人』が、自分のことを。


『何もない』だなんて、言って欲しくなかっただけ。


 何とかして、それを伝えたい。


 なのに、『この人』は、ずっと、話をしている。


 わたしのスキルのこと。


 それが、わたしにとって重要なことだって。


 わたしが、どうやって逃げればいいのか、教えてくれようとしていたんだって。


 すぐにわかった。


 でも。


 今のわたしには。


 そんなこと、()()()()()()()()


「そ、そっ! ぅ、だけど……、あの…………」


 焦る。


 考えが纏まらない。


 伝えたい思いが、形にならない。


『この人』の話す早さに。


 ついていけない。


 割り込めない。


 そんなわたしを見ないまま、『この人』は、言葉を続けた。


「『守護魔法師』ってのは、【結界】を盾にできるから、そうなったんだろうぜ。

 何でもない場所を区切って、結んで、世界を(へだ)てる。

 何物をも通さず、何者をも拒絶する。

 その力は、お前を害そうとするすべてからお前を守ってくれる、最強の盾だ」


 わたしの『適正職業』。


【結界】でできるとされた、私の力の名前。


 わたしが考えたこともなかった、意味。


 それを、教えてくれる。


 わたしのスキルは、守る力。


『この人』は、そう、断言した。


「『空間魔法師』ってのは、【結界】が空間を作り出す能力だからだろうな。

 空間を作り出すってことは、【結界】で空間を創造した、ってこと。

 つまり、空間の支配権を得るんだ。

【結界】で作り出した空間は、お前のルールだけが適用する、お前だけの絶対領域。

【結界】内で起こる現象は、お前の意思一つで物理法則すらねじ曲げられる」


 もう一つの意味は、わかるようで、わからない。


 でも、心当たりがある。


 納得する、自分が、いる。


「【結界】で作った『区切り』を『糸状の世界』に見立てれば、それは他の干渉を許さない武器になる。

 多数の小さな【結界】を固めて形にすれば、思い通りの【結界(ぶき)】を作れる。

 複数設置した【結界】同士の距離をゼロにし空間を繋げれば、【結界】内でのみだろうが瞬間移動を可能とする。

 数多の【結界】を世界中にばらまけば、そこにいなくても【結界】内の情報を得ることができる。

 もしも【結界】に『敵』を閉じこめることができれば、その『敵』ごと【結界】を握りつぶすことができる。

 もしも【結界】に『味方』を引き入れて鍛えれば、その『味方』の潜在能力を限界以上に引き出すことができる。

 そして、あらゆる『結ぶ』を実行できる【結界】にはめれば、問答無用で世界を終わらせることができる」


 わたしが知ってることはなく。


 わたしが知らないことばかり。


『この人』は、わたし以上に。


 わたしの【結界】を、『理解』していた。


(…………ぁ)


 そこで、わたしは気づいた。


 わたしが何で、『この人』の『言葉(きもち)』を、否定したかったのか、わかった。


 だって、『この人』は、『何もない』わけがない。


『この人』は、わたしなんかよりも、ずっと。


『すごい人』、だから。


 初めて会ったわたしを。


 たったあれだけの会話で。


 ……ううん。


 会話ですらない、めちゃくちゃな言葉だけで。


 わたしを、誰よりも早く、深く、『理解』したんだ。


 だから、元気づけようとしてくれている。


 戦わなくていい方法を示してくれている。


『逃げたい』って、わたしの叫びを、わたしにできる方法で、教えようとしてくれている。


 わたしを、『助けようとしてくれている』。


 そうだと気づいて。


 とても、嬉しかった。


 でも、それと同じくらい、嫌だった。


「お前の周囲には、お前の心の叫びに気づいた奴は居なかったんだろう。

 でも、お前には、スキルっつう『味方』がいる。

 絶対に裏切らないと信頼できる『()()』がいる。

 それだけで、今までとは違う力が()いてくるはずだ」


 わたしよりも強くて、賢くて、すごいのに。


『この人』は、気づいていない。


 他人(わたし)は見えているのに、自分(このひと)は見えていない。


 わたしの叫びに気づいた人は。


 わたしの『味方』は。


 わたしの信頼できる『寄る辺』は。


 わたしの、目の前に、いるよ?


