何者かになりたかった者
この物語を“暗い”と言う人は、たぶん今、生きることに余裕がある人なのだろう……
部屋のカーテンは、もう何ヶ月も開けていない。光を拒むように貼られた黒い遮光カーテンは、昼と夜の区別すら曖昧にしていた。
薄暗い部屋に、時計の音だけが響いていた。
秒針の動きすら、どこか緩慢に聞こえるのは、部屋の空気が淀んでいるせいだろうか。
吉田悟史、26歳。
俺の時間は、三度目の大学受験で止まっていた。
「医者になりたいんです」
高校三年、担任との三者面談で口にした言葉。
それが、彼の全てだった。
その時の自分が、今の自分を見たら、何を思うだろうか。
大学受験にすべてをかけた。毎日10時間、いや下手をすればもっと勉強していた。友達と遊ぶ時間も、恋をする暇も、「医者になる」という一点のために捨てた。
家は裕福ではなかった。だが、両親は俺の夢を応援してくれた。塾にも通わせてくれたし、模試の費用も惜しまなかった。全ては「合格」の二文字のために。
だからこそ、悟史は勉強にすべてを捧げた。
けれど。
一度目の受験は失敗した。偏差値が足りなかった。
二度目も、成績は伸びたが、合格には届かなかった。
三度目。全てを賭けた一年。希望は、結果発表の日に砕けた。
医大の合格発表。
自分の受験番号は、どこにもなかった。
その夜、自室の壁を殴った。拳から血が出た。痛みは、思ったよりも薄かった。
それ以降、俺は一切の勉強をやめた。
部屋に引きこもり、ただ、スマホとゲームに時間を溶かした。
気づけば、一日が一瞬で終わる。外に出る意味を失い、誰かと話す理由も見つからない。
5年が経っていた。
高校卒業から、8年。
世の中の誰もが前に進み、自分だけが、部屋という牢獄で足踏みをしている。
悟史は、モニターに映るオンラインゲームの画面を眺めながら、ふと、思った。
「俺、何してんだろうな……」
言葉は空気に溶け、返事はない。
返事をする誰かなど、この部屋にはいなかった。
スマホには、母さんからのLINEが一通。
《元気? 体調は大丈夫? 》
未読が二つ並ぶ。返す言葉が、ない。
自分が何をしているか、何になったか、何を目指しているか……全てに答えがない。
昔、医者になりたかった。
今、自分は……ただの「何者でもない者」だった。
ゲームのキャラクターはレベル99に到達した。
画面内では、誰よりも強く、英雄だった。
現実の悟史は、風呂にも入らず、3日同じTシャツを着ていた。
「終わってるな……」
ふと、口をついて出たその言葉が、自分を突き刺した。
だが、涙は出なかった。
泣くほどの感情すら、もう残っていない。
時計の針が、深夜2時を指していた。
何かを変えなければならない。
でも、何を? どこから? どうすれば?
その答えは、どこにもなかった。
ただ、時間だけが過ぎていく。
そして、何かが静かに、確実に、壊れていく音だけが、胸の奥で鳴っていた。
朝、階下から食器のぶつかる音が聞こえた。
それが目覚ましだった。アラームなど、もう何年も前から使っていない。
職もなく、予定もなく、会う人間もいない。
けれど、今日も同じように朝は来る。
実家の二階、自室のベッドの上。部屋のカーテンは閉じっぱなし。光は遮られ、時間の流れすら曖昧だ。
扉の向こうから、母さんの声が聞こえた。
「悟史。朝ごはんできてるよ」
返事はしない。
布団を頭までかぶるだけ。
聞こえなかったふりをするのは、いつものことだった。
母さんは、何も言わずに去っていった。
それが、暗黙のルールになって久しい。
一緒に住んでいるのに、もう何ヶ月もまともに会話をしていない。
都さんは、口を出すことをやめた。
初めの頃は怒鳴っていた。
「いい加減にしろ」「働け」「社会に出ろ」と。
だが、今では朝の食卓で顔を合わせても、目すら合わせてこない。
弟もいた。俺より三つ下。
大学を卒業し、都内のIT企業に勤めている。家を出てから、一度も戻ってこない。
あいつは勝ち組だった。
進学して、就職して、恋人もいて、友達もいて、将来がある。
俺には……何もなかった。
布団の中でスマホを見る。
ゲームアプリを開き、ログインボーナスだけ受け取り、すぐ閉じる。
やる気も、目標も、何もない。
ただ、今日も「何者にもなれなかった自分」が、呼吸をしているだけだ。
昼になり、母さんが弁当を階段の前に置いた。
直接渡すことはない。顔を合わせないまま、そっと置いていく。
冷えた唐揚げ弁当と、緑茶。
それを無言で口に運ぶ。味はしない。ただ、空腹を埋める作業。
ふと、階下から父さんの声が聞こえた。
テレビのニュースに反応しているようだった。
「また30代の無職の男が……。最近こんなのばっかだな」
手が止まった。
それは刃だった。
偶然でも、自分に向けられた言葉のように響いた。
……無職の男。
まさに、俺だ。
弁当の容器を投げ捨てたくなった。
でも、それすらできない。
怒るエネルギーすら、もうない。
布団に潜り込む。
呼吸が浅くなる。
目の奥がジンと痛む。
“自分はもう、社会のどこにも属していない”
そういう実感が、確実に胸を締め付けてくる。
「もう無理だな……」
呟いた声は、枕に吸い込まれて消えた。
誰にも届かない。
届いてほしくもない。
だって、届いたところで、誰も救えない。
夜。
父さんは無言で風呂に入り、無言で酒を飲み、無言で寝室に消えた。
母さんは、台所で食器を洗いながら小さく鼻歌を歌っていた。
