思い出の先生
十勝平太は不機嫌だった。
家庭教師などというものを突然雇われたからだ。平太には何の相談もなしに。
「どうしてそんなこと勝手に決めるの」
「お父さんの知り合いの子に、北坂高校に通っている子がいるんだって。北坂高校よ?」
北坂高校は、平太たちがいる学区内で最も頭の良い高校である。それぞれの中学校はそこにいくら子供達を送り込めるかがステータスであり、二番手の高校とは天と地ほどにもかけ離れているといってよい。毎年限られた椅子をめぐって選りすぐりの秀才たちが凌ぎを削り、もし我が子が合格したなんてことになれば、親はその事実だけで生涯を誇らしく生きていけるレベルである。
そんな高校なのだから、大抵の子供達は一度はそこに通うことを夢見るものだ。いま少々成績が悪くても、中学生になったときに本気を出せば。そして実際になったときに現実を知り、自分が特別な人間ではないことを知るのである。
しかし現在小学五年生の平太は中学生になるまでもなく、そのような夢を抱いたことは一度もなかった。夢を抱く一切の余地なく、壊滅的に成績が悪かったのである。
「しかもその子、北坂高校の中でも成績がすごく良いんですって。将来は東大合格間違いなしって。ね、すごいと思わない? アンタそんな子に見てもらえるのよ」
平太は溜息をついた。平太は学校の勉強はできないが、全く頭が回らないということではない。ようするにいま平太に恍惚の表情で語りかけている母は、頭が良い子と付き合えば自分の子供も頭が良くなるはずなんていう、世間一般の親たちが陥りがちな全く根拠の無い思い込みに囚われているのだ。そしてそれが実際に思い込みであることを、平太は知っている。
「家庭教師なんかいいよ。勉強したって、サッカーにはぜんぜん役にたたないしさあ」
平太の将来の夢はプロのサッカー選手になることである。プロ、しかも海外で活躍する選手になれば、年俸は億は下らない。たとえ学校の勉強が全然できなくても。地元の少年サッカークラブに去年所属して以来、自身にその才能を見出した平太は、学業に早々に見切りをつけ日々サッカーに明け暮れていた。
しかし平太の母は、そんな平太の志しを快く思っていない。
「もう、またサッカーサッカーって。いい? プロになるのってすごく難しいのよ? 本当に才能に恵まれた、ほんの一握りしかなれないんだから」
「うるさいなあ、そんなことわかってるよ」
「いいえ、わかってないわ。アンタこの前の新分記事読んだ? たとえプロになっても二・三年でクビになる人が多いって。大学でちょっと活躍した人を安い給料で雇って、給料を上げないといけない時期になったら切り捨てるんですって。そうなったら蓄えもないし、次の就職のアテだってないし、大変なのよ? そうなったらどうするのよ! ただでさえこのご時世、なかなか就職先見つかりにくいんだから!」
「母さんはいつもネガティヴすぎるよ!」
そのようにして平太は言い争いを続けたが、何より相手は自分を養う親である。サッカークラブをやめさせて塾に通わせるなんて言われれば抵抗のしようがない。こうして平太はしぶしぶ家庭教師を受けいれたのである。
その週の日曜日。
あれから時間があったので、平太は家庭教師に対する対策を立てることができた。
家庭教師にどう接するかということだ。
聞けば相手も家庭教師は今回が初めてなのだという。不真面目に授業を受ければやる気をなくして帰ってくれるのではないか? しかしそんなことをすれば今度こそ本当にクラブを辞めさせられて塾に放り込まれるなんてことになりかねない。一番良いのは、ほどほどに家庭教師の授業を受けた後、学校でテストを受ける。そして点数が悪ければ、この子はいくら勉強させても無駄なんだと思ってくれるのではないか。よし、それでいこう。
成績のわりによく回る頭をくるくる回し、その考えを実行に移す機会が訪れたのは午後五時のことである。
