おぽちゅにてぃ
「ただいま……」
何となく他人の家のような気のする自宅に久しぶりに戻ったヒデヒロの声は、遠慮がちで小さかった。
あの母の待つ家に帰りたくない気持が強かったせいだろう。のんびりと道草を食いまくり、時は既に夕刻だった。なるべく音を立てないよう、抜き足差し足、廊下を歩き、二階のかつての自分の部屋へと向かう。
(もう、オレはただのニートではないぜッ! 怖いけど、彼女もできた……多分。付き合うとはまだ一言も云ってないけどさ……)
一年ちょっと前にこの家を出て行った時の彼とは、かなり変わっている。仕事は相変わらず無いくせに、変な達成感だけは心に満ちていた。
こっそり部屋の扉を開けようとした、その瞬間。
最も懐かしく、最も聞きたくない――そんな声を、彼は廊下で聴いてしまった。
「あらっ! 誰かと思えば、生き別れた我が息子、英裕でしょ! 相変わらずアンタ、無職なのかい?」
母の栗色のパーマ髪が、愉快そうにはためいた。
「ち、違うわい! 昨日まで、ある会社の重要ポストで働いてたんじゃい! しかもその前は、ヒーロー戦隊の要としてだな――」
ヒデヒロは、この一年余りに起こった出来事を掻い摘んで母に話した。それほど関心の無い顔で聴いていた母が、口を開く。
「いや、信じられないねぇ……。あれほどグータラだったアンタが、そんなに活躍するとは思えないよ。嘘だろ?」
「いや、ホントにホントだって! ほら、いつか『おぽちゅにてぃ』とかいう雑誌、台所に置いてあっただろ? あの雑誌で“ヒーロー運が最高”とか占いに書いてあってさ、試しにヒーロー戦隊のバイトについてみたら、あれよあれよという間に運が上がり出したんだ……。ところで母さん、あのときの雑誌、どこやった?」
「はん? そんなもの、もうとっくに捨てたわよ」
「えっ? なんてことしてくれるんだよっ。あれはオレにとって、幸運をもたらす雑誌。 それをいとも簡単に捨ててしまうとは! あれさえあれば、またオレに幸運が開けるかもしれない。……仕方ない。今すぐ、買って来るとするか!」
ヒデヒロは、ひとしきり自分の母に文句を云ったあと、帰って来たばかりの自宅の玄関を再び通り、ダッシュで近所のコンビニへと向かった。
「あるわきゃないさ。だって、あの雑誌は――」
ヒデヒロの母は、二階の窓から走る自分の息子を見下ろしながら、呟いた。
そして、徐に一階に降りた彼女は、リビングのテーブル横にある棚に手を伸ばした。そこには、いつも使いなれた抽斗があるのだ。
抽斗を、静かに手前に引く。すると中から、いつぞやの婦人雑誌『おぽちゅにてぃ』が現れた。
「だって、この雑誌は私が印刷屋の友達に頼んで作ってもらった、インチキ雑誌だもの。あるわきゃ、ないんだよ。それにしてもまさか、ここまで効き目があるとはね……。自分が産んだ息子の性格を隅々まで知る、母親の強みってやつだわ。
――まあ、あいつもあいつなりに『おぽちゅにてぃ(好機)』をモノにしたらしいし……。我が息子よ、グッジョブ!」
とっておきの高級茶葉で淹れた緑茶を啜り、かた焼きせんべいをバリッと頬張った母親は、ニマニマと、してやったりの笑みを浮かべたのであった。
〈END〉