「お前がそれを望むなら、何もかも捨てて、逃げろ」


 それなのに、気づかない。


『この人』が『ない』と言ったのは、この世界の強さ。


 たぶん、ステータスにも、スキルにも、恵まれなかったのかもしれない。


 だから、『何もない』って、言ったんだ。


 ずっと、独りだったんだ。


 わたしみたいに。


 わたし以上に。


 みんなに、冷たくされて。


『この人』は、優しくないみんなが嫌いになって。


 自分も、嫌いになっちゃったんだ。


 わたしがわたしを嫌うよりも、強く。


 それが、嫌で、悲しい。


「他の誰かがお前を嫌っても、俺だけはお前を支持してやる。

 お前は正しいって、いつでも、何度でも、言ってやる。

 だから……、」


『この人』が自分を(おと)める言葉が、自分への諦めだって。


『この人』がわたしを(なぐさ)める言葉が、自分に向けることはないんだって。


 わたしの『味方』が、わたしを『味方』だと、思ってくれてないんだって。


 気づいてしまったから。


 わたしは、泣いた。


「逃げてもいいんじゃねぇか?

 少なくとも俺は、そう思う」


「っ…………!!!!」


『この人』は、わたしは『逃げてもいい』と、言ってくれた。


『逃げる力』もあると、教えてくれた。


 でも、『この人』には?


 自分で自分を諦めてしまうほど、『逃げる力』がないらしい、『この人』には?


 誰が、『逃げ道』と『逃げ方』を、教えてくれるんだろう?


 ひきつった笑みを浮かべた『その人』は、立ち上がる。


『その人』の瞳を、見上げる。


 …………あぁ。


 やっぱり。


 いないんだね?


『この人』には。


 助けてくれる、『味方』が。


 誰も。


「泣き虫だな、お前」


「ぅっ……ぐぅ……! ……ひっ! …………ぇぐぅ……! ……ぃっ! …………ふぅぅ…………!!」


『その人』はまた、取り出してくれた硬い紙で、涙を拭いてくれる。


 でも、止まらない。


 わたしの『味方』で、わたしを『助けてくれた』、『この人』に。


 ただの一人も、『味方』がいないことも。


 わたしが、『この人』に、『味方』だって、思われていないことも。


 ただただ、悲しくて。


 悔しくて。


 嫌だった。


「ほら、もう泣き止めよ?」


「ひうっ!?!?」


 すると、わたしはいきなり、『この人』に抱きしめられた。


 背中も、ゆっくりと、なでられる。


 温かくて、安心して、気持ちよくて。


 ぎゅっと、『この人』の服を、つかんだ。


 涙は、止まった。


 でも、こわい。


『この人』が、このまま、どこかに行ってしまいそうで。


 今は、それだけが、こわくて、嫌だった。


「落ち着いたか?」


「…………ぁっ」


 しばらくして、わたしから離れた、『その人』。


 でも、わたしは離れたくなくて。


『その人』の服を、強く、握りしめた。


「俺の言ったこと、覚えてるか?」


「っ、っ」


 困ったような顔の『その人』に、頷く。


 忘れない。


 忘れたくない。


 忘れるはずがない。


『この人』の、強さと、優しさと、悲しさを。


「なら、お前はもう、一人でも大丈夫だ」


「っ! っ!!」


 でも、次の言葉には、全力で否定の意思を示した。


『この人』は、わたしの前からいなくなろうとしている。


 自分から、独りになろうとしている。


 それに、気づいたから。


 そんなの、ダメ!


 また、目の奥から、涙がにじむ。


「ん」


 すると、頭の上に、『その人』の手が置かれた。


 ちょっとびっくりしたけど、わたしは『その人』の言葉を待った。


「いっとくが、俺なんかを頼ろうとすんな。

 俺には頼られるだけの価値がねぇ。

 頼られる信頼を返すだけの力がねぇ。

 むしろ、誰かに頼らなきゃならねぇのは、俺の方なんだ」


 かけられた言葉は、半分正解で、半分間違い。


 わたしは『この人』に頼りたいんじゃない。


 わたしは『この人』に、頼られたいんだ。


「一人が嫌なら、そのカツくんに頼ればいい」


 ずっと誰かに頼らなきゃいけなかったわたしには、カツくんがいた。


 カツくんがいなくなった今は、『この人』がいる。


 でも、誰かに頼らなきゃならない『この人』には、誰もいない。


 だったら、わたしが『この人』にとっての『誰か』になりたい。


 わたしを助けようとしてくれた『この人』を、助けてあげたい。


 だって、わたしには。


 守る力と、戦う力。


 そして、わたしが『この人』を助けたいっていう、『意思』。


『この人』を助けるために必要なものがあることを。


『この人』が、教えてくれたから。


「そろそろ時間だな」


「ぇ…………っ?」


 そう、伝えたかった。


 でも、『この人』は、わたしをもう、見ていない。


 どこか遠くを、見ている。


「どうせ勉強も訓練もすっぽかしてんだろ? 後はバレねぇように、自分の部屋に戻れ。な?」


「いやっ!!」


 いなくなる!