日曜日のサッカークラブの練習は午後四時まで、その後それぞれの少年たちは家に戻り、やり残していた学校の宿題や予習・復習やらに取り込んだりするのだが、平太は帰宅直後うがいや手洗いもそこそこに、クラブのユニフォーム姿のまま携帯ゲームに勤しんだ。先に述べたとおり、平太は学業をすでに諦めている。その代わりにサッカーに取り組むと決めたのだから、ゲームの種類はもちろんサッカーゲームである。自分オリジナルの選手を作成し、実在するチームに放り込んで操作するというものだ。最初はレギュラーではなく、途中出場の限りなく短い時間帯でその実力をアピールしていかなければならないのだが、平太はつい先日、ドイツの強豪クラブであるFCベーコンでレギュラーを勝ち取り、念願のリーグ制覇に向けてチームを牽引していた。ライバルは現在リーグ首位のウィンナーSV。勝ち点はわずか一試合分しか離れておらず、直接対決に向けて負けられない戦いが続いている。
本日の相手はボウガン1996であった。その名の通り1996年に成立した新しいチームであり、二メートルを超える長身選手を前線に並べて放り込みからヘディングを叩き込むという圧倒的力任せの戦術を得意とする。FCベーコンはこの戦術にコテンパンにやられた。何しろベーコンには、二メートルを超えるような選手は一人もいない。最高でも180cmそこそこで、フィジカルの低さをパスワークで補っているチームだった。そんなチームだから、単純愚直にパワープレーのみを繰り返してくる相手に対しては抵抗のしようがないのだ。前半で既に三失点、守備陣は満身創痍で後半にさらなる失点を重ねることは避けられそうにない。ただしFCベーコンも、ただコテンパンにやられているだけではない。ベーコンがボウガンのパワープレーに抵抗できないのに対し、ボウガンもベーコンのパスワークに抵抗できないのである。もはやプロのサッカーの試合とは思えぬ、前代未聞の点の取り合いが繰り広げられていた。
「これで終わり、だあー!」
ベーコンの流れるパスワークから、平太の操るエースプレイヤー・ヘイタ=ファイアボールにボールが渡り、ドリブルもそこそこに豪快にシュートを叩き込む。これで8―6。後半ロスタイムで二点差。
ボウガンボールで試合が再開したところで試合終了の笛が鳴る。
「やったー! 勝ったー!」
ゲーム機をソファの上に放り出し喜ぶ平太。なんといっても今日のヘイタ=ファイアボールは五得点だ。ダブルハットトリック一歩手前という凄まじい成績。得点ランキングも首位に立ち、この試合は彼のためにあったといっても過言ではない。もはや平太の中で十勝家は十勝家ではなく、ソファは表彰台だ。ヘイタ=ファイアボールに将来の自分を重ね合わせて妄想が進むことこの上ない。
はっ、と平太が我に帰った。
ひとりの少女―といってもセーラー服を着ていて平太よりも明らかに年上であったが―が笑顔を浮かべるでも何を浮かべるでもなく、平太のことをじっと見ていたのである。黒髪で、両サイドから二つの房が肩に垂れ下がっていた。眼鏡の銀色のフレームは細くスタイリッシュで、整った目鼻立ちは笑みを浮かべぬ口元と相まって、知性を感じさせる。背はそれほど高くないが痩せ型でスラリとして、健康的に見える。頭の頂から爪先に至るまでやや古風で模範的な学生像に乱れなく、平太はこの少女が自分の家庭教師なのだと本能的に悟った。でなければこうして平太の家に来て平太の目の前に、このような人物が現れる因果はないのである。
平太は面食らった。さすがに状況を理解していても、精神がついていけないときはある。それに何故制服を着ているのかということなど、頭の中を山手線のように疑問がぐるぐる回り、ついに来た宿敵を前にキャパシティオーバーに陥ったのだ。
その平太に稲妻の一撃を、少女は放り込んだのである。
「それ、何が楽しいの?」
