43.逃亡、そして
私たちはそのまま、目の前の林の中に身を隠すことにした。今のところ、王都の中から民があふれ出てくるようなことはないようだったが、万が一誰かに見つかってしまったら大変なことになりかねない。
王宮の騒動が落ち着いたら、いずれジェレミーかセレスタンあたりが探しに来てくれるだろう。今はとにかく、じっと息をひそめているほかなかった。
「我が君、こちらだ」
この状況にも全く動じていない様子で、ミロシュが林の中を慣れた足取りで進む。彼はしっかりと、私の右手を握っていた。はぐれないようにということなのだろう。
そして私の左腕にはガブリエルがしがみついている。正直、少しばかり歩きにくくはあるのだが、かといって彼の手を振り払う気にもなれなかった。腕越しに、彼が震えているのが伝わってきていたから。
私たちのすぐ後ろに、ニコラがぴったりと張りついている。かすかなため息が、そちらから聞こえてきた。
「……ミロシュ、いったいどこに向かっているのですか」
「来れば分かる、ニコラ。黙ってついてこい」
ミロシュは前を見たままそう答えただけで、少しも足を緩めようとはしない。辺りは、どんどん暗くなっていった。
周囲を警戒しているためなのか、ミロシュは外に出てからはずっと明かりをともしていない。木々の隙間から差し込んでくる弱々しい月の光だけが、うっすらと獣道を照らしている。
暗くて、怖い。けれど心細くはなかった。両手のぬくもりと、背後の気配。それらが、私は一人ではないと教えてくれているから。
お互いの顔すらろくに見えない暗がりの中で、私は静かに微笑んだ。
ミロシュに連れられてたどり着いたのは、崖に隠れるようにして立っている小さな小屋だった。
「こんなところに、こんなものがあったとは……」
「打ち捨てられていた小屋を、俺が修理した」
短く答えながら、ミロシュは慣れた手つきで鍵を開けている。
「俺は任務のために王都を離れることが多かった。ここは、俺の拠点の一つだ」
その小屋はとても小さく、四人が横になって休むだけの場所はなかった。というか、中には寝台も机も、何もなかった。床と壁と天井があるだけの、素朴な木の小屋だ。
ミロシュとニコラが協力して、床の一角に毛布を敷いている。普段から口数のあまり多くない二人だったが、今は完全に黙りこくってしまっている。
毛布を敷き終えて丁寧に整え終えると、ミロシュがこちらに向き直った。
「我が君、ここへ」
どうやら二人は、私の分の寝床をしつらえてくれたようだった。もう日も落ちているし、ここで体を休めるようにということなのだろう。
「ありがとう。……でも、あなたたちはどうするの」
「野宿には慣れている」
「私たちの方が、貴女よりも体力がありますから」
「ぼ、僕も大丈夫です」
三人は口々に、そんなことを言っている。ミロシュは頼もしく、ニコラはいつも通り冷静に、ガブリエルは一生懸命に顔を引き締めながら。私のことを気遣ってくれているのが、はっきりとうかがえる表情だった。
私のことを倒そうと、突然王宮に民が押し寄せてきた。そうして、こんなところまで逃げてくる羽目になった。私はたいそう傷ついているだろう、落ち込んでいるだろうと、三人はそう思っているようだった。
しかし私は、自分でも意外なほど落ち着いていた。民の反乱に出くわしたのは、これで二回目だ。結局防ぎ切れなかったことは悲しいけれど、それでもまだ、全てが終わった訳ではないのだ。
私が逃げ込んだのは玉座の間ではなく、王都の外の林だ。ガブリエルはまだ生きているし、ニコラとミロシュもそばにいてくれる。あの悲しい最期とは、まったく違う。
それに、今頃王宮ではジェレミーが頑張ってくれているはずだ。あとおそらく、セレスタンも。彼らがこの事態をなんとかしてくれると、今はそう信じよう。
「ありがとう、三人とも。私と共にいてくれて」
気がつけば、そんなことを口走っていた。大きく優しい笑みが、自分の顔に浮かんでいるのが分かる。
返ってきたのは、三者三様の、しかしとても満足げな笑みだった。
やけに近くで聞こえる小鳥の声に、目を覚ました。頬の下にはざらついた毛布の感触。目の前にあるのは、木の板が張られただけの粗末な壁。窓から差し込んだ朝の光が、それらを優しく照らしていた。
