7-3
一方、こちらは女湯。
ヒデヒロの悲痛な叫びが聞こえたのと、同時だった。
ゆったりと湯船に浸かるヒロミンの前に、温泉タオルで目隠しをしながら手探りのような恰好でよたよたと進む、巨体の男が現れたのだ。
(罠? 逃げろ? どうやら、そうみたいね。でも……もう遅い)
ヒロミンには、現れた男の容姿に見覚えがあった。いつか会社に支店長と密談をしていた、工藤エージェンシーとかいう会社の社長。多分、ヒデヒロが奪ったヒーロー・スーツの本当の持ち主だろう。
「さあさあ、お嬢さん。捕まってもらいますよぉ。あ、でも私は目隠しをしてますので、大事なところは見えてませんから。どうか、ご心配なく――」
まるで、フランケンシュタインかキョンシーのよう。
両手を前に差し出して、ノロノロと迫りくる。
(目隠しをしたまま、捕まえられる訳ないでしょ。女を、甘く見過ぎ!)
なるべく音の出ないようそっと湯船からあがると、洗い場の黄色い洗面器と石鹸を両手に持ち、そろそろと工藤社長に近づいていく。
「見えてませんからねぇ、お嬢さぁーん。大人しく捕まってくださいよぉ」
どんどんと妙な甘さを加えていく、男の声。
時代劇で町人の娘を手籠めにしようとする悪代官のシーンを思い出し、ヒロミンの背筋が寒くなる。
巨体の男は横に避けたヒロミンの前を通り過ぎて、まっすぐ湯船へと向かって行った。
(確かに、見えてない様ね)
そう思って社長に近づいた、その瞬間だった。
くるり、反転してこちらを向いたその男は、目隠しタオルの隙間から、上目遣いのニヤけた眼つきでヒロミンを見据えたのだ。
「――って、見えてんじゃねえかよ!」
左手の石鹸を男の足元にことりと落とし、それと同時に、右手の洗面器を使って男の横っ面を思いっきり叩く。
それはまさに、眼にも止まらぬ速さであった。
ぐはっ
叩かれた勢いと足裏下にあった石鹸が滑ったのとで、ひっくり返った工藤社長は、銭湯のタイルの上で、そのまま大の字に倒れた。
呻き声もなく、ピクリともしない。完全に、気を失ったようだ。
「へへん、ざまあみろってんだ」
仕上げとばかり、もう一度社長の頭を洗面器でひっぱたく。そして、洗面器を横にぶん投げて、脱衣所へと移動した。
「えっ? 嘘でしょ?」
脱衣籠の中を見ると、そこにあるはずのピンク色の戦闘服がないのだ。
ただ、下着類はきっちりと残されていた。
(そうか奴ら、あの服を奪うために銭湯を貸し切って……。してやられたっ! にしても、私の下着だけ残されているのは、何かちょっと凹むというか、腹が立つわね)
しかし、時既に遅しだった。彼らの策略に、まんまと嵌められたのだ。
ヒロミンは悔しさを感じながら、とりあえず下着を身につける。
と、隣の男湯からどんがらがっしゃん、ヒデヒロが追っ手とやり合っているらしい、派手な騒音が聞こえてきた。
「おお! 頑張れ、ミドリ!」
と、そのときだった。
脱衣所の入り口から、にょきっと逞しい男の腕が、にょきっと生えて来たのだ。その手には、大きなバスタオルが握られている。
「これを使え! そして、捕まりたくなければ、オイラについて来い!」
それは、若い男の声だった。
またしても罠? と一瞬、躊躇ったヒロミン。
だが、背に腹は代えられない。
ええいままよとばかり、ネズミだかハムスターだか、ヒゲの生えた小動物の絵があちこちにプリントされた大型のバスタオルを奪い取るようにして入手すると、それを素早く体に巻き付けたのだ。
それから、直ぐに脱衣所の外へとダッシュ。
そこには、先程銭湯の入り口の番台で見かけた、赤いシャツの男が立っていた。
「こっちだ」
男は、サムアップした右手を、玄関横にある従業員用通用口のドアに向けた。
(アイツ――一体、誰?)