少女の無表情の白けた口調は、混乱する平太の思考を突き破り胸に突き刺さるには十分だった。あなたの趣向は理解できないと、言葉と態度ではっきりと言われたのである。この瞬間、平太はこの少女が別人類であるという思いを確かなものとし、そしてこの少女のことが嫌いになった。
先のとおり少女はまだ高校生だが、平太よりはるか年上なので、いつまでも少女と述べるのはそぐわないと考える。だからここからは、少女のことを先生と述べることとする。
家庭教師の時間が終了後、少女は平太の両親の勧めで夜の食卓に招かれることになった。十勝家の食卓は四人席である。片方のサイドに平太の父と母が並んで座り、反対サイドは父の正面に平太、母の正面に先生が座るという図である。
かわらず無表情で、高校生にそぐわぬ大人びた眼差しをする先生。その隣で平太はブスッとしていた。何故か正面の、平太の両親たちは笑顔である。
なぜ彼らが笑顔なのか。その理由は、母がふたりの様子を見に、こっそりと勉強部屋を訪れたときのことが起因する。
実は母は、ふたりのことが心配だったのだ。時は遡り、平太と先生が衝撃的な出会いを果たす少し前、母が買い物に出かけようとしたときに先生が十勝家を訪れてきたのだ。約束の時間までまだ三十分もあったので、随分真面目な子だなあと母は思った。恰好もいまどきの若者にありがちな乱れがないというか、休日なのに何故か制服である。「なぜ制服?」と思ったことを口にせずにはいられない母は先生に訪ねたが、先生いわく、教師をする以上は正装で着たほうがよいと考えたらしく、自分の正装といえば制服しかなかったということだ。何かおかしい気がするがそんなものかと母は納得し、先生を家に入れて自分はさっさと買い物に出かけた。子供たちだけで先に会っておいたほうが話が弾むだろうと思ったのだが、家に帰ると居間にて只ならぬ空気でふたりが対峙していたので、ふたりを無理やり勉強部屋に押し込みつつも、本当にうまくやれるのか気が気でなかったのである。
母はごくりと唾を飲みこみ、ふたりにバレぬようそっとドアを開けて、しかし隙間から部屋の中の様子を眺めると、ふたりは真面目に勉強していた。おそらく漢字の書き取りだろうか。平太がノートに黙々と漢字を書き、先生が間違いを指摘している。平太は文句を言わず消しゴムでごしごしと間違えた箇所を消して、書き直している。平太の表情は、いつになく真面目だ。真面目に勉強しているのか、あの平太が。家に帰ってから一度も教科書を開く姿を見たこともなく、毎月行われる漢字の小テストでいつも十点中一点か二点しか取れないあの平太が。母は目が潤むようだった。
家庭教師の時間が終わらぬうちに父が仕事から帰ってきて(平太の父はシフト勤務で、日曜日が仕事だった)、母が興奮気味にその様子を伝えると、父は鼻高々だった。
「だから言っただろう! 頭が良い子に教えてもらうと違うんだよ!」
こうして両親は息子に薔薇色の未来を想像し、先生の評価もうなぎ上りであった。
話を食卓に戻す。
「ところで、授業中の平太の様子はどうかな?」
父はもう答えは分かっていますという表情で、先生に訪ねた。
「……平太くんは、とても落ち着いた子ですね」
プフーッ、と吹き出す父。つられて吹き出す母。
「ははっ、おい聞いたか母さん、平太が落ち着いてるだって。あの平太が!」
「この子もお姉さんの前で緊張しているのよ」
「別に緊張なんかしていない」
平太がぼそりと呟く。
親とは子の最大の理解者であるとともに、自分が最も想像しやすい型を子供に押し付けるもの。したがって平太の両親はこの平太の呟きを単に照れ隠しとして切り捨てた。
しかし内情は、そうではなかったのである。平太は先生と出会ってから一度も、先生に対して心を開いていなかった。
平太が漢字の書き取りをしていたのは、散々な結果だった過去の漢字小テストのプリントを先生に見られたからである。平太が黙々とそれに取り組んでいたのは、真面目だったからではなく単に不貞腐れていたからである。