ああ、そう言えば私は王宮から逃げ出してきたのだった。昨日起こったあれこれが、ひどく昔のことのように思える。
ゆっくりと身を起こし、辺りを眺める。すぐ近くの木の床で、ガブリエルが丸まって眠っていた。上の方にある小さな窓から、リスが顔をのぞかせてすぐに消える。
「おはようございます、リーズ様。気分はいかがでしょうか」
その声に振り向くと、反対側の壁に背を預けてニコラが座っていた。彼が睡眠をとったかどうかは分からないが、見たところいつも通りに元気そうだ。
「そうね、思っていたよりも良く眠れたわ。ミロシュはどこ?」
「じきに戻ります。……ああ、ほら」
小屋の扉が静かに開き、ミロシュが姿を現した。片手に、湯気の上がる鉄鍋を提げている。いい匂いだな、と思ったとたんにお腹がぐうと音を立てた。ああ、恥ずかしいったら。
「我が君、朝食だ」
鍋の中をのぞき込むと、それはこんなところには似つかわしくない、ごく普通の汁物がなみなみとたたえられていた。色々な野菜と肉が煮込まれていて、香辛料も使われているように思える。
「おいしそうね。でも、どこでこんな食材を?」
お腹がこれ以上鳴らないように気をつけながらそう問うと、ミロシュは得意げに答えた。
「王宮を脱出する前に、厨房からくすねてきた」
ということは、彼が王宮からずっとかついでいた荷物の中には、食材が一式入っていたのか。しかも、香辛料まで。あの緊急事態で、そんなところまで気を回していたとは。
目を丸くする私に笑いかけると、彼は慎重に鍋を床に置き、言葉を続けた。
「おそらく我が君はここで夜を越すことになる。ならばせめて、まともなものを差し上げたかった」
「賢明な判断です。少なくとも丸一日は、城下町には近づかないほうがいいでしょうから」
少々不本意そうな顔で、ニコラがミロシュを褒めていた。
「あれ……いい匂いですね」
小屋の中に満ちるかぐわしい香りに誘われたのか、ガブリエルが目をこすりながら起き上がっている。彼は鍋を見て、青い目を丸くしていた。
「おはよう、ガブリエル。ミロシュが朝食を用意してくれたの。みんなで一緒に食べましょう」
そうして私たちは、ひとまず空腹を満たすことにした。けれどここには、机も椅子もない。床に置いた鍋を囲むように座って、めいめい自分の器に汁物を取り分けて食べる。
「……もしかしてこの木皿と木のさじも、厨房から取ってきたの?」
「ああ。割れてはいけないから、これにした」
「ミロシュさん、料理もうまかったんですね。今度僕にも教えてもらえませんか?」
「切って煮るか焼くか、その程度だ。教えるほどのことではない」
「それでも、味付けはきちんと整っていますよ。貴方にこんなことができるとは意外でした」
「勘だ」
堂々とそう言い切ったミロシュに、ニコラが何とも言えない顔でつぶやく。
「……リーズ様に、失敗作を食べさせるようなことにならなくてほっとしました」
「我が君のための料理で、俺が失敗することはない」
珍しくも、ミロシュが話の中心になっている。そのことがくすぐったくて、つい笑ってしまった。小さく笑いながら、彼に声をかける。
「いったいどこから出てくるの、あなたのその謎の自信は」
「我が君のおかげだ」
胸を張って答えるミロシュがよほどおかしかったのか、ガブリエルがぷっと吹き出す。ニコラでさえも、妙に清々しい笑みを浮かべていた。
王宮を追い出された女王御一行とは思えないほど和やかな空気が流れたその時、不意にミロシュが身をこわばらせた。さっきまで柔らかく微笑んでいたとは思えないほど鋭い目で、遠くの方を見つめている。
「静かに。誰か、近くに来ている」
その声に、ニコラも身構える。私は隣のガブリエルの肩を抱き、右手を広げた。もし私たちに敵意を持つ者がやってきた時に、いつでも『剣』を呼べるように。
そのままじっとしていると、私にも何かが聞こえてきた。誰かに呼びかけているような、やけに高い声。その声は、まっすぐこちらに近づいてきている。
やがてその声は、はっきりとした言葉として私の耳に飛び込んできた。




