カティア様の事情
少しシリアスめなカティア様の話です。
わたしが思い出せる限りもっとも古い記憶は、お父様の膝の上に抱えられているところでした。
お母様譲りのプラチナブロンドを手で梳きながら、娘のわたしに何度も何度も同じことを言い聞かせるのです。それが愛情なのか、それとも別の感情から来るのかはわかりません。
ただ、お父様の大きな手はとても優しかったように思うのです。
――カティア。君は何も考えてはいけないよ。
――何も考えてはいけない。
それはまるで子守唄のように今にも眠りそうなわたしの心に染み込んできて。
はい、お父様。
疑問を持つことなく、わたしは――「考えること」を考えないようになりました。
十歳になったころ、縁談が持ち上がりました。
ネリウス公爵家の長男ルディガー様です。周囲の人はわたしとルディガー様が並び立つのを見て、お似合いだと口々に誉めそやしました。
お父様もお母様も大層鼻高々のご様子です。家格の高いところへ娘が嫁ぐのです、それが自慢なのでしょう。
お父様はここでおっしゃいました。
――ルディガー様を好きになりなさい。
わたしは迷いなく「はい、お父様」と頷いておりました。だって、未来の旦那様とは仲良くしなくちゃいけませんもの。
ルディガー様はそんなわたしのことを冷たい目で見ておりました。
どうしてこの方はわたしに向かって不愉快そうなお顔をしているのでしょう?
「お可愛らしい」
「将来、どのように成長されるのか楽しみですな」
「ネリウス公爵家もいい買い物をなされた」
みんなわたしのことを褒めてくれるのに。
この方だけは「汚らわしい」と言いたげにすっと顔を背けてしまいます。
そんな態度が取られたことがなくて、わたしは困り果ててしまいました。
「あの、ルディガー様、なにか……」
「お前、妙なことを言っていたそうだな。なんだっけ……ニクジャガ、オコノミヤキ、ケータイ、とか」
わたしにはなんのことだかさっぱり見当がつきません。
確かに、たまに見る夢では「わたし」は今いるところとまったく違う別世界で、便利ながらも目まぐるしくて息が詰まりそうな人生を送っていたようでしたが……でもそれを口にしたことがありませんでした。
だって、あんまりにも荒唐無稽でおかしなものでしたから。それに、そこにいた「わたし」はいつも疲れていて、今にも死んでしまいそうで。
その夢は何であるのか―――わたしは考えてもいませんでした。
お父様が見るに見かねて助け舟を出してくださいました。
「ルディガー様。娘には空想癖があるのですよ。いつか空を飛べる乗り物ができたらいいのに、と空を眺めて思うような娘なのです。夢見がちだが、可愛い娘です。昔は、とくにそういうところがありまして」
お父様はわたしの両肩を後ろから抱き、そうだろう?と尋ねました。
わたしがお父様の灰色の目を見上げると、有無を言わせない輝きが宿っていました。
「はい、お父様」
お父様が望まれるように、わたしはにこりと微笑みました。
ルディガー様はそんなわたしを見て、ぼそりと呟きます。
「僕、お前が嫌いだ。見ていてイライラする」
「え?」
ルディガー様はその場を駆けさってしまわれました。
わたしはと言えば、その場に立ち尽くしていました。なぜ嫌われたのか、わからなかったのです。
それから数年経って、国王陛下からわたしに学院への入学打診が来て、わたしはアーレンス学院初の女学生のひとりとなりました。
ルディガー様とは以前よりも頻繁に顔を合わせることになりましたが、あの方は相変わらずわたしを嫌っておいでのようでした。
それから、テオドーラ様と意気投合したのか、すぐに親密な関係になられました。ルディガー様はますますわたしを遠ざけるようになりました。
ですが、わたしは「ルディガー様を好きにならなければいけない」のです。
自然と、ルディガー様のほうに目が向きます。
