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「ユーリット・フォングラハン伯爵令嬢。あなたとの婚約は破棄するっ」
パーティーが始まる直前だというのに、このウィンライト王国の第一王子であるバスチアン殿下がビシリとわたしに指を突きつける。
ふわふわの綿毛のようなプラチナブロンドの癖っ毛に、同じ色の長いまつ毛に縁どられた翡翠色の大きな瞳が天使のように愛らしい王子は、パーティー会場の中央でわたしを見つめている。
わたしは扇子の内側で軽くため息をついた。
(人を指でさしてはいけませんと、教えていなかったかもしれませんわね?)
ちらりと周囲を窺う。
驚いている貴族たちが大半だが、数名はこの事態を既に見越していたのか表情が読めない。
もっとも、貴族たるもの、そうそう表情を読まれるようでは生きていけないが。
「バスチアン殿下。理由をお伺いしても?」
国王陛下はまだいらしていない。
来賓である隣国の使者達と共に入場予定だ。
先ほど目の端で侍女達が即座に動いていた。王家の侍女たちは優秀だ。
陛下に事情を話し、この場を収めるまで控室で時間を引き延ばしてくれることだろう。
「え、えと、理由……」
わたしに聞かれるとは思わなかったのだろう。
言い切ったぞ、という達成感のあったお顔には、困惑の二文字が浮かんでいる。
「えぇ。わたしと婚約破棄をなさるのでしょう? 公衆の面前でこのような辱めを受けるというのに、理由すらもわからないだなんて困ってしまうではございませんか」
「えっと、ユーリットが、困るの?」
「はい、とっても」
にこりと微笑めば、途端にバスチアン殿下はおろおろとしだし、周囲をきょろきょろと見まわす。
そんな殿下を同じように困惑気味に見つめる貴族達と、やはり表情が読めない貴族、そして『目をそらした』貴族。
(……ハーネスト伯爵家とリンジー男爵家、それにブリギット侯爵家ね)
ブリギット侯爵は王子から目をそらしたりはしていないがいかんせん、こういった場に不慣れなリンジー男爵がブリギット侯爵に助けを求める目線を送ってしまったのをわたしは見逃さなかった。
人選ぐらい真っ当にすればよろしいのにと思わなくもないが、こんな馬鹿げたことをしでかすのだから、既に後がないのだろう。
罪人として捕らえられれば、普段は使用が禁じられている自白と拷問の魔法が使用許可されるというのに。
わたしの記憶が確かならハーネスト伯爵は一人息子が賭け事にはまり多額の借金を背負っている。
リンジー男爵はこれといって悪い噂の無い家だが、爵位が上のハーネスト伯爵には逆らえないのだろう。
そして主犯と思われるブリギット侯爵家は最近王子と同い年の庶子の女の子を引き取ったとか。
侯爵夫人が自慢げに身に着けている大粒の黒真珠のネックレスは、デザイン的にもサミンサ王国のものだろう。
「えと、えとっ、ユーリットには、好きな人がいるのでしょう? ぼくと婚約していたら、その人と一緒になれないのでしょう……?」
うるっと瞳を潤ませて、バスチアン殿下が見上げてくる。
思わず撫でて差し上げたくなるが、まだ我慢だ。
「えぇ、そうですわね? バスチアン殿下以外を好いているのであれば、ですが」
そんなことはあってはならないのだが。
もしもまかり間違ってそんな事実が発覚すれば、婚約破棄どころか国家反逆罪に問われかねない。
(それが目的だったかしらね?)