 どこかへ行っちゃう!


 嫌だ!


 イヤだ!!


「ぁっ!!」


 でも、『この人』は。


 わたしの頭をあやすように叩き。


 わたしの手を、学生服から、外した。


「じゃあな」


 咄嗟に手を伸ばしたけど、届かない。


『この人』は、わたしに背を向け、歩き出した。


「やあっ!!!! …………あっ!」


 当然、わたしは追おうとした。


 でも、わたしは。


『あの人』の背中の向こうに。


 イガルト人の姿を、見つけてしまった。


「っ!?!?」


 こわいっ!!


 わたしは混乱し、反射的に、【結界】と《隠神》を使った。


『あの人』を助けたいと思った力を。


『あの人』が教えてくれた『逃げ』のために、使った。


「あっ!!」


 気づいた時には、もう、何もかも遅かった。


『あの人』は、行ってしまった。


 急いで《生体感知》を使うけど、わからない。


 イガルト人はわかるのに、『あの人』の存在が、感知できない。


 追いかけたいのに、イガルト人がいるから、足が動かない。


『あの人』以外の人が、こわいから。


 わたしの『意思』が弱いから。


 わたしは、わたしの『味方』を、助けられずに、見捨てた。


「ぁ、あぁ、う、うわああああああああああんっ!!!!」


 どうしたらいいかわからなくなったわたしは、泣いた。


 部屋にも戻らず、夜通し、ずっと、泣き続けた。


 それでも、今度は、もう。


 わたしの涙を拭ってくれる『あの人』は、こなかった。




『あの人』を見失って、半月。


 わたしは、『逃げる』のを、やめた。


 わたしは異世界人の集まる場に戻ってきた。


 勉強も、訓練も、一緒にするようになった。


 でも、『あの人』はまだ、見つからない。


 わたしの『味方』は、独りきりのまま、どこにいるのかも、わからない。


 勉強をしながら、訓練をしながら、『あの人』の姿を探す。


 いっぱい人がいるところは、まだ、こわい。


 だけど、『あの人』がいなくなることの方が、もっと、もっともっと、こわい。


 だって、『あの人』は。


 わたしの『味方』で。


 信頼できる『寄る辺』で。


 わたしに『力』を、くれた人。


 失いたくない、大事な、大切な、人。


 わたしより強いのに、わたしより弱い人。


 だから、今度は、わたしが助ける。


『あの人』の『味方』でありたい、わたしが。


『あの人』の『味方』に、なれるように。


『あの人』に『味方』だと、思ってもらえるように。


『あの人』を、助けてあげるんだ。


「あ、菊澤さんっ!!」


「ひっ!」


「あ~、逃げないでくださいっ!! 抱っこさせてくださいっ!! ほっぺプニプニさせてくださいっ!! 頭ナデナデさせてくださいっ!! 後生ですからぁ~!!」


「カレン~! 後輩追うのに《縮地》使うの、そろそろ止めたら~?」


毒島(ぶすじま)さん、いつも遅れて注意していますよね? 絶対に水川さんを止める気ありませんよね? 菊澤さんを犠牲にする気満々じゃないですか?」


「よく言うよ。長姫(おさひめ)だって、一目シホを見た瞬間にカレンと一緒になっていじり倒したくせに。そのせいで怯えられて逃げられてるくせに。教師として、大人として、それはどうなのかなぁ~?」


「はぅわぁっ!?!? そ、それは、それをいうなら毒島さんだってそうだったじゃないですかぁ!?!?」


「当たり前じゃん。アタシだって、可愛いものが好きなくらいの女子力は残ってるし?」


 でも、その前に。


 わたしを助けてください。


 わたしはもう、ダメかもしれません。


「待ってぇ~っ!!!!」


「やあ~~~~~っ!!!!」


『あの人』が教えてくれた【結界】の瞬間移動で、水川会長から逃げながら。


 わたしは、『あの人』への恋しさを、より一層募らせた。




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名前:菊澤(きくさわ)紫穂(しほ)

LV:1

種族:異世界人

適正職業:空間魔法師▼

状態:健常


生命力:60/60

魔力:645/700


筋力:5

耐久力:5

知力:400

俊敏:5

運:10


保有スキル

【結界LV5】

《鬼才・魔法LV3》《生体感知LV10》《隠神(かくしがみ)LV10》

怯懦(きょうだ)LV10』

「意志LV1」

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