テオドーラ様はそれが気に入らなかったのでしょう。権勢をふるう自分の家よりも格下の相手が婚約者だから。
始めは些細なことでした。面と向かって、色々と言われるだけ。
それがだんだんとエスカレートしていって……せっかく学院でできたお友達も離れていきました。
テオドーラ様は友人たちにも圧力をかけたのです。
ルディガー様は見て見ぬふり、あるいはテオドーラ様に便乗されました。鈍くさい女だな、などと嘲りながら。
わたしがルディガー様に蹴られたのは、元々テオドーラ様が座っているテーブルを偶然通り過ぎようとしたとき、体勢を崩してテーブルをほんの少し揺らして、テオドーラさまに数滴紅茶の雫が飛んでしまったからです。
と、いってもわたしはわざと転んだわけではありませんでした。
………足元が赤くなったからです。
わたしは灰色の制服を身につけていました。赤という色彩をまとっていたのは、テオドーラ様。
つまりは、テオドーラ様はわたしを痛めつける口実を作りたかったということでしょう。
わたしの髪の毛を引っ張って。跪かせて。ルディガー様がわたしを蹴って。テオドーラ様が頭上からぬるくなった紅茶をかけてきます。
心にあったのは、怒りではなく、疑問でした。
どうしてこんなことをされなくてはならないの?
わたしは、何一つ悪いことをしていないのに。なのに、憎しみや悪意ばかりぶつけられて。
わたし―――カティア・シュニッツェルの価値とはなんなのでしょうか。
わたしは、邪魔なのでしょうか? 生きていない方がいいのでしょうか?
お父様、どうすればよかったのですか?
わたしはどこか間違っていたのでしょうか?
だからこうやって罰せられているのですか―――
ぽたりぽたり、と涙が止まりませんでした。
今まで彼らにどんなことをされたって、気に止めなかったのに、今になって。
本当は、わかっていたのです。
わたしは、自分で、自分の意志を放棄していたことに。
そして自分の意志を持たなければ、状況を悪化させることはあっても、好転させることは決してないということを。
でもどうすればいいのでしょうか。
弱虫で臆病者のわたしに、一体何が―――
「ちょおっとぉ、お待ちくださいません~!」
その大きな声が届いたとき。わたしが肩にのしかかった重苦しい空気が弛緩した気がしました。
厳しい冬の地に、春を告げる一番風が吹き抜けた後のような、清々しい雰囲気。
見ているだけで助けることのなかった観衆を押しのけたその方は、迷いなくわたしのほうへ向かってきて。
「ブタに謝りやがれルディガーっ! どりゃああああああああっ」
ルディガー様へ見事な飛び膝蹴りをくりだされました。
その方は倒れたルディガー様を鼻で笑ったあとすぐに、いかにも満足そうな顔―――わたしで言うなら、出来上がった刺繍の出来栄えが過去最高だったと見惚れているときのような顔―――をされてから、すぐに頭を抱えられました。
「あああああああああぁぁぁぁ、やらかしちゃったぁっ!」
それはほんの数秒の出来事で。
でもそれはわたしの心にくっきりと痕がつくほどに鮮明に焼き付けられました。
わたしは、これまでの人生で、これほど自分に素直な方を知りません。
こんなに気持ちのいい生き方をされている方がいるなんて。
その方は、わたしを見て、安心して、と力強く頷いています。
優しげな茶色の瞳が笑っています。
わたしはこの時、あぁ、好きだと確信しました。わたしはこの方を好きになる。好きにならずにはいられない。
本当は、すぐにでもその方のぬいぐるみのように愛らしい身体に抱きつきたくてたまりませんでしたが、我慢しました。だって、ほとんど初対面でいきなりそんな無作法な真似はできませんもの。
その方の名前は、フランカ様。
どんな殿方よりも頼りになる、とても素敵なご令嬢です。
わたしは、この方ともっとお近づきになりたい―――
カティア様は前世持ちですが、その特性をいまいち生かしていない人です。