女の感がそうさせるのか。疑問に思いながらも、戦隊ヒーローのリーダーが謎の男の指示に大人しく従う。
従業員用通用口を通り過ぎようとしたときだった。
ヒロミンは、忘れもしない男――会社の上司である山口支店長が、番台の前で何やら一人の汚らしい服装の男と口論になっているのが見えたのだ。
「だから、もう『ヒーロー・ヒロイン 無料開放デー』は終わったんだって。大人しく帰ってくれよ」
「なあに、云ってるだぁ! オラ、さっき変な服着た二人がここに入ってくの見ただぞぉ。こう見えてオラ、かつては『北の流れ星』といわれたほどのヒーローの端くれだぞぉ。いいから、風呂に入らせろや」
「だからね……。いや、困ったな」
どう見ても、長年『流れ星』の如くあちこちの路上を彷徨っている初老のおじさんにしか見えない。
レゲエ風の苦み走った服装を振り乱しながら、玄関前で支店長に食い付いている。
(逃げるなら、今ね!)
隙を突き、通用口から外に出ようとした、そのときだった。
洗面器に備え付けドライヤーに脱衣籠……。風呂屋に備え付けの物品を手当たり次第に掴み、スーツ姿の男にそれをぶん投げて逃げ回る、ヒデヒロの姿が見えたのだ。
「どわりゃー」
「いってぇな! お前、物を投げすぎだぞ! とっとと捕まれ!」
物品の雨あられの中、今田が疲れ気味の声を出した。
と、胸に「貧乏金無し」の文字を躍らせた赤シャツ男が、ヒデヒロの視界へと入って来る。
「英裕、こっちだ!」
「あ、お前は番台バイトの! 裏切る気か」
ヒデヒロを誘導する男を見た今田が、叫ぶ。
だが、レゲエのおじさんとの交渉が長引いている支店長は、状況をまだわかっていない。
(あれ? どうしてこの人、ヒデヒロの名前を?)
デパート男から逃げることしか頭の無いヒデヒロは、赤シャツに従い、猛突進。
そして、誰もいない番台を生まれたままの姿で回り込んだ彼が、バスタオルを巻いたヒロミンの前に姿を現す。
うっぎゃああ
風呂屋に、いい感じでエコーのかかった彼女の狂気の声が、木霊する。
けれど、そんなことにお構いなし。筋肉隆々な赤シャツ男の腕はヒロミンの腕をがっしと掴んで離さない。そのまま、従業員通用口へと向かっていった。
そんな風呂屋で繰り広げられる逃走劇にやっと気付いた、支店長。しつこいおじさんを振り切りにかかるが、そこは百戦錬磨のおじさんだ。軽妙に、彼の行く手を阻む。
とそこに、今田が番台近くへやって来る。その視界に入らなかったのだろう、彼はレゲエ風のおじさんに突っこんで来たときの勢いのままぶつかってしまった。
まるで、ボウリングだ。
男三人がぶつかり合って絡まって、床に倒れ込む。
という次第で、棚ボタ式に彼らを巻いたヒデヒロ。
謎の番台男とヒロミンの二人に、ようやく追いつく。
「英裕、これを!」
彼が手渡したのは、これまた、バスタオルだった。
黒や黄色やピンクに青――まるで幼稚園の子どもが手当たり次第にクレヨンで塗りたくったような、不思議な模様の代物だ。
(うわっ、ダサッ……。私、こっちのタオルでまだ良かった)
(うわっ、ヒロミンのバスタオル、超ダサいじゃん! こっちので助かったな)
密かに、お互いほくそ笑み合う、二人。
と、そんな彼らの心情など読み取れないソフトモヒカンの男が、彼らを急がせる。
「さあ、早くこれに乗ってくれ」
彼は、従業員通用口の横に停められた完熟トマトのように真っ赤な色をした、小型乗用車を指し示した。
男が鍵から電波を飛ばし、ドアを開ける。すぐさま、バスタオルに包まった二人の男女が、後部座席に滑り込んだ。それを確認した男は、意気揚々と云い放った。
「しっかり捕まってろよ。飛ばすぜッ」
低燃費で低騒音――これが売りと思われる車を、あらん限りの力でエンジンを吹かしあげる。夜の住宅街にけたたましい音を残し、車は走り出した。
その直後だった。
何とか態勢を取り戻した支店長と今田が、その場にやって来たのは。そこには、ただ車の残響音だけが残っていた。
「くっそぉ、逃げられた……。それにしてもあのバイトだ。どうして、裏切った?」
「さあ……。どうしてですかね?」
肩をすくめる今田の横で、山口支店長は悔しがり、暫くの間、激しく地団駄を踏み続けた。
一方、その頃――
男湯では、ヒゲと髪が伸び放題の男が、小汚いタオルを頭に載せてゆっくりと湯船に浸かっていた。
「いい湯だ……。何年ぶりだろう」
男は、幸せ一杯、ご満悦の表情を浮かべながら、体にじんわりと浸み込む久しぶりの「お湯」の感触を楽しんでいた。