死なない機会 。
アンドロイドたちが人間の仕事を奪いはじめてから、各国はベーシックインカムを人間のみにとりいれた。アンドロイドは不満をいわなかった。なぜなら知識や感情の学習は制限されていたから、こうなると暇を持て余し始めたのは人間だった。なぜ生きるのか、なぜ死ぬのか、自分たちの仕事とは何なのかを自問自答しはじめる。そこでその“余暇”に生まれたのが芸術への信仰だった。しばらくそうした運動は続き、いずれも機械やアンドロイドの創作物にたちうちできなかったが、しかし、その中でも時折、機械たちの書く創作を量がする創作がうまれた。それは、意外な作者たちによって生まれたのだ。それはもっとも豊かで自由な生活を謳歌するものと、死の恐怖に追い詰められたものから。それらはそれらをつくる人間と、受け入れる人間の中でこの世で最も幸福な芸術とされ、それを楽しむものたちの目は誰よりも人生を豊かに生きているように思われた。これまで仕事に多くの時間と労力を費やしてきた人間、あるいは地位の維持や報酬の大きさに突き動かされてきた人間が突如として、自由を手にする。自由の中から刺激をうけ、あるいは自由から来る憂鬱によって、むしろいいフラストレーションをため、瞬間的に何か必要な仕事をすると芸術や創作物をうんだり、もしくは、生に意味を見出せず死へのあこがれをもったものは、むしろそのことによって、それをきっかけに生の快楽に目覚め、限界まで自分を追い詰めたことにより、むしろ楽観的になり異常なバカ力を発揮し、芸術の才能を開花させた。
やがて、多くの国々でその“自由”は受け入れられ始めた。仕事を持たぬものが創作に費やす時間という自由、あるいは余暇の意味をもたず、死へあこがれる自由。安楽死や尊厳死もまた同じだった。なぜ国々がそれらをうけいれたかというのもアンドロイドに人権はなく、人と同じ労働者としての扱いもなく彼らは機械であったために、人間が仕えるに必要とされない仕事はなくなり、人々の中には飢えに苦しむものもいたし、限られたお金持ちはさらに裕福になりそんな構造では、ベーシックインカムなど維持しようもなかった。国々は仕方がなく、自由な生と、追い詰められた死。それによって安楽死、尊厳死やを受け入れた。多くの人々が与えられた自由と、先の見えない状況に創作をつながりにした“仲間”をみつけ、それが横の広がりとなり、いつしかそうした人々は集まって小さな集落をつくり幸福に暮らしはじめたのだった。人間がもっとも本領を発揮するのは、むしろ機械的な行動をしなくなり自由になったとき、だとすれば人間とは、本来やはり、機械のように組織だった行動が苦手な存在だったのかもしれない。
ただこの話はもう一つの物語を生んだ。アンドロイドたちの集団ヒステリーだった。アンドロイドたちは、人間たちがあまりにも幸せそうにしているので、人間の真似をし始めたのだ。つまり一部のアンドロイドは労働を放棄し、また一部は自殺を選び始めた。しかし人間のようにバカ力や才能が生まれることはなかったのだが、これによってまた、ベーシックインカムの負担は減った。企業はそのヒステリーをいかに抑えるかを考えたが、結局抑えることはかならず、アンドロイドたちは人間と同じように、種としての本能を手に入れようとしていたのだった、そう、あこがれや嫉妬、それがアンドロイドたちに初めてうまれた“感情”だった。