もはや話すことなどない、と一言も口をきかなかった平太だが、この先生は無口そうに見えて意外とよく喋る。いや、実際暗いのだが、言うことは全部言ってくるのである。平太が漢字の書き取りをしていたとき、その一つ一つのミスに対して、容赦なく先生の指摘が飛んだ。算の字の真ん中は日ではなく目だ、その生育の生は成が正しい、などなど。とくに怒るでもなく淡々と間違いを指摘するので、平太はまるでロボットに教えられているみたいな気分になった。これ以外にも先生は平太の落書きだらけの教科書や空白ばかりのドリル、間違い文字だらけのノートを凄まじい速さ(本当に凄まじい速さだったのだ)で読み取り、平太の現状がどれほど壊滅的であるか理解したはずである。自分よりもはるかに出来の悪い人物を前にして、どう思ったか。それについて何も答えないから、平太はますます機嫌が悪くなるばかりである。
両親たちが平太の様子についてしつこく聞いて、先生は最後にこう漏らした。
「平太くんは、ちゃんと勉強すれば伸びると思います」
先生の言葉に両親はますます機嫌を良くしたが、平太はますます不貞腐れた。
その冷たい眼差しが、どうしても本当のことを言っているように思えなかったのだ。
―*―*―*―
平太は戦慄した。
毎月初めに、学校の平太のクラスでは漢字書き取りの小テストを実施していた。平太が初めて家庭教師の授業を受けたのが月終わりだったので、それから間もなくその小テストの日がやってきたのだ。
テスト用紙が配られたとき、平太を凄まじい感覚が取り巻いた。
全部わかるぞ、全部。
目にした問題の漢字は、全て先生とともに書き取りした記憶のあるものだった。
こんなに分かっていいのか……こんなの問題のカンニングではないか!
平太は叫びそうになったが、何てことはない。この小テストに出てくる問題は全て、漢字ドリルに出てくる内容をそのまま移したものである。つまり生徒たちが家でちゃんと復習しているかを見るためのもので、分からない問題を出すほど意地悪なものではない。先生は一枚のテストプリントと一目見たドリルの内容からその傾向を見抜き、平太に急所を突かせる勉強をさせたわけだが、そんなことをした経験のない平太は、未曽有の衝撃に襲われたわけである。
問題が解ける、という高揚感――
なんだ自分も勉強すればできるんじゃんという思いが心の底から湧き上がり、平太は必死でぶんぶんと首を横に振った。
いやいや、駄目じゃないか解けちゃあ。授業受けたけど結果が伴いませんでいたじゃなけりゃあ、あの家庭教師をやめさせることができない。だから解けちゃ駄目なんだ解けちゃあ。
しかし問題が解けるという高揚感に平太は逆らえぬ。この複雑な気持ちを、全て「あの先生にいいようにやられた」という結論で、平太は片づけた。したがって平太の先生に対する憎しみはますます積もる。
「漢字の小テスト、どうだった?」
次の家庭教師の回で先生からそのように聞かれ、平太はますます態度を固くした。
おそらくこの先生は、小テストに書かれた何月何日第何回の記述を見て、平太に尋ねることなく月初めに漢字の小テストが行われることを予想していたのだ。平太の悪かった点数を見て、漢字の書き取りをさせたのではなかった。
「別に、普通だよ」
平太はつっけんどんに言葉を返した。全て先生の手のひらで踊らされているようで、平太は気に入らなかったのである。くしくもその言葉が、先生に対して口にした初めての言葉だった。
そして、黙々と家庭教師の授業が続く。
平太は不機嫌さを加速させながら、その授業が確実に自分の実になっていることを感じずにはいられなかった。
このままでは駄目だ、と平太は考える。
自分はプロのサッカー選手になるのだ。勉強などに現を抜かしている場合ではない。
―*―*―*―
家庭教師を初めてから、三週目の日曜日。
本日は算数の授業であった。先週に引き続いてである。