殿下とわたしの婚約を破談にする。
そしてわたしを完全にバスチアン殿下の婚約者として使えない状態にするならば、殿下という婚約者がありながら不貞を犯した犯罪者に仕立て上げてしまうのが手っ取り早いだろうから。
「だ、誰を好きだったの? ぼく、ぼくっ、やっぱりやだ! ユーリットがぼく以外を好きだったらやだ、ユーリットのはちみつ色のさらさらの髪も、紅茶みたいなきれいな色の瞳も、大好きなの。ぼくとずっと一緒にいてよぉおおおっ!」
ついに堪えきれなくなったバスチアン殿下がわっと泣き出してわたしに抱き着いた。
その小さな身体をわたしも屈んで抱きしめ返す。
「殿下、わたしは殿下だけを好いています。わたしが殿下以外を好きだと言ったのは、誰ですか?」
「うっ……」
ぼろぼろと泣きながら、それでもバスチアン殿下は口ごもる。
「誰にも言ってはいけないと、言われたのですね? 約束だと」
「うん」
約束は守るもの、嘘をついてはいけませんと教えたのはわたしだ。
わたしを好いているバスチアン殿下が破るはずがない。
思わず淑女の笑みが崩れそうなほど奥歯を噛みしめる。
悔しい。
殿下はいまとても辛い気持ちでいるだろう。
大好きなわたしにすべてを話したいのに、約束させられたから話せない。
そんな思いを殿下にさせることになった首謀者にいら立ちがこみ上げる。
けれど決して表情には出さず、微笑みを保つ。
「では質問を変えましょう。わたしが言ったことが合っているなら頷いて下さい。それなら嘘をついたことにも、約束を破ったことにもなりません。なぜなら『言う』のはわたしであってバスチアン殿下ではないのですから」
詭弁だ。
だが素直な王子はこくりと頷く。
「わたしに『婚約破棄を突きつけて、幸せにしてあげよう。好きな人と一緒にいられることは幸せな事だ』と言われたのですね?」
「そうっ。でも、ぼく、嫌なの! ユーリットといたいの……っ」
言質はとった。
これでいまここにいる貴族達もバスチアン殿下が誰かに唆されてこんな行動を起こしたのだとわかっただろう。
「えぇ、わたしもバスチアン殿下とずっといたいと想っております。ですが今日は、もうお部屋に戻られた方がよいでしょう。バスチアン殿下は熱があるようですわ」
熱などはない。
けれど泣きはらして真っ赤になった顔は、熱があるように見えなくもないだろう。
わたしは殿下を両手で抱き上げる。
殿下はほっとしたようにわたしにすりすりっと頬を寄せた。
「皆様、お騒がせしました。王子はどうやら『熱で怖い夢を見た』ようですわ。パーティーが始まる前に退席するご無礼をお許しくださいませ」
両手が塞がっているのでカーテシーは出来ないが、にこりと微笑み退席する。
あとの事は残った者達でどうとでも出来るだろう。
目の端でちらりとブリギット侯爵の方を見れば、王家の使用人に耳打ちされてパーティー会場を出ていくところだった。リンジー男爵とハーネスト伯爵も同じだろう。
十中八九隣国の介入があったのだろうが、同情はしない。
御年三歳の幼いバスチアン殿下にこんな真似をさせたのだ。
それ相応の処分が下されるだろう。
貴族たちが困惑していたのは、幼い殿下がいきなりとことことわたしから離れて、唐突に婚約破棄を宣言したからだ。
いまのいままでわたしをエスコート、というより仲良く手を繋いで会場入りし、なのにいきなり「僕、言わなくちゃいけない事があるのっ」と言い出して会場の中央に駆けたのだ。
婚約破棄などと難しい言葉を言える年ではなく、そしておそらく意味もよく理解してないであろう殿下が一人でできる事ではない。
おそらくブリギット侯爵の筋書きでは隣国の使者団の前でさせたかったのだろう。
そうすれば後は隣国の使節団が必要以上に騒ぎ立てて、バスチアン王子とわたしとの不仲説やらありもしない不貞やらなんなら捏造でわたしの生家フォングラファン伯爵家の汚職事件まで出てくる手はずだったのかもしれない。
けれどいかんせん、幼い王子にはタイミングがわからなかった。
ただこのまま婚約破棄せずにいると、わたしが好きな人と一緒にいられないと思い込まされて精一杯頑張って婚約破棄を言い切ったのだ。
(幼い王子にずいぶんな真似をさせるのね)
会場の外に連れ出された侯爵と伯爵、そして男爵は、この後捕らえられて尋問されることだろう。
間違いのないように自白の魔法も使用されるでしょうから、彼らにはそれ相応の罰が下されるはず。
ただ、裏で手を引いているのがサミンサ王国だとわかっていても、小国であるウィンライト王国では正直しらを切られて終わるだけ。
実行したのは自国の貴族なのだから、最悪の場合言いがかりをつけたことにすらされかねないのが辛いところだ。
泣き疲れて寝てしまった殿下の重みを両腕に感じながら、わたしは殿下の部屋へ移動した。