まずは落ち着け
ルディガー様襲撃事件から三日目。
テオドーラ様が仕掛けてきました。
べちゃり。
そう形容したくなるようなものが、私の頭頂部から髪先へと流れていきました。
その液体は透明に時々黄色も混じりながら、今度は髪先から服にべっとりとついたり、床にぼとりと落ちていくのです。あと、どこか生臭い。
生卵を頭から流して、いったい何がしたいのだろう? 私にはちっともわかりませんでした。
しん、と静まり返った朝の教室で、彫像のように動かなくなった生徒たちの中で、テオドーラ様とその取り巻きの男子生徒だけが満足そうにオホホ、だの、ハハだのと高笑いをなさっておられる。
彼は空になったバケツを持ちながら、ざまあみろと言いたげに澱んだ目を私に向けていました。
「汚らしい格好ですこと! 貴族らしくありませんわね! さあ、早く教室から出て行ってちょうだい。身分をわきまえない虫けらがっ!」
ブタの次は虫ですか。私からすればあなたは塵なのですがそこのところを詳しくお伺いしたいのですがね?
自分が汚くしておいて、その汚さを理由に追い出したいとか、アホじゃないだろうか。
どれだけ甘やかされてきたのやら。
便乗する方も便乗する方です。
「自分の振る舞い方を自覚していない振る舞い」なのがまるわかり。
アーレンス学院は貴族の子弟がすべて通わなければならないのですから、さながら「貴族社会」の縮図だとも言えるでしょう。
ここで起こったことはたかが学生とはいえ、国中の貴族たちへと広がっていくはずです。
わざわざ自分の悪い評判をせっせと配る必要はないのになぁ。
それとも悪評「ごとき」でどうこうされないと思っているほど自分の力が強いと思っているのでしょうか?
うん、それは間違っていないかも。ごく一般的な貴族に通じるぐらいには強いんじゃないかな。
ま、ここでぴいぴいと泣くような深窓のご令嬢とかだったら、屈辱を与えられたままに受容しちゃうかもしれないけれどね。私もびいびいと泣くことを期待されたのかも。
私が、びいびい。
自分が不幸に浸りきったかわいそうな少女となって泣いているのを思い浮かべようとしても、あまりにバカバカしくてやめました。
教室入って一歩目で生卵をぶっかけられた私は、テオドーラ様の「オホホ」笑いが終わるまでのほんの短い間だけ、以上のことをもろもろと考えて、驚いた顔をした自分がその次どう反応するべきかほんのちょっとだけ悩みました。
ですが、すんなりと出たのは、やっぱり自分らしい反応。
「私なら鳥のフンを顔面にぶっかけてやるのにな」
「……え?」
「……あ?」
テオドーラ様と取り巻き男子生徒が私のつぶやきを聞きとがめて、妙な反応を返します。
妙とは妙だな。こんなやわい攻撃で私を屈服させられると思ったら大間違いだ!
「だからね、鳥のフンじゃないと」
私が懇切丁寧に教えてやろうと思ったのは、この行為がどれだけ馬鹿げているのか説明したかったからです。目的なんて、ちっとも果たせない。無駄だって。
「アオミトリがね、校舎の西の端の軒下に巣を作っているのだけれど」
と、言いながら皆様の顔を見てもどうにも要領を得ないよう。
ちなみにアオミトリはこのコプランツ王国でよく見られる小型の野鳥の一種で、日光に照らされるときらきらと宝石の粒のように輝く青い羽が特徴的です。庶民の間では見栄えのする装飾品としてよく使われていますね。国旗にも描かれていて、やっぱりその色も青なのです。
「そのフンというのがね、生卵と同じようにドロドロとしていて、しかも一回の量がけっこうありまして。あそこの下にバケツを一晩仕掛けておけば、バケツの半分ほどは埋まるでしょう。だから」
ここからが大事だとばかりに、私は野生動物が威嚇するように笑ってみせました。
「今夜、その軒下にバケツを仕掛けておけば、明日の朝どうなるか……。おわかりでしょうか、テオドーラ様?」
「し……し……し、知らないわよ!」
ぶるぶると首を振っているテオドーラ様。今日みたいなビビットピンクのフリルの塊が白と黒のまだら模様になるなんてこと、考えたくないのはわかる。
私は一向に平気だけれどね。昔城下町で遊んでいたガキ大将に実際にやられたし。めっちゃムカついたから、あとでボコボコにしてやったけれど。
誰かになにかをするのなら、それが自分に返ってくることを考えたほうがいい――
鼻っ柱がなかなか折れない高慢ちきなご令嬢にはいい薬になればいいのですが。
いや、逆上してエスカレートパターンかな? 受けて立つよ?