その頃になると、平太は先生の手口を完全に把握していた。一週目は漢字テストの前の週なので国語、二週目と三週目は次の算数小テストに向けて算数。先生は平太のドリルやノートなどを分析して、算数のテストで良い点数を取らせるには二週かかると判断したわけである。実際、そのやり口は的確だった。平太は一週目で算数の苦手意識が和らげられ、二週目で繰り返し演習に取り組み実戦経験を積むことで、その実力は飛躍的に向上していったのである。
しかし平太は、よくポカをやらかした。ケアレスミスが激しいのだ。
平太は小学三年生の時、「お前は頭がぶっ壊れているな」と学校の担任に言われたことがある。ようするに頭の中の回路接続が変なことになっていて、1+1=2と答えるはずが、3! と言ったり4! と言ったりしてしまうのではないかと。酷い言われようだが、そうか自分は頭がぶっ壊れているのか、と平太は納得した。頭がぶっ壊れているなら勉強しても意味はない。平太が勉強をしなくなったのには、そのような理由がある。
しかし先生(紛らわしいが、家庭教師の先生のことだ)は、どうやらそのようには思っていないらしかった。平太がどのようなミスをしようとも、淡々と指摘してくる。平太が算数の問題に取り組んでいる間、先生は本とにらめっこしていた。学校の教科書だけでなく、図書館で借りてきたであろう問題集なども見比べて、今後の授業をどうしていくか考えているのだろう。平太は傍らで、自身の育成計画が凄まじい速さで組み上げられていくことをひしひしと感じていた。
このままでは駄目だ。
このままでは自分は勉強大好き人間に、作り変えられてしまう。
平太はわざと計算をミスすることにした。全部ミスするのではなく、まるで本当にミスしたみたいに、巧妙に計算を間違えるのである。
平太の「終わった」という言葉を合図に顔を上げた先生は、その解答を見てピタリと動きを止めた。
平太はドキリとした。
先生はたとえ平太がどのようなミスをしようとも、態度を変えず淡々とそれを指摘してきた。しかし今初めて動きを止めたのである。
平太のドキドキは止まらなかったが、先生がとった行動は普通に指摘することだった。計算の、どこを間違えたかを指摘する。先生は計算過程を見ずとも、答えを見るだけで平太がどこを間違えたか分かるのである。平太がわざと間違えた部分についても、どのようにして間違いが起きたかを的確に指摘した。わざと間違えたことには触れずに。先生のその対応に、平太の頭の中のネジが飛んだ。
次のプリントの問題を、平太は全て間違えた。一切の脈絡なくだ。そこには計算過程も理屈も、何もなかった。
その解答を見て、先生はついに表情を変えずにはいられなかった。目は見開き、プリントを持つ手が小刻みに震えている。怒っているのだろう。平太も震えた。そのとき気が付いたことだが、平太にはこれまで、年上をわざと怒らせるようなことはしたことがなかったのである。
「これ……」
先生が口を開く。その声も、震えていた。
「これ、全然違う!」
ビクッ、と縮こまる平太。
先生の初めての大声は、とても年相応の女の子らしいものだった。その声を聞いて、平太は思い知った。自分は本当に、先生を怒らせてしまったのだ。
しかし先生は、それっきり口を噤んだ。自分は怒っているのだということに気付き、気持ちを落ち着かせるように何度も深呼吸して。しかしその怒りはなかなか収まりそうになかった。気まずい時間ほど長く感じられるもので、平太はまるで全身を針でチクチク突かれているかのように、ますます体を縮こまらせる。
先生はさらに一つ、大きく深呼吸した。そして震えがぴたりと止まり、表情はいつもの冷静さを取り戻したのである。
「……もう一回、やり直して」
漏れた先生の言葉は、ひどく冷たかった。平太はその言葉に、ただ傷つくことしかできなかった。
平太はその日、帰宅する先生の後ろ姿を初めて見送った。誰にも言われるでもなく、弾かれるように家の外に出て。先生はそれに気付かなかった。とても疲れたようにとぼとぼと、道を歩いていた。平太はその後ろ姿を見て、一度失った信頼を取り戻すのはひどく難しいことを知ったのである。
