6-1
「遂に『ヒーローは忘れたころにやって来る』作戦を決行するときが来たわよ! あ、やっぱりやめた! 『ヒロインは忘れたころにやって来る』作戦に名前を変更」
支店長室に例の来客があった、数日後の夕方のこと。
着替えもそこそこにして、会社から帰宅したばかりのヒロミンが鼻息を荒くして、ヒデヒロに決意を告げたのだ。
「あ、そう……」
そんな名前どっちでもいいよ――という表情をあからさまに見せながら、ヒデヒロは台所のフローリングの上で寝そべって、ヒロミンに視線をゆっくりと向けた。その眼は、ニートで引きこもりだった頃のそれに、逆戻りしている。
「ちょっとアンタ、本当のヒモになる気? とっとと、着替えてッ!」
「ああ、うん……」
すぐにパンツ一丁になったヒデヒロが、ここ数日のニート生活で培った横っ腹のぷにょぷにょをプルンプルンと震わせて、緑一色の衣装に足と手を通し始める。
「だぁかぁらぁ、そこで着替えないでって云ってるでしょ? 私がいる時はトイレで着替えなさいって、何回も云ってるじゃない!」
「ああ……ハイ、ハイ」「返事のハイは一回!」「わかった、わかった。ふぁーい」
不満そうに下唇を突き出したヒデヒロが、緑色の衣装を床に引き摺りながら、トイレへと入っていく。
「もう! アイツ、本当にダメ人間になっちゃうよ」
首を頻りに横に振って、トイレのドアを見遣ったヒロミンだった。
それから、数時間の後のことだった。
「岡本商事」の暗く人気の無い廊下を、全身ピンク色の人物がまるで水を得た魚のような動きで、スルスルと進んでいた。そのすぐ後を、緑色の衣装を着た人物が、まるで電気ショックを浴びた魚のような動きで、おっかなびっくり、追いかけて行く。
二人の動きを捉える、監視カメラ。
「なぁ、これだけ捜したんだよ……。そ、その秘密文書とやらは、もうここに無いんじゃないのかな? お、大人しく、帰ったほうがいいと思うけど……」
鈍りに鈍ったった体が、声なき悲鳴をあげている、彼。
池の中から後光とともに現れた女神さまを拝むような目付きで、前を行く戦隊の隊長に向かって、息も絶え絶え、訴えた。
すかさず、ピンク色の戦隊ヘルメットを、激しく左右に振った隊長。
「いんや、必ずある。絶対に、あるんだから――」
ヒデヒロの弱気を、そのやや高音の声で木っ端微塵に打ち砕いたピンク色の戦士が、そのままの勢いでずんずんと廊下を突き進んで行く。
背中を曲げ、しょぼくれた格好の緑戦士が、渋々、後を付いて行った。
そんなこんなでたどり着いた、廊下の一番奥の部屋。
岡本商事札幌支店、支店長室だ。
ここには、今までも幾度となくやって来ていた二人だったが、この場所の鍵だけは開けることができなかったために、すごすごと退却していたのだ。
「あれ……? 支店長室のドアが開いてるわッ! あの支店長ったら、鍵を閉め忘れたのね! ホント、不用心なんだからさぁ」
ここに忍び込んだ自分の目的も忘れ、いち会社員としての発言をしてしまった、営業事務職員のヒロイン。相棒のもう一人の戦士が、小さく肩をすくめて大袈裟に呆れ顔を作ったが、ヘルメット越しにでは、その渾身の表情は彼女に届かない。
かちゃ――
ドアノブを押して、二人のコソ泥戦士が支店長室へと侵入する。ヒデヒロが手にした懐中電灯から発した光が、白い高級壁紙の張られた壁を薄暗く照らし出す。
「なあ、ヒロミンの云う秘密の文章みたいなのが本当にこの事務所にあるのかな? これだけ捜して見つからなかったんだから、文書そのものが無かったって風に考えるのが無難じゃない?」
「さっきから、うるっさいわねえ……。
だって、おかしいと思わない? これだけ噂になってるのに警察にも届けないんだよ! 絶対、何か怪しいことやってるに決まってるわ!」
「ま、確かにそうだけどさ――」
まずは、一般社員のそれの倍くらいの大きさはあろうかという、支店長の机の前にやって来た二人。
「あれ? これって……」
机の上には、これ見よがしに小物入れのような革製の袋が置かれていた。仕事のほぼすべてがゴルフという支店長が使っているゴルフ用品に、間違いない。
――イタダキッ!
目の前の革袋へと手を伸ばそうとするたヒロミンの手を、その中間の位置で掴んだヒデヒロが、ぶんぶんと首を振った。
「何か、おかしくないか? 今まで立ち入れなかった部屋の鍵が開いていて、しかも、わざとらしく支店長席の上に荷物がある。きっと、罠だよ。袋を開いた瞬間に変なガスがぶわッと出てきて、気を失うとか……」
「はあぁ? 何それ? そんなのスパイ映画じゃあるまいし、あるわけないじゃない……。
例えもしそうだとしても、それくらいのことでビビる私ではないわ! これは、千載一遇のチャンスなの! 手をどけてっ!」
「わ、わかったよ……」
言葉の機関銃的な勢いに負けたヒデヒロが、渋々、その手を離す。
ずっと手を握られていたせいなのだろうか――。
幾分、ぎくしゃくと動きのおかしい感じの、女戦士。しかし、ヘルメット越しにでは、彼女の表情を読み取ることはできない。
「……それじゃ、いくわよ!」
革袋の紐を器用に解くと、その中にあったものをエイヤッと机の上にぶちまけたのだった。