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第2話「後輩の感情は処理不能です」

---


 研修初日の朝は、いつもより少しだけうるさい。


 新人が来るからだ。


 フロアの空気が、微妙に浮ついている。

 視線が、入口のほうに向いている。


 非効率。


 私はヘッドセットを装着して、ステータスを「待機中」に変えた。


 ——感情は、業務に不要。


 今日も、それだけだ。


「結城さん、今日の研修担当よろしくね」


 緑さんが、朝から軽い声で言った。


「了解しました」


「天城くん、やる気はあるみたいだから」


「やる気は評価指標に含まれません」


「うん、まあ……そうなんだけどね」


 少しだけ笑って、


「まあ、よろしく」


 曖昧。


 定義不明。


 とりあえず保存する。


「結城さん! お世話になります、天城 陽斗です!」


 振り向くと、昨日の顔があった。


 背が高い。

 声が大きい。

 笑っている。


 昨日と、変わっていない。


「よろしくお願いします」


「今日からよろしくお願いします!」


 もう一度言った。


 一回で足りる情報だった。


「……はい」


 私は隣の席を指した。


「座ってください。まず基本フローを説明します」


「あ、マニュアルって昨日配られたやつですよね、読みました」


「どこまで」


「えーと、最初の三ページくらい」


 全体は四十二ページある。


「……続きを読んでください」


「あ、でも読むより実際にやったほうが早くないですか?」


 一瞬、処理が止まる。


 早い。


 効率的。


 だが。


「手順を理解しないまま対応すると、判断にばらつきが出ます」


「でも結城さんって、マニュアル見ながら対応してないですよね」


 正確な観察だった。


「内容が定着しているので不要です」


「じゃあ俺も定着させながら覚えます」


 論理的に見えて、論理ではない。


「……まず読んでください」


 天城さんは「はーい」と言って、マニュアルを開いた。


 三分後、着信が入った。


 私が取ろうとすると、天城さんが先にヘッドセットを装着した。


「お電話ありがとうございます、サポート窓口の天城です」


 止める間がなかった。


 私はモニタリング用の端末を開いた。


『もしもし……あの、ちょっと聞いてもいいですか』


 音量:低。

 語速:遅い。

 感情:遠慮+不安。


 高齢女性。

 クレームではない。

 問い合わせ。


 標準フロー、適用可能。


 天城さんが答えた。


「もちろんです、どうぞ」


 マニュアルには「ご用件をお聞かせください」と書いてある。


 逸脱。


 記録する。


『あのね、息子に設定してもらったんだけど、昨日から急に画面が変わっちゃって、使い方がわからなくなってしまって……』


「あー、それは困りましたね」


 共感フレーズ、早すぎる。

 原因確認が先。


 記録する。


『そうなの、困っちゃって。息子に電話したら仕事中だって言うし……』


「お忙しい中、ご連絡いただいてよかったです」


 マニュアルにない文言。


 記録する。


 天城さんはそのまま、顧客の話を聞き続けた。


 遮らない。

 急かさない。

 ただ、「うん」「そうなんですね」と返し続ける。


 非効率。


 処理速度、遅い。


 だが——


 顧客の声が、少しずつ変わっていた。


 遠慮が、薄れていた。


『それでね、ここを押したらいいのかしら』


「そうです、そこです! 正解ですよ」


『あら、できた。あらまあ』


「よかったー。最初から全然できてましたよ、大丈夫です」


『そう? ありがとうね、優しいのね』


「またいつでも電話してきてください」


『はい、そうします。ありがとう』


 通話終了。


 時間:十二分台。


 フロア平均より、遅い。


 天城さんがヘッドセットを外した。


「どうでしたか」


「……逸脱が多い」


「え」


「マニュアルに規定されていない文言を七回使用しています。共感フレーズのタイミングが早く、原因確認が後回しになっていました」


「でも、解決しましたよね」


「解決しています」


「じゃあ、よくないですか」


 処理継続。


「再現性がありません。あなたが次回同じ対応ができる保証がない」


「そうかもしれないですけど」


 天城さんは、少し首をかしげた。


「あのお客さん、最初すごく不安そうだったので、まず安心してもらおうと思って」


「それは手順に含まれていません」


「でも不安そうだったんです」


「根拠は」


「声が、なんとなく」


 なんとなく。