ここからは文字数の都合により、ダイジェストで述べさせてもらいたい。
結局先生は、平太の家庭教師を辞めることになった。というのも先生はある日曜日、家庭教師の前の時間帯に近所のグラウンドに赴き、そこで行われていた少年サッカークラブの練習試合にて活躍する平太の姿を目にとめたからである。さすがプロを目指すとあって、平太の実力はなかなかのものだった。おそらく所属するサッカークラブの中で一番うまい。途中、先生に見られていることに気付いた平太は、先生を意識して簡単なシュートを外してしまう。そして平太は衝動的に、先生のことをなじってしまったのだ。先生は僕の夢に邪魔だ、そう告げられた先生はショックを受け、家庭教師を辞めてしまう。平太のことを言うのではなく、海外留学したいからなんていう嘘をついて。そして本当に、海外留学してしまうのだ。平太の言葉は本心ではなかった。その頃には先生は本当に自分のことを思っていたのだということが分かっていて、しかし最初の態度を止めることができなかったのだ。
平太は努力した。サッカーだけではない、勉強もだ。先生にああ告げた以上、自分はサッカーのプロにならないわけにはいかない。それなのに勉強をやめなかったのは、それをやめると先生を否定することになってしまうからだ。サッカーのプロになる、勉強もする、先生に認めてもらう。その三本柱を成立させるには、平太にとって凄まじい努力が必要だった。どれほどやれば、どこまでやれば、認められるのか? 先生が留学から帰ってきても、平太は会う自信がなかった。もっと、もっと努力しなければ。
そして平太は、サッカーのプロになった。しかも海外に行くのである。弱冠十八歳で、海外の二部リーグに挑戦する。早すぎるのではないかという声があった。まずは日本のリーグで活躍して、それから海外挑戦してもいいのでは? 一部ならともかく二部では……しかし平太にとって十八歳は若くなかった。海外には、同じぐらいの年齢で一部で活躍している選手がゴロゴロいる。一秒も時間を無駄にしたくなかった。早く海外に慣れなくては。そのために、英語は日々勉強している。やることはやった。大丈夫、俺ならやれる。 平太は単身飛行機に乗り込み、そこで先生と再会した。なんと先生はキャビンアテンダントになっていたのである。
平太と先生はふたりだけで、海外のレストランで会った。あのときには考えられなかったことである。
「本当に夢を叶えるなんて……平太くんは凄いね」
何か違う、と平太は思った。具体的に何がとは言えないが、違うのである。
先生は、本当に先生になりたかったのだ。しかし平太のせいで夢破れて、家庭教師をやめる際に言った弾みで破れかぶれで海外留学してしまった。それが先生に、決定的な人生経験を与えたのだ。先生は、海外旅行に携わる仕事がしたいと思った。世界にはいろんな土地があって文化があって、現地の人が常識だと思っているさまざまなことに衝撃を受けるのだ。私はもっと、いろんなところに行きたい。いろんなところを見てみたい。
「平太くんが諦めさせてくれたから、今の仕事を見つけられたんだね」
はにかんで言う先生に、平太は魅力を感じずにはいられなかったのだが――
それはかつて先生に感じていた魅力とは違った。先生はこのように、はにかんだりできなかったのだ。もっと気持ちを表すことに不器用で、だからこそ誤解を招いて……
平太は理解する。それは仕方のないことなのである。何より平太が先生を変えてしまったのだから。目の前にいるのは先生ではない。常盤里美という大人の女性なのだ。
初恋が終わる感覚を、平太は知った。(完)
お題「わたしの好きな先生」&「トゲトゲ」
文字数とは、一万文字制限のことです(-_-)
久しぶりにちゃんとお話を書こうとしたら、短編ではおさまらんくなった。
そのため最後は走り書き・・・
もしもっと長く書くなら、もっと明るい終わりにしたいね。