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王が見たかったもの

作者: 雉白書屋
掲載日:2025/11/28

「王様、お体が拭き終わりました。他に、私たちにお申し付けたいことはございますか……?」


「……いや、もうよい。下がれ」


「はい……」


 女たちは火明かりを揺らし、王の寝室から足早に立ち去った。肩を震わせ、すすり泣く声を引きずって。


「王、失礼いたします」


「ああ……」 


 側近が静かに入室した。ベッド脇に膝をつき、王の手の甲にそっと口づける。冬の枯れ枝のように細った腕は、血の気を失って冷えきっていた。その冷たさが胸を締めつけ、側近は思わず目を伏せた。

 王は浅い息を吐くと、喉を震わせ、短く咳き込んだ。側近は慌てて立ち上がり、そばのテーブルの水差しに手を伸ばしたが、王は弱々しく手を振って制した。


「よい、いらぬ……」


「はっ……」


「……まったく、女たちには参るな。あれでは、こちらの気まで沈んでしまう」


「王をお慕いしているからこそでございます……ですが、注意はしておきましょう」


「いや、よいよい……。じきに死ぬことに変わりはない」


「そんなこと、どうかおっしゃらないでください……」


 王は年老いていた。数多の戦と渇きと飢えを乗り越え、長きにわたり国を治めてきた。しかし今は病に伏し、もはやベッドから起き上がることすらかなわない。身体だけでなく、心もまた弱っていた。

 己の死期が迫っていることは、とうの昔に悟っていた。民がその死を恐れ、悲しんでいることも。

 民からの愛情。それは誇りであり、何にも代えがたい宝であった。愛おしく、同時に残念に思った。もうじき別れねばならぬということを。

 ゆえに王は唾を飲み込み、掠れた声を絞り出す。


「やつを呼べ……」


「例の占い師……でございますか? かしこまりました」


 側近が部屋を出て、ほどなくして占い師が姿を現した。黒いローブをまとった小柄な男で、灯火を受けて影が長く伸びている。側近は背後に立ち、怪しい動きを見逃すまいと目を光らせた。


「王様、ご機嫌麗しゅうございます……」


「挨拶はよい。以前頼んだものはどうだ」


「ええ、こちらに……」


 占い師は懐から小さな白い瓶を取り出した。側近は背後から覗き込むと、眉をひそめた。


「王、それは……?」


「ああ……。占い師よ、話せ」


「はい。王様はこの国の未来を案じておられます。ゆえに私をお呼びになり――」


「一から語らずともよい」


「おお、そうですな。王様にはお時間が、あ、いえ、失礼を。えー、この薬をお飲みになれば、未来をご覧になれましょう」


「未来を見る……ですか?」


 王の心を最も重く占めていたもの、それは国の行く末だった。己の死後、この国はどうなるのか。民は幸福に暮らしていけるのか。その答えを知らぬまま死を待つことは、毒を飲むよりも苦痛であった。

 ゆえに王は占い師に命じた。未来を映す薬を作れ、と。


「さあ、早くそれを寄こせ。そして、二人とも下がるのだ。誰にも邪魔されたくはない」


「ええ、では……」


 王は震える手で瓶を受け取り、口に含んだ。かすかな甘味が舌を撫でた直後、強い苦味が喉を刺し、全身が痺れに包まれた。力が抜け、まぶたが重く落ちる。音が遠ざかり、灯火の爆ぜる音も、扉の閉まる音も、すべてが水の底へ沈むように薄れていく。

 尾てい骨のあたりから重く沈み込む感覚が広がったのち、王の意識は闇に溶けていった。


 やがて、まぶたの裏に、ほのかな光が滲んだ。

 王はゆっくりと目を開けた。そこには自国の街並みが広がっていた。白亜の建物は陽光を浴びてまばゆく輝き、広場を行き交う人々の顔には笑みと活気が満ちていた。


 ――ここは、空なのか……?


 王は鳥のように、遥か高空から国を見下ろしていた。民の姿は指先でつまめるほど小さい。しかし、目を凝らせば一人ひとりの表情まで鮮明に見て取れた。


 ――神の視点、といったところか。


 王はゆっくりと視線を城へ移した。陽光に照らされたその姿は、まさに繁栄の象徴。王は胸の奥にじわりと満ちる誇りを感じ、目を細めた。

 どうやら時間の流れは一定ではないらしい。民は残像を引くように忙しなく動き、日は瞬く間に傾き、夜を招いて、また朝を迎える。ただ、国の安寧だけは揺るがぬままだった。

 民の顔に影が差したのは、ただ一度――王の葬儀の日だけだった。


 ――そうか……まあ、悪くないな。


 自らが納められた棺を見下ろす王の胸には、複雑な感情が渦巻いていた。

 葬列は長く、街路の両脇には民がひしめいていた。泣き崩れる者、祈りを捧げる者、静かに頭を垂れる者。悲しみが街を覆い尽くしていた。

 棺は王墓へと安置され、しばしの間、民の心には暗雲が垂れ込めた。

 だが、王が築いた礎は堅牢であった。民は歩みを止めることはなく、新たな技術や建物が芽吹き、国は一層の繁栄を遂げた。誰もが幸せそうに見え、王は胸の底から安堵した。


 しかし、時がさらに進むと、その平穏は無慈悲に打ち砕かれた。影さえも払いのける輝かしい繁栄は、太陽にひどく魅入られ、涙さえも干上がらせたのだ。

 土は渇き、川は枯れ、飢えに追われた民はついに故郷を離れることを余儀なくされた。持てるだけの荷を背負い、持てる限りの荷を背負い、いくつかの群れに分かれて国境を目指した。

 途中で力尽きる者。盗賊や軍隊に襲われ命を落とす者もいた。だが多くは他国の土を踏み、その土地の民として命をつないだ。


 王の国は滅びた。

 だが王は悲しみには沈まなかった。国という器が消えても、かつて自らが愛した民の血はどこかで続いている。その考えに至る頃には、王の視界はさらに広がり、世界全体を俯瞰するようになっていた。

 そして王は、さらに遠い未来を見た。そびえ立つ巨大な建造物。想像を超えた技術。自らの目線と変わらぬ高さの建物を見て、王は思わず苦笑した。きっと、神も今の私と同じ顔をしていることだろう、と。


 王が見たのは輝きばかりではなかった。国々の滅亡を見た。戦争を、貧困を、死を見た。どれほど時代が進もうとも、人は数えきれぬ苦難と過ちを繰り返す。

 だが、人は何度でも立ち上がり、再び歩み始める。

 かつての自国の民はもういない。その血がどこへ流れ着いたのかも、もはや知れぬ。だが、かまわない。王には確信があった。人はすべて自らの友であり、子であると。

 人を乗せ、大地をすさまじい速度で駆けるもの。空を翔けるもの。時に、その進歩は恐ろしく思えた。

 それでも王は信じていた。


 この世界はきっと大丈夫だ。未来はもっと明るい。さあ、この先はどうな――




「あっ!」

「おい! 気をつけろと言っただろう!」


「す、すみません。でも、これ、おれのせいじゃ……」

「あーあ、頭が粉々だ。どうします、先生?」


「無理もない。数百年前のものだ。脆くて当然だろう。しかし、すごい……。かなり位の高い人物だったに違いない」


 とある遺跡の一室。調査隊が発見した石棺の中、粉々に崩れたミイラの口元には、確かに永遠の微笑が浮かんでいた。

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