「これはいったい何事でしょうか、皆様」
私のうしろに大きな影が立ちました。む、先生がおいでなすった。
「フランカ様。授業がはじまりますよ、早く席に……と言いたいところですが、何をやったのですか」
私を見下ろす瞳は特異な色をしています。光彩が金色。
褐色の肌に浮かぶ一対の金色の瞳は、東に接する国ギルシュの血筋を引いていることを示しています。
ギルシュ人は「月の瞳」を持っていると言われますが、美しい形容はともかくとして、私にとっては煙たさを感じる輝きです。
そういえば、本日の最初の授業はパルノフ先生の世界情勢でした。
何を隠そう、私はこの先生が苦手なのです。
「ずいぶんと情けない格好になっておりますが、ねぇ」
テオドーラ様たちがくすくすと笑っています。先生が自分たちの味方になった、と思っているのでしょう。
概ね間違っていません。この先生は、テオドーラ様に便乗しているようですからね、見るとおり。
この先生との戦いの歴史はほとんど入学当初からさかのぼりますが、今は割愛。
とにかくちくちくと剣山なみに針を突き刺す言葉を並べておきながら、こっちが仕返ししようと殴りかかってもへらっと避けてしまうパルノフ先生と私の仲は最高に冷え切っています。
あぁ、わかったぞ。テオドーラ様はパルノフ先生が今のような反応をすると知っていてやったな。
陰険なやつだ。
「おや、どうしてテオドーラ様の方を睨んでいるのでしょうかね。今あなたの相手をしているのは私でしょうに」
「そうでしたわね、先生。失礼しましたわ」
気取ってドレスの裾をつまんで礼をとります。少しは嫌味たらしく見えるんじゃないかしら。
パルノフ先生はアハハ、とまた笑っていました。
世界情勢を教えているのに、コプランツの礼儀がわかっていないのかしら。くだけすぎ。私が言えた義理じゃないのは知っているけれど、とにかく気に入らないです。
先生は制服の濡れていない部分を押して私をどかし、教室の中に入りました。
先生の背中には恨めしげな私の視線が貼りつきます。呪われてしまえ。
「フランカ様には着替えが必要なようですので、彼女は放っておいて、我々は授業をしますよ。……フランカ様、着替え終わり次第授業には戻ってきてください」
「ええ、そういたします!」
一瞬だけ振り向いた口元がフッと小馬鹿にしたように緩むのを私は見逃しませんでした。
フン。鼻息荒く出ていきます。
「では先生。『後片付け』はよろしくお願いしますね?」
そうしなきゃ授業できないですもの~オホホ。
床に落ちた生卵だの、バケツだのをどうにかしていただこうではありませんか!
