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そんな増戸英裕の就職活動の日々から、あっという間に一年が過ぎた。
世の中は、当たり前のようにまた夏を迎えていた。ここ最近の傾向に沿うように、今年の夏も問答無用に暑い。よく聞く、地球温暖化てヤツのせいなのだろう。
この北の大地「北海道」でも、それは同じことだった。
普通だったら滅多にやってこない台風が次々と北海道を襲う。例年なら爽やかな風の吹きぬける夏のはずが、連日三〇℃を超えるような天候が続く。
そんな状況にはほとんど不慣れな北の人々は、精神に異常でも来たしたのか、まるで念仏でも唱えるかのように「異常気象」という言葉を、事あるごとに口にした。
そんな世間を取り巻く狂気は、当然、この家にも満ち満ちていた。
札幌のやや郊外にある、閑静な住宅地。
二階建て住宅の一階窓から響くのは、中年女性のけたたましい声だった。
「英裕、いつまで寝てんの! とっとと起きて、就職活動したらどうなの!」
それは、近所の人々の耳の奥にまで届く勢いがあった。
声の主は、増戸利子、四十九歳のパート主婦だ。
数秒の間、利子は二階から何らかの動きがあるのを待っていた。しかし、声はおろか、物音ひとつしない、その有様。
利子は、「まったくもう……どうなっちゃってるのよ」と呟きながら、パートの仕事へ向かう支度を始める。
――そんな生活が続いて、早や、五カ月が経つ。
ヒデヒロは、くしゃくしゃになった布団の中でうずくまり、母親の声が聞こえないよう、両手で耳を塞いでいた。
(あーあ。やっぱり実家になんて、帰ってこなければ良かった――)
昨年の懸命な就職活動にもかかわらず、ヒデヒロは就職先が見つからなかったのだ。結局彼は、札幌の実家に、四月から戻ってきていた。
「じゃあ、母さんは仕事に行ってくるからね。今日は必ず、ハローワークに行きなさいよッ!」
がちゃり、玄関のカギが閉まる音が、微かにした。
(うっせえなあ……)
布団の中で息を潜めたヒデヒロが、そのくぐもった世界で、大きく息を吐き出す。
(はぁ……。まさか、自分がニートになるとは……)
一年前のヒデヒロには、考えもつかなかったことだ。
自分で自分に、呆れてしまう。
布団の創り出す暗闇の中で、耳を澄ます、ヒデヒロ。だが、物音は一切しない。
万年係長でさえない父親と、今どきの見た目の子高生の妹、そして母親の四人暮らしの家である。
一番遅くに帰って来て、一番早くに家を出る父親は勿論のこと、女子高生だって朝は早い。だから、二人はとっくに自分の行くべき場所に出かけている。
先程、母親が外出したのであるから、四引く三は一である。誰だってわかる計算だ。
当然、今この建物にいる人間は、彼一人のはずだった。
だが、彼はまだそれを信じていない。
確認のため、もう一度耳を澄ましたヒデヒロ。やはり、物音はしなかった。
ようやく安心したらしい彼は、布団の塊から鈍り切った体を抜け出させ、これから外気により熱せられていくであろう、部屋の空気を吸った。
澱んでいる。この部屋の中の何もかもが、澱んでいる。
いつもはほとんど開けない自分の部屋のカーテンを開け、澱みを打ち消そうとした。
でも、その二階の窓から見える景色は、かつて高校生の時代までに見飽きてしまった、ごくありきたりなものだった。
とてもとても、彼の心からそれを消し去ることなどできない。
カーテンレールの擦れる音とともに、カーテンは再びその部屋を、外界とは隔絶された空間へと戻してしまった。
(就職する意志さえあれば、ニートじゃないんだよな)
彼は、そうやってこの半年、自分自身を励ましてきた。
でも、そんな言葉に、一体何の意味があろう。
この半年の間、ハローワークはおろか、自宅の外には一歩も出ていないのだ。誰が何と云おうと、どこからどう見ても、彼は明らかに、「ニート」だった。
ぎいぃ……。
誰もいない家の中、ドアが音を立てないよう、必要以上に気を配る。首だけ廊下に出し、素早く左右を確認する。
きいこ、きいこ。
抜き足差し足。ゆっくりと、階段を下りていく。
ふうぅ――。
こうしてようやく目標の台所まで辿り着いた彼は、一際大きな溜め息を吐いた。
小さな呻き声のような音を立てながら、彼の前に立ちはだかる、冷蔵庫。
エイヤッ! とばかりドアを開けた冷蔵庫の中には、いつもどおり、ラップで包まれた彼の朝食――目玉焼きが置かれていた。
(なんだかんだ云っても、やはり頼れるべくは母親――)
なんて思ってしまった自分に、ヒデヒロは愕然とする。思わず、「って、何考えてんだよ!」と声を出し、自分で自分に突っ込んだ。
子どもの頃から、いつも横から騒ぎたて、うっとうしいばかりだった母親。
そんな母親からどうにかして離れたいと、無理矢理に東京の大学に進学を決めたのは、今から五年前だ。それなりに楽しい学生生活の後、まさかこんな惨めな境遇になり、母親のお世話になるとは……。
ラップを剥がし、目玉焼きを素手で掴む。
そのまま口に中に放り込み貪ると、涙と鼻水の味で口が充満した。
げほっ、げほっ。
むせた胸を楽にしようと、右手が勝手に、テーブルの上の飲み物を探し始める。けれど当然、そこには何もない。右手は、ただ空を切るばかりだ。
げほっ?
ヒデヒロは、あまり見たことのない本が一冊、テーブルの上に載っていることに今更ながら、気が付いた。
どうやらそれは、母親が読んでいるらしい週刊の女性誌のようだった。