10-2
「支店長ぉ、お茶をお持ちしましたぁ」
可愛らしい声を廊下に響かせ、お茶の入った大小二つの湯呑を乗せたお盆を両手で抱えたヒロミンが、支店長室へと入っていく。
彼女が支店長秘書となって、三か月が経過。
その間、秘書の日課として、朝の始業時に支店長室にお茶を運ぶのが仕事となっていた。
しかし、一般的な会社の秘書と支店長の関係とは、様子が違っていた。
彼女が支店長室に入るや否や、岡島支店長が支店長席からすっくと立ち上がり、その右横の位置で、直立不動となるのである。
「おはようございます! 桃井支店長秘書さま」
「うん、おはよう――。それで、業績はどんな感じ?」
どっかりと『支店長席』に腰を下ろした戦隊リーダーが、事務員用の制服スカートからにょきりと突き出た両足を交差させながら、支店長に質問する。
すかさず、摩擦熱で湯が沸かせそうなほどの熱烈な手もみを、支店長が始めた。
「は、ハイ、順調にございます。桃井支店長秘書さま」
「あら、そう。それはいいことね……。あ、これ飲んでいいわよ」
「はっ! 有り難き幸せ」
秘書が支店長に差し出したのは、地味な灰色の、チンケな湯呑の方だった。
彼女の目前に置かれたのは、まるで切株のような、大きめでどっしり重そうな湯呑。
それをを片手で持ち上げ、お茶をゴクリとやった彼女は、向かって左側の壁の方をちらりと見遣った。そこには、冴えない感じの若い男が一人、ぼーっとした表情で立っている。
それは、未だに着馴れない感じでスーツをだらりと羽織った、ヒデヒロだった。
「ちょっと、増戸支店長秘書代理補佐見習い! 何回も云ってるでしょ! 私がこの席に着いたら、すぐに業績の詳細を報告しなさいって!」
「え? ああ、ハイハイ」「ハイは一回!」「ハイィー!」
最近では朝の風物詩ともなりかけているこの毎日のやり取りを見た支店長が、人知れず溜息を吐いて苦笑いする。
支店長と同時に溜息を吐いたヒデヒロが、A4バインダーを手に、『月次報告書』をけだるそうに読み始める。
「えー、営業一課の売上10パーセントアップ、営業二課は5パーセントアップ、営業三課は15パーセントアップです。いづれも前月比。そして特筆すべきは、特別営業課。前月比30パーセントアップです」
「ほほう……。あっちゃんもなかなかやるわね。特別営業課を作り、彼を課長に据えたのは間違いではなかったわ」
踏ん反り返った秘書が、満面の笑みを浮かべた。
「はい、支店長秘書。彼はなかなかの馬力を持ってます。驚異的な体力とそのゴリ押しで、売り上げをぐんぐん延ばしているようです。特筆すべきは、他課への効果波及です。特別営業課に引き摺られるようにして、やる気を出した他課も成績をアップしているものと考えられます」
岡島支店長も、上機嫌で分析する。
「で、タケシの営業戦略室の方は?」
「こちらも順調です。特別営業課の営業成績アップは、戦略室の営業戦略と商品企画によるもの、と云っても過言ではありません。私も長年商社の人間をやっておりますが、営業戦略室室長の、えーと――タケシさんでしたか――彼ほどの発想力の持ち主は見たことがありませんよ」
秘書代理補佐見習いとしての台詞をすべて支店長に奪われたヒデヒロが、憮然とした表情で立ち尽くす。
一方、ヒロミンの笑顔は、増々、明るさを帯びていく。
「――良く判りました。支店長の解説は、いつもながらわかりやすくてよろしいわ」
「お褒めに預かり、光栄です」
「ヒデヒロ、あんたも少しは見習いなさい……。ああ、もうこんな時間? 社内巡回の時間ね。さ、行きましょうか」
颯爽と歩きだす秘書の後に、支店長と秘書代理が続く。
見た目的には、小柄な女性秘書が支店長とその小間使いのような男を笑顔とともに案内しているように見える。だが、実際は違っていた。秘書が、男二人をぐいぐいと引っ張っているのだ。
支店長室に閉じこもって毎朝のゴルフに勤しむような支店長から解放され、支店長に気軽に声を掛けられるようになった社員達の動きは、きびきびと軽い。
(こういうのも、トップの仕事なんだな)
ヒデヒロは、この巡回を支店長に進言したヒロミンの大きさを改めて感じた。
特別営業課では、今ではすっかり彼のトレードマークとなった『真赤な完熟トマト色のネクタイ』をビシッと決めたあっちゃんが、数人の部下の前で、熱く仕事について語っていた。
営業戦略室では、タケシがホワイトボードを前にして、今後の営業戦略を部下たちと練り上げ中だった。タケシの切れ長の目が部下たちを刺激しているのか、部下たちの表情は真剣そのものである。
満足気に頷く秘書に、支店長が大きく相槌を打つ。
(くっそぉー。どうしてオレだけ、秘書代理なんちゃらかんちゃらなんだよ……。アツシとタケシ、アイツらめっちゃカッコ良いのに……。リーダーの雑用係ってだけのオレと大分違うな!)
二人の男の働く姿に目を綻ばせるヒロミンの横で、密かにいじけるヒデヒロなのだった。