言い捨て逃亡、待ったなし。パルノフ先生に押し付けて、すたこらさっさと逃げました。
女子寮に戻ってきました。
玄関前でハンスが猫背で掃き掃除をしていましたが、私を見るやいなや黒いもじゃもじゃ頭をぶん、と上げて、「ど、どどど、どうしたんですか、フランカ様!」と大げさに騒ぎ立てます。
本当に視力矯正できているかわからない瓶底眼鏡が昼間に昇る二つの太陽に照らされて、鈍く反射しています。ついでに言えば、シャツがズボンからはみ出ていました。どうにも残念な方向に個性が発揮されているやつです。そんなに年が変わらないはずなのに。
「あ、ああ、あああ、ああ~、どうしましょう~! 僕、どうしたらいいですか!」
あまりの慌て様に箒を持っていたのを忘れて、足の甲に落としてしまう始末。大げさなやつだ。
私は軽くため息をついて、右の手のひらを向けて出します。
「まずは落ち着け」
「お、落ち着けませんよぉ。とうとうフランカ様が心無い嘲笑の餌食にぃ~! だから僕は常々おとなしくするべきだって言ったじゃないですかぁ!」
何を言う。知り合ってたかだか半年だから、私のメンタルがどれだけなのかわかっていないな。おっと、それは今はいいわ。それよりも着替えだ。あまりにも遅くなると先生に何言われるかわかったものじゃない。
「おとなしく、なんて私の知ったことじゃないわ。言いたいこと言えてせいせいするぐらいなの。ではね、ハンス」
「え? ええええええっ? なんでそんなに清々しい顔をしているんですか! 頭から生卵が滴っているんですよ! そ、そうだ。これから着替えられるんですよね、アドリネさんを呼べばいいですか! 僕そのぐらいしか思いつかないんですけれども!」
寮の中までついてきたハンスは珍しく気が効いていました。そうだ、着替えの前にお風呂だった。
一応自室にはきちんとバスタブがついていますが、お湯の用意とかすぐにできるかしら。
こればかりはアドリネに聞かないとなあ。
「よし、任せた。私は、自室で着替えを準備してくるわ!」
「あ、はい!」
ハンスが両手をバタバタさせながら慌てて走っていきます。
廊下には何もないのに、いきなり前につんのめりそうになりながらどうにか持ち直しました。ほっ。
アドリネは傷薬の用意もしなくちゃいけないかも。
衣装タンスをひっくり返し、どうにか替えの制服を発掘。ふぅ、普段はアドリネが準備してくれるから少し手間取ってしまいました。
そこへコンコン、とノックが二三度して、両手に重そうな湯おけをもった侍女が、アドリネを先頭に三人入ってきました。アドリネの同僚のベッティ、最後尾にはなんと寮監ドルテまで。
バスタブには十分な湯量がそそがれました。
出て行く時は、
ベッティが「フランカ様、頑張って!」と両こぶしを握って励まし、
ドルテが「お湯が足りなかったらアドリネに言いつけください」と普段の調子で告げました。
最後に残っていたアドリネは、少しだけ不機嫌そうに眉根を寄せながら、
「すぐそばに控えておりますから、どうか安心しておくつろぎください」
と、風呂場から出て行きました。
要は三人ともハンスから話を聞いていて顔色を変えはしなかったものの、内心それぞれに思うところがあったよう。少なくとも寮監がわざわざ湯おけを持ってこちらの部屋に顔を出すことは滅多にないでしょう。
ありがたいなぁ、と思いながら、入浴。
鼻歌を口ずさむほどに癒された私が着替え終わって出てくると、アドリネが丁寧に私の髪から滴る水分を拭ってくれます。ふぃ~極楽極楽。昼間の風呂はいいですな。
髪が乾いたな、と思ったところで、今度はハンスが入室してきました。
紅茶とスコーンの乗ったプレートを持っています。
「し、失礼します。アドリネさんに言われたとおり、お茶を持ってきました」
それから、と。ハンスはアドリネにこそこそと耳打ちをすると、彼女はわかりました、と頷いて、今度は私の方を向きました。ちょっと同僚の仕事に不手際があったそうで、その対応に行くとのこと。代わりにハンスが私に残されました。
「テ、テオドーラ様からちゃんとお守りしますから!」
おお、男らしい言葉です。でも怯えすぎているので大幅減点。
それにテオドーラ様、今日は普通に授業受けていると思うなー。
私に意地悪するためとはいっても、先生まで入室すればサボろうなんて気おこさないと思うし。たぶん。
「うん、まあ、よろしくね」
その心意気は買おう。心の中でそうつぶやきながら紅茶をすすります。む。いつもより美味しい茶葉の気がする。
二、三のとりとめのない話を交えたあと、ふとハンスが思い出したように言った。
「そういえば、二三日前、妙な噂が流れませんでした? すぐに立ち消えになってしまいましたけれど」
「え、えーと。どの噂だったかしら」
学院に流れる噂はまぁ数多いですから、いちいち全部を覚えていられるわけではありません。
貴族というものは噂好きな生き物ですからね。
「あれですよ……あれ。王子さまがいるって話ですよ」
内緒話をするように声を潜めるハンス。
「うーん、確かにあったけれど。でもあれ、ガセじゃないのかしら」
一時はまさか、という驚きもあって、学院中に広がって、授業もできないほど騒がせた噂ですが、その分、収束も早かったのです。――だって、誰も「王子さま」を見つけられなかったから。
そもそも生徒全員が貴族で身元は確かなのです。
国王陛下の隠し子がそこに入り込む隙間がどこにあるでしょうか?
