8-2
「さあ、着いたぜ」
あっちゃんの車が、ヒロミンのアパート横の、空間に停まる。
後部座席のドアを開けたヒロミンが、辺りに誰もいないのを確認し、バスタオルに包まれた格好で自分の部屋を目指してダッシュした。そのすぐ後ろを、半裸のニート男が忍者のように追いかけていく。
あたかもそれは、現場を取り押さえられ、慌てて逃げようとする不倫カップルさながらの様子だった。
「車はこの辺の空き地に停めて置いても大丈夫かな――ってあれ?」
運転席から降り、二人に声を掛けようとした時には、彼らは既に部屋の中へと跳び込んでいったところだった。
「ちっ! オイラに『お礼』の一つもないのかよ……。バイト先を裏切って命がけで助けてやったっていうのに……。ヒーローがそれでは、世も末だわ」
肩を竦めたあっちゃんが、車を近くの空き地に移動させる。
明りがついたばかりの部屋に向かい、ドアノブに手をかける。鍵は、掛かっていない。呼び鈴も鳴らさず、ズカズカと小さなアパートの玄関を通り過ぎた。
「ちわー。ごめんくだせえ」
アツシが部屋に入ったときには、とっくにラフなジャージに着替え終わり、ガラステーブルの前で缶ビールを煽って佇む、ヒロミンとヒデヒロがいた。
「…………」
まるで、お通夜。
二人の視線は斜め下四十五度向いており、その先には、ただ冷たい床があるだけだった。
「……。おいおい、どうしたんだよ、そんなに暗い顔してさ」
勝手に冷蔵庫のビールを取り出したあっちゃんが、二人の間に座る。
「久しぶりに再会したんだぜ! 喜ばしいじゃないか。それに、もう少しオイラに感謝してくれても――」
赤シャツの言葉を遮り、ヒデヒロがぽそっと質問をした。
「お前、どうしてあそこの銭湯に?」
「ああ、そのことか?」
あっちゃんは、そこまで訊いていないのに、高校卒業後に一度就職したが一年前位に辞めてしまったこと、ここ数カ月は親の目から逃れるためにほとんど車に寝泊まりしていたこと、今回は単発バイトで募集の口を見つけ、夜間だけの銭湯の番台の仕事をここ数日勤めていたことなどを、早口でまくしたてた。
「――なるほどな。うんうん、そういうことだったか。まさに、感動ストーリーだ」
ニートの身の上をダブらせ、目に涙をためながら拝聴したヒデヒロ。
「何が『感動』ストーリーよ! そんなのただのグータラ話じゃない。同じ『カンドウ』でも、それは親から縁を切られる『勘当』ストーリーだわっ!」
「…………」
ヒロミンの血も涙もない突っ込みに、二人の男は沈黙した。
だがすぐに気を取り直したあっちゃんが、陽気に口を開く。
「しっかし、変だと思ったぜ。仕事は一日ごとの更新だって云うし、結局ここ数日は誰も来なかったし……。それに、玄関の張り紙も意味が解らなかったしな。けど、時給は結構良かったから、もう少し続けたかったよ」
缶ビールをテーブルに置いて一息入れたアツシが、何かとんでもないことを気付いたらしく、クマのような雄叫びをあげた。
「あーっ! 今日のバイト代、貰い損ねた!」
床をのたうち廻る幼馴染みを前に、これで二人目の犠牲者だな、とニヤつくヒデヒロ。ヒロミンの表情には当然ながら、そんな細かいことを気にしている素振りはない。
暫く続いた大騒ぎの後に訪れたのは、元の静寂だった。どよん、と海の底まで沈んでいくような、そんな雰囲気が部屋に広がる。
「あんたも、やっぱりここに居座る気……なのよね?」
ぼそり、ヒロミンの口から漏れた言葉。
なぜそんな当たり前のことを訊くのかと呆然自失の表情のまま、「当然だ」という感じであっちゃんが頷く。
仕方ないわね――
肩を竦めて、ヒロミンが立ち上がった。
「じゃ、あたし疲れたから寝るわね。あとはヒデヒロ君、よろしく」
このチームのリーダーは私とばかりに子分に指令を与えて奥に引っ込もうとする、ヒロミン。が、一旦彼らに向けた背中を反転し、二人のいる方向に振り返った。
「あ、それから、この家の『しきたり』を、きちっと教えといてね」
ヒロミンは、がっちんと引き戸を閉めた。
「何だよ、しきたりって」 あっちゃんの訝しげな表情。
「要するに、ヒロミン姫に手を出すなっていうことさ」
「ふうん、あんなに恐ろしいヤツに手なんか出す訳ねえのにな――って、おい、まさかオイラたち、この冷たい板の上に寝るのか?」
「そうさ、当たり前だろ? オレたち、ヒーローといったって、イソーローなんだぜ」
澄ました表情でテーブルを横に追いやり、ヒデヒロがフローリングの上に毛布を敷きだした。
「……そうか。わかった」
あっちゃんも観念したのか、黙って就寝準備の手伝いを始める。
「ヒデヒロ……。お前、この生活に慣れきってるな……」
「ああ、まあね。他に生活する場所もない訳だし……。じゃあ、お休み」
銭湯でのドタバタ的戦闘がまるで嘘であったかのように、静かに横になったヒデヒロ。電気を消され、無理矢理就寝させられたアツシが、真っ暗な中で考えた。
(この戦隊、本当に大丈夫なのか?)
遠くで、夜の静寂を悲しげに突く、犬の鳴き声が聞こえた。