無理に明るさを装っているのが分かるその声が、逆に刺さる。
「何で、まだ普通に暮らしてるんだよ……」
家族は、俺を避けながら、それでも“日常”を続けていた。
まるで、俺がいないかのように。
だが、実際にはそこにいる。
2階の部屋で、寝て、起きて、何もせず、腐っていく存在として。
俺は、深夜、机の引き出しから昔の学生証を取り出した。
名前、写真、学校名。
かつて、医者を目指していた証。
「なんだったんだろうな……全部……」
写真の中の自分は、希望に満ちた顔をしていた。
今はもう、そんな表情は、どこにもない。
ただ、ゆっくりと、深く、底に沈んでいく音だけが、聞こえていた。
朝。
母さんの足音が廊下を通り過ぎていく。
「悟史、ごはんできてるよ」
それだけを言い残して、階段を降りていく。
その声に返事はしない。息を潜めるように、布団をかぶる。
答えたら、何かが始まってしまう気がした。
この家にいる限り、誰も俺を追い出さない。
そのことが、かえって重かった。
誰にも必要とされていないのに、ただ置かれているという現実。
今日は、なぜか……いや、何も考えたくなかっただけかもしれない…
俺は、外に出ることにした。
久しぶりに着替えた服は、ところどころにシミがあった。
ジーパンは少しきつい。体重は増えていた。
玄関のドアノブに触れる手が震える。
「……誰にも会いませんように」
祈るように呟いて、ドアを開ける。
夏の光が、刃のように肌を刺した。
家の前の細い道を、ゆっくりと歩く。
何も目的はなかった。ただ、「どこかへ行くふり」をしたかった。
それだけでも、少しだけマシな人間になれる気がした。
後ろから子どもたちの声が聞こえた。
振り返らなくても分かる。
近くの幼稚園の集団登園だった。
その中の数人が、悟史の背中を見て、クスクスと笑った。
「ママ〜、あの人、変な顔してる〜」
「なんかクサそー」
母親たちは気まずそうに笑い、子どもたちの手を引いた。
だが、目は完全に「関わってはいけないもの」として、俺を見ていた。
俺は立ち止まり、目を伏せた。
声を出せば、負けた気がした。
言い返せば、ますます惨めになる気がした。
でも、子どもたちの笑い声は、心の奥にまで入り込んで、腐った肉のように残った。
「……なんだよ」
誰に向けたわけでもないその呟きは、声になっていなかった。
駅前までたどり着く。
汗が滲む。呼吸が浅い。
自販機で水を買おうと、ポケットを探った。
財布がなかった。
「……は?」
小さく笑ってしまった。
出かけるというだけのことが、ここまで自分を追い詰めるとは。
近くのベンチに座り、スマホを開いた。
通知はゼロ。通話履歴も、メッセージも、空白だった。
画面に自分の反射した顔が映る。
「終わってるな」
冗談でも自嘲でもない。
事実の確認だった。
ふと、何かに見られている気配を感じた。
顔を上げると、ベンチの向こう側にいた女子高生たちが、こちらを見て小声で話していた。
「ニートかな?」
「働けよって感じ〜」
その言葉に、怒りは湧かなかった。
ただ、そう思われて当然だ、としか思えなかった。
そのまま立ち上がり、ふらつきながら帰路につく。
陽射しが痛い。背中にまとわりつくような視線。
それが幻覚なのか、実際に浴びているのかも、もう分からない。
家に着くと、母が出迎えた。
「悟史、暑かったでしょ? ……ねえ、冷たい麦茶入れてあるから……」
「いらない」
俺は、その言葉を吐き捨てるように言って、階段を登った。
足元がふらつき、手すりにぶつかった。
2階の自室に戻ると、カーテンを閉め、布団に潜る。
全身がだるい。
心も、体も、どこにも重さを逃がせなかった。
耳の奥で、さっきの子どもの声が繰り返される。
「変な顔〜」「クサそ〜」
……幼稚園児にすら、笑われる存在。
社会の底どころか、人間としての価値すらない。
自分はもう、誰の記憶にも、名前にも、人生にも必要とされていない。
涙は出なかった。
泣けるような心も、もう擦り切れていた。
「……本当に、終わってるんだな。俺って」
筆者より
誰にも見られない場所で、
誰にも知られずに、
静かに崩れていくような日々を、
あなたは今日まで生きてきた。
それだけで、もう十分にすごい。
夢を追った自分を責めないでください。
失った時間を、無駄だったと思わないでください。
全力で生きた結果、うまくいかなかっただけです。
それは「失敗」じゃなく、「生きた証」です。
何もしていないように見えても、
あなたの心はずっと戦ってきた。
逃げた日も、倒れた日も、
立ち止まったその場所で、あなたは踏ん張っていた。
誰に見られなくても、
誰にも理解されなくても、
それは、本当のあなただけが知っている「努力」です。
あなたは、壊れてなんかいない。
ただ、少し疲れているだけです。
誰よりも一生懸命に生きてきたから。
だから今は、ほんの少しだけでいい。
外の空気を吸ってみてください。
水を飲んで、太陽の光を浴びて、
今日を“終わらせずに”過ごすことだけでいい。
それが、「再スタート」の第一歩になるから。
人生に「手遅れ」はありません。
何歳だろうと、何年止まっていようと、
ここから始めれば、それがあなたの“1ページ目”になります。
歩き出すのは怖い。
でも、歩けなくてもいい。
まずは、顔を上げるだけでも、十分すごいこと。
あなたは、まだ終わっていない。
むしろ、これからです。
応援しています。




