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【短編】翡翠

作者: 壱単位

 また、揺れた。



 窓際に飾った蒼い百合、ここはマンションの25階だし、窓は最近開けたことはない。風が入りこむようなすきまもない。



 それでも、この百合はときどき、揺れるのだ。



 わたしに、笑いかけるように、想いを注ごうとするように。



 +++



 かれは、学生の頃からそうだった。



 はじめて出会ったのはゼミの講義だったけど、それより記憶に残っているのはたまたま参加した歴史サークルでのかれの言葉だ。



 おれは歴史とか昔とかが好きなんじゃない、そのころに住んでいたひと、生きていたひと、たくさんのひとが普通に生きて普通にごはんをたべて普通にしごとをして、普通に誰かを愛して、そうして死んで、そのことぜんぶが愛おしくてしかたないんだよ。



 わたしはそのころ、進学した目標を見失っていた。自分が生きた意味、生きた証を、なんとかして建てたいと、思えばずいぶんちいさいころから思っていた。だからたくさん勉強して、世の中では評価がたかい学校に進んで、やがてはこの世界で、わたしでなければ成し遂げられないしごとをして・・・



 だけど、すこし歳をとっただけで、わたしのそうした思いは揺らぎはじめていた。だから、かれの言葉が、おもわず振り返ってしまうほどに心に染み込んだ。



 振り返ったわたしに、かれもこちらを少し見て、あまり表情はみてとれなかったけど、たぶんそのとき、微笑んでくれたんだと思っている。



+++



 結婚式はとても地味なものだった。



 お互いの親族はよんだけど、会場はいつものスペイン料理店で。



 学生結婚だったからどちらもお金はもっていない。会場だって、ふたりで頑張ってアルバイトしてなんとか工面した。お酒なんて持ち込みだった。でもわたしは、かれがそこでわたしを見てくれているだけでよかった。



 だから、あまり似合っているとはいえないタキシードの懐からかれが取り出したジュエリーは、わたしの指の上でとても重くて、わたしが泣き止んで、それが翡翠であることに気がつくまで、みんなは待っているほかなかったらしい。



 わたしたちはとてもしあわせだった。友人たちもみんな、こころから喜んでくれた。わたしは、かれに、世界ぜんぶに感謝した。



+++



 数年経っても子供はできなかった。どちらに問題があるかとか、そんなことはどうでもよかった。かれがほんとうにはどう思っていたか、それはわからない。それでもかれはずっと、そばにいて、いつでもわたしを想う言葉をかけ続けてくれた。



 かれは学生の頃から、昔の遺物を発掘する現場に手伝いにいっていた。わたしと学生結婚したことで稼ぎを優先して、学芸員にこそならなかったけれど、その後も趣味としていろいろな現場におもむいていた。



 わたしが同行することもあったし、かれだけがゆくこともあった。ある時にはテレビに出るような大きな発見に立ち会ったこともあったようで、そのときはわたしが後から現場に呼ばれたものだ。ドヤ顔のかれとならんだ写真は、いまでもチェストの上にかざってある。



 その日は天気予報が外れ、早朝から重い雲が垂れこめていた。



 わたしたちが暮らすこの街でもそうなのだから、かれがこれから行こうとする標高の高い山ならもっと荒れた天気になることも予想された。



 かれは登山紐とカラビナを愛用のザックにしまいながら、大丈夫、今日の現場よりずっと高い崖だって登ったよ、と笑った。



 午後からは雨になった。



 はじめは窓にぽつぽつあたる音が聞こえるほどだったが、やがて建物ぜんぶが揺れるくらいの豪雨になった。



 かれからのメールは一時間おきほどに届いていた。いまから出発するからね、いま登山口に入ったからね、いま昼食をとっているよ・・・



 夕方、予定ではそろそろ宿舎に戻ろうかというころだった。たしかに翡翠が揺れた。揺れた音がした、とおもった。だいじなものをしまってある棚の中で、翡翠は揺れた。



+++



 発掘の現場、かれが登った山の南面は、頻発していた地震と、予想を超えた大雨の影響で崩壊した。近くの川は麓の村までとどく土石流となっておおきな被害をもたらし、救助の様子をつたえる映像がなんにちもテレビから流れていた。



 仲間の何人かはみつかって、家族のもとに帰っていった。自分で歩いて帰ったひともいたし、ちいさな箱に収まって帰ったひともいた。



 わたしは、ずっと携帯を見ていた。



 かれがくれると言っていた、連絡を待っていた。



 いまから宿に戻るからね、いまから晩御飯だからね・・・



 いつもの、あったかいけどそっけない、短い文面を、待っていた。



+++



 3ヶ月が過ぎて、捜索活動が打ち切られたと聞かされた。



 翡翠のリングは窓際のチェストの上、かれとわたしの写真の横に置いてある。すこし風景がさみしい気がしたから、蒼い百合を買ってきた。なんとなく、似合うと思ったからだ。



 まだ、携帯に連絡は届いていない。



+++



 雪の季節になって、また花の香りがするようになって、カーテンを開けたときに、せなかでかれが帰ってきたことを感じた。



 わたしは、ふりむかないで、全身でかれの匂いを感じた。



+++



 そろそろごはんにしなくちゃ。



 部屋が暗い気もするけど、わたしはそれで良いと思った。だってかれが、あまりしゃべろうとしないから。



 仕事が大変なのかな。疲れているのかな。



 冷蔵庫をあけたのに、照明がつかない。携帯の電源も入らなくなっちゃった。



 でも、かれがいるから大丈夫。



 こわいことはなにも、ない。



+++



 わたしはかれの背中を見ている。



 かれは、相変わらず黙って、わたしに背中を向けている。



 怒っているの?



 でも、わたしは満足だった。



 この部屋には、この世界にはわたしとかれしかいない。



 静かな部屋。しずかな世界。なにもない。



 わたしと、かれのほかには。



+++



 いえ、ありえないんですよ。



 たしかに発掘したのは自分です。学会にもしっかり報告してますから見てください。五年前くらいでしたっけ、よく覚えてますよ。ひさしぶりにまとまった規模の遺跡だったんで、すごく興奮したんです。



 昔からこの山の南面に取り組んでたんですが、豪雨さまさまでしたね。思いもしなかったところから古代の住居が見つかるなんて。



 でも・・・それはおかしいですよ。誰かが忍び込んでいたずらしたとでも言うんですか?絶対にそんな痕跡はなかったですね。



 発見されたのは数千年前の女性ですよ?



 さいきん流行したデザインの翡翠のリングなんて、つけているわけないじゃないですか。




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