2-1
オフィスの空間を支配する、耳障りな電子音。
電話の呼び出し音が、人気の少ない事務所に響き渡っている。
営業の人間が出払っているために、部屋には今、たった一人の女性事務員しかいなかった。
彼女の名は、桃井裕美。二十四歳。
入社五年目の彼女は、ポニーテールの髪型に黒ぶちの小さめな眼鏡をかけ、どちらかというと地味で大人しい感じに見える。
身に着けた会社支給の制服――ごく普通のなんてことはない白いブラウスと地味なグレーのスカート――が、更に彼女の地味さを増幅していた。
暫く電話を無視し、窓の外を見つめ続ける彼女。けれど、電話の相手はシツコイ性格なのか、諦めようとしない。音は鳴り続ける。
彼女のやる気の無さの理由の一つは、最近の気候にあった。
ここ数日の札幌の街は、北の大地という割に、真夏日が続く有様だった。暑さに弱い道産子たちは、どろんどろんに溶けて道路側溝に落ちたあと、どこかに流れていってしまうのではないかと思うほどの、夏バテ状態に陥っている。
更に悪いことには、最近の社会的省エネ傾向にかこつけた会社が、部屋のエアコン設定温度を二十八度とする、などととんでもないことを云いだしたのだ。
(これじゃ、あんまり外と変わらないじゃん……)
連日の暑さで頭がおかしくなりそうだった彼女は、気持ちだけでも正常を保とうと、頭の中で風の良く通る丘の上の木陰を想像し、世界の何処かへと旅をしていたのだ。そんなときに鳴った耳障りな電話のベルだっただけに、この電話のキンキンとした響きに、イライラが募ったのである。
(仕方ない……)
不機嫌顔の彼女が、嫌々、受話器を取った。
「はい、岡本商事です」
つまらない相手からの、つまらない用件の電話。
営業関係の社員が誰もオフィスにはいないことを告げると、つまらない相手――得意先の課長――が不満気な溜息を吐いて、彼女に勝手に命令を下す。
「お宅の支店長に重要な書類を送ってある。きちんと届いているか、調べてほしい」
支店長は、出張で東京のはず。
そうなると、直接支店長に電話を回す訳にもいかない。
(あーあ。いやな奴の電話を受けちまったもんだ)
裕美は大人しい容姿に反し、その頭の中はやんちゃ坊主のそれに似ていた。
会社の仲間にはバレない様に普段は過ごしているが、本当はなかなかの毒舌家だ。
裕美は、調べて折り返し電話をすることを相手に約束すると、電話を切り、盛大に舌打ちをしてから、よろめくように席を立った。
相手先の男は、白井という、齢五十のおじさんだった。
自分が暇な時に電話をかけてきては、ねちねちと営業担当や女子社員に嫌味や無理を云って困らせる。裕美はもちろん、社員の誰からも当然嫌われている。
が、誰も声に出して云わない……というか、かなりの得意先なので絶対云えない。
(こういう時に限って誰もいないのよね、うちの会社ってさ。どうせ、みんな会社の部屋の中が暑いから、涼しい図書館とかネットカフェにでも行ってるんだろうけど)
声にならない声でブツクサと文句を云いながら、裕美は受付のある総務部にとりあえず行ってみた。だが、ここでも誰も見当たらない。
(何だよ、こいつらまでサボってんのかよ)
仕方なく、総務の郵便関係受付のところを溜息混じりに探る。しかし、書類の到着を示す帳簿は見つからなかった。
(ちっ、しょうがねえな。支店長の部屋にでも行ってみるか)
事務所の廊下に一旦出て、支店長室へと向かう。
支店長室のドアには、白いプラスチックの板に赤い文字、「不在」の表示がされていた。
「失礼しまーす」
一応OLっぽい声で入室の挨拶をした後、部屋の中へと進む。
シェードの降りたやや暗い部屋の奥に、ピカピカした木目調の支店長席があった。
裕美は、机の上の書類置き場に探りを入れる。
「あったあった」
白井課長からの封筒が、無造作に置かれている。裕美は、用は済んだとばかりに部屋を出ようと歩きかけたが、ぴたり、突然その動きが止まる。
「それにしても、ほんと綺麗な机だな。仕事してんのかよ」
そのあまりの整理整頓された様子に、妙な怒りが込み上げてきた、裕美。
もう一度静かに支店長席に近づくと、いきなりその革張りの椅子を後ろに引き、どっかと腰を降ろすという、暴挙に出た。
「おお、まずまずだな。こんな感じで日がな一日、ぼーっと過ごしてたいもんだ」
右に左に、椅子をぐりんぐりんと動かして、感触を楽しむ。
そのうち、ちょっと気が大きくなってしまった裕美が、支店長席の手前の抽斗を勝手に開けて、中の書類を引っ張り出した。
「何だ、こりゃ? ほとんどゴルフの切り抜き記事じゃねえか。ゴルフしか頭にねえのかよ。ほんと、頼むぜ……ん?」
ゴルフの切り抜き記事の下から出てきた一枚の紙が、裕美の興味を惹いた。
それは、何らかの取引が行われたことを示す、一枚の事務書類だった。