国王陛下がひそかに「王子さま」を託せるような信頼のおける家はいくつかあるでしょうが、
でも今現在そこまで国王陛下と密接に関係している家柄を持つ生徒はいないはずです。
私たちの世代には、一人も。
敢えて言うならば、ツヴィックナーグル家もそう言えなくもないのですが、お祖父様が国王の側近をやめたのはだいぶ前ですし、うちのヴィルは正真正銘ツヴィックナーグルのヴィルヘルムなのです。
次の日になっても、新しい情報は何一つ流れてきません。だからきっとよくあるガセなのではないでしょうか。
「誰が」「どうして」流したのかは今でもほんのちょっとだけ気になるところですが―――難しい話はようわからん! 考えるだけ無駄!という結論に至ったのは言わずもがな。
「でも、ここだけの話。僕は王子さまはいるんじゃないかって思っているんです」
まるで幽霊はこの世に存在しているんですよ、というような口調。つまり、まったく信ぴょう性に欠けています。ま、信じるも信じないもあなた次第ってやつだけどさ。
「秘密結婚したといっても、国王陛下には王妃さまがいらっしゃるじゃないの」
「今の王妃様は二人目ではないですか。王女様をお生みになったのは亡くなられた最初の王妃様で、今の王妃様が輿入れされるまで三年間の空白があるんですから。その間に結婚していてもおかしくないのでは? もしそうだったらすごいですよ! 王位継承権がひっくり返るんです!」
事実だったらね。私は冷静に突っ込みながら、紅茶のカップをかたむけます。よし、飲み干した。スコーンも食べ終わった。さぁ、授業に行こう。
「えええええええぇっ。待ってください! 僕まだ話の途中ですよ!」
図体だけは立派な男のくせに(それでも筋肉評価不可だが!)、子どものような反応をするな。芝居がかりすぎて、胡散臭く見えてくるぞ。
「私には授業があるのよ。思ったよりも長居してしまったけれど、授業が終わる前にパルノフ先生の前に顔を出さないと!」
着替え次第戻ってこいと言い、私ははい、と返事をしたのです。
つまり、守られなければ――先生にイヤミのネタを提供することになってしまうのです!
このフランカ・ヤナ・ツヴィックナーグルの沽券にかけて、そんなことにはさせません!
雄々しく部屋を出て行く私を、またもやハンスがついてきます。
「まだ授業に出ないでくださいよ~。そうなったらアドリネさんが怒りますから!」
やっぱりそうか。アドリネはハンスを見張り役に置いたんだな? 気持ちは嬉しい。
私は誰もいないのをいいことに、ハンスを振り切ろうと走り出します。
「ごめんなさい、ハンス! あとで弟お手製の絶品クッキーを差し入れてあげるから見逃して!」
そんなぁ、という泣きそうな声が後ろへと遠のいていきます。ハンスに幸あらんことを。
慈愛の女神がハンスに微笑むことを祈りつつ、私は再び授業に戻ったのでした。
結果―――パルノフ先生は当然のように私を欠席扱いしました。納得いきません。テオドーラ様が出席扱いってどういうことよ! わかるんだけれど、わかりたくない!