 定義不能。

 数値化不能。

 再現不能。


「それは感覚です。業務の根拠にはなりません」


「でも結局お客さんが落ち着けばいいんじゃないですか?」


 反論を、組み立てようとした。


 ——出なかった。


 出なかった。


 私は端末に視線を戻した。


「……記録をつけます。次は手順通りにやってください」


「はい」


 天城さんは素直に答えた。


 反論しなかった。

 傷ついた様子もなかった。


 ただ、少しだけ笑っていた。


 その笑い方が、何なのか。


 分類不能。


 保留。


 午後に入って、三件目の着信だった。


 今度は天城さんが私を見た。


「これ、怒ってる感じですか」


「声のトーンから、苛立ちが推定されます」


「どう対応すればいいですか」


「まず謝罪。次に原因確認。解決策の提示。順番通りに」


「感情は」


「処理します」


「俺、感情を処理するのが苦手で」


「練習です」


 天城さんは少し考えてから、ヘッドセットを装着した。


『もしもし! 何度かけても繋がらなかったんですけど!』


 音量:高。

 語速:速い。

 感情:苛立ち。


「大変お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」


 謝罪、先。

 正しい。


『待たせすぎでしょ! こっちは忙しいのに!』


「本当に、そうですよね。お時間取らせてしまって……」


 私は端末で状況を確認しながら、天城さんの声を聞いていた。


 怒りを受け止めている。

 流してはいない。

 ただ、そこに置いている。


 謝罪が終わると、自然に原因確認に入った。

 手順通りだった。


 八分後、通話は終わった。


「……どうでしたか」


 今度は天城さんが聞いてきた。


 私は記録を確認した。


「手順通りです」


「よかった」


「ただ、謝罪フレーズが一回多い」


「怒ってたので」


「怒っていても、回数に規定があります」


「そういうもんですか」


「そういうものです」


 天城さんは「ふうん」と言った。


 否定でも、納得でもない。


 ただ、聞いていた。


「結城さんって」


「はい」


「怒ってる人と話すの、怖くないですか」


「怖いという感覚がよく分かりません」


 天城さんが、私を見た。


 朝と同じ顔だった。


 理解できない、という顔。


 だが——


 馬鹿にしていない。


「……そっか」


 それだけ言って、端末に視線を戻した。


「俺は怖いです、やっぱり」


「慣れます」


「結城さんみたいになれますか」


 一瞬、処理が止まる。


 結城さんみたいに。


 定義、曖昧。


「……目標設定が抽象的です」


「じゃあ、結城さんの半分くらい」


「それも抽象的です」


 天城さんが笑った。


 声が出る笑い方だった。


 私は端末に視線を戻した。


 問題はない。


 定時になって、天城さんが席を立った。


「お疲れ様でした。今日はありがとうございました」


「お疲れ様です」


「明日もよろしくお願いします」


 また深く頭を下げた。


 一回で足りる情報だった。


 それでも——


「……よろしくお願いします」


 答えていた。


 天城さんが去っていく。


「お疲れ」


 緑さんだった。


「初日の研修、どうだった」


「逸脱が多い。マニュアルの習熟も不十分です」


「うん」


「再現性のない対応を多用しています」


「うん」


「改善点は複数あります」


「うん」


 緑さんは少しだけ間を置いて、


「でも?」


 一瞬、処理が止まる。


 でも。


 接続詞。


 逆接。


 何が逆接なのか。


「……問題なく初日を終えました」


「そっかあ」


 緑さんは、また少しだけ笑った。


 何がおかしいのか、分からなかった。


 帰り支度をしながら、今日の記録を整理する。


 逸脱、七回。

 手順外フレーズ、複数。

 根拠が「なんとなく」。


 問題点は明確だ。


 だが。


 ——でも結局お客さんが落ち着けばいいんじゃないですか?


 あの反論に、私は答えられなかった。


 答えは出ている。


 再現性。

 標準化。

 品質の安定。


 それが正しい。


 なのに。


 出なかった。


 エレベーターのドアが開いた。


 乗り込んで、閉じるボタンを押した。


 ——感情は、業務に不要。


 そのはずなのに。


 反論が出なかった、という事実だけが。


 ノイズのように、残り続けていた。



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