41.呼び起される記憶
ガブリエルとニコラが作り上げ、私が一言だけ書き添えた法律の素案。次の日、私はそれをまず、ジェレミーに見せてみた。
女王の代理を任せられるくらい内政に通じていて、かつこの素案の作成に携わっていない人物。そういう意味で、彼はこの法案を確認するのに最も適切な人物のように思われたのだ。
「精霊を、人と同様のものとみなし、保護するための法ですか……大変興味深いものを考えつかれましたね、陛下」
ジェレミーは赤い目を見張って、それから大きく笑み崩れた。ただ、その顔がどことなく寂しげだったのは気のせいだろうか。
「でも、自分で思いついた訳ではないのよ。たまたまアネットが持ち込んできた困り事を解決しようとしたら、こうなったというだけのことなのだし」
「……そうでしたか。それでもやはり、素晴らしいことだと思います。特に、この最初の一文が」
静かにそうつぶやくと、ジェレミーは私が書き添えた一文にそっと触れた。まるで子供の頭でもなでているかのような、とても優しい手つきだった。年かさの彼がそんな表情をしていると、厳しくも慈悲深い父親のようですらあった。
「それも、ほんの思いつきだから……そう褒められると、くすぐったいわ」
「いえ、陛下はやはりご立派な方だ。私たちは、良い主を持つことができました」
ゆったりと笑うジェレミーの目には、やはり憂いのようなものが浮かび上がっていた。
ジェレミーのお墨付きももらえたし、さっさとこの素案を正式な法律として定めてしまおう。そんなことを考えながら、自分の執務室に向かってとことこと歩いていた。
「あっ、もしかしてこれが、私が女王として初めて定める法になるのかしら」
もっと前、剣の家の当主になったばかりの頃。もしも女王になれたなら、最初にどんな法を定めようかと、そんなことをわくわくしながら考えていたことを急に思い出した。
あの時、具体的に何を考えていたかは思い出せない。けれど胸を満たす高揚感だけは、はっきりと思い出せた。民のためになる法を作るのだと、意気込んでいたあの時の気持ちを。
瞬間、また目の前が真っ赤になる。燃える王宮の幻が辺りに広がって、また消えた。
「いったい、何なのかしらこの幻は……」
ため息をつきながら廊下を曲がったその時、弾力性のある何かとぶつかった。何だか、前にもこんなことがあったような気がする。
「幻が、どうかしたのか」
顔を上げると、そこにはまたセレスタンの顔があった。整った上品な顔は、ほんの少し不機嫌そうだ。
「いえ、何でもないの。それより、早く執務室に戻らないと」
「その前に、私に見せるものがあるだろう」
そんなもの、あっただろうか。首をかしげると、彼は悔しそうに唇をかんだ。
「ガブリエルから聞いたぞ。君は、何やら新しい法を制定しようとしているのだろう。どうして私にも相談してくれなかったのだ、水臭い」
「だって、あなたは自分の執務で忙しいでしょう。そもそも、こんなに長く居城を留守にしていていいの?」
彼はアネットと共に、毒を盛られかけた私を心配してここに来てくれたのだ。しかしそれから結構日にちが経っているが、彼が盾の城に帰る気配はみじんもなかった。
「そ、それはだな」
顔を赤くして、セレスタンが言いよどむ。
「……アネットは正式に君の預かりになったのだし、ならば私も王都に留まり続けようかと思っているのだ。執務はここでも問題なくこなせるし、聖具を継ぐ者同士、助け合えることもあるだろうから」
そういうと、彼は手のひらをこちらに向けてくる。
「それより、法案を私にも見せてくれ」
手にしていた法案を彼の手に乗せると、彼は食い入るようにそれを読み始めた。やがて、ほっと息を吐く。
「なるほど、これでは私の出番がない訳だ。申し分のない記載に、最初の一文。私は特にこの文が気に入ったな」
子供のように無邪気に、セレスタンが笑った。またしても、あの気まぐれの一文を褒められてしまった。
「……その文は、私が書いたのよ」
照れながらそう答えると、セレスタンは紫の目を真ん丸にしてこちらを見た後、いきなり真っ赤になった。大あわてで目線をそらし、ごにょごにょと口の中で何事かをつぶやいている。
相変わらずおかしな彼の振る舞いにも、もうすっかり慣れた。ふふと笑いながら素案を記した紙を受け取り、手を振ってその場を後にする。
「その、見直した。いや別に、もう君のことを嫌っていた訳ではないし、見直すも何もないのだが」
背後から切れ切れに、そんなセレスタンの声が聞こえてきた。くるりと振り返り、ありがとう、と答える。
彼は照れ臭かったのか、うつむいて顔を見せないようにしていた。
軽い足取りで執務室に戻り、精霊たちを守るための法を制定するための手続きを終える。これで、少しでも現状が良くなるといいけれど。
それからはいつも通りに執務を終わらせて、午後はニコラと共に小領主たちからの報告をまとめ、内乱の兆しに目を光らせる。今のところ、地方はどこも落ち着いているようだった。
今日も、つつがなく終わった。晩餐と湯あみを終えて自室に戻り、一人のんびりとくつろいでいると、いきなりかすかな笛の音がした。
寝台に腰かけたまま、少し待つ。やがて、音もなくミロシュが入ってきた。窓から。
「もうその笛の音を聞くことはないと思っていたのだけれど。その笛は、あなたが仕事を終えて報告に戻ってきた時のものなのだし」
「この音が聞きたくなった。俺にとってこの音は、我が君に直接目通りがかなう、喜びの音だから」
ミロシュは私のすぐそばまでやってきて、くすりと笑う。以前は見せなかった、やけに色っぽい笑みだった。
「そんなことをしなくても、最近ではしょっちゅう会っているでしょう? 執務中も、食事の時だって一緒だし」
「ああ。でも俺は、我が君と二人きりの時間が欲しい」
「まさか、あなたまで寂しくなってしまったの?」
いつぞやのニコラの告白を思い出したせいで、ついそんなことを口走ってしまう。ミロシュはけげんな顔をしていたが、やがて考え込みながらつぶやいた。
「寂しい……か。そうかもしれない」
言うが早いか彼はひざまずき、私の手を取った。自分の大きな両手でしっかりと包み込み、そっと頬を寄せる。
「俺は、我が君に触れたい。許されるなら、いつであっても」
私が抵抗しないからなのか、彼はそのまま私の隣に腰を下ろした。満月を映した明るい黄色の目が、やけに熱っぽくこちらを見つめている。
「俺のすべては我が君のものだ。十年前からずっと」
「……あなたのそういうところは、変わらないのね」
十年前に行き倒れていた彼を拾った時、彼はためらいなく言ってのけたのだ。俺はこれから、あなたのものになる、と。その前にどんなやり取りをしたのかはもう覚えていないけれど、あの時の彼の言葉だけははっきりと思い出せる。
そのときふと、気になった。そもそもどうして、私は彼を拾ったのだったか。
あれは、冷たい雨の降る日のことだった。馬車の窓から外を眺めていたら、建物の隙間にぼろきれのようなものが見えた。それが人間だと分かって、思わず馬車を止めさせた。
一緒に馬車に乗っていた両親は、倒れているミロシュを見て嫌な顔をしていた。それが、普通の反応だろう。
しかし私は、そのまま彼に近づいていった。見捨てておけないと、そう思った。私が助けなくては、守らなくては。
そんな感情を思い出した時、心の片隅で何かが引っかかるのを感じた。私は、その感情をずっと忘れていた。あの破滅の未来から舞い戻ってくる、その時までずっと。
心臓が、嫌な感じに大きく跳ねた。辺りが炎に包まれて、熱気が押し寄せてくる。喉がひりひりする。
そんなはずはない。私はまた、幻を見ているのだ。恐怖のあまり浅い呼吸を繰り返しているせいか、手足が冷たくなってくる。
「我が君」
とても静かなミロシュの声に、私の頭にかかっていたもやが一気に晴れる。炎の幻は、たちまち消え去った。
「どうした。顔色が悪い」
「……大丈夫。少し、考え事をしていただけだから」
そう答えつつも、まだ心臓は早鐘のように打ち続けていた。恐る恐る深呼吸して、ミロシュの手をしっかりと両手で握り返す。
「……私はここにいる。あの炎は、もうやってこない」
私の独り言は、きっとミロシュには意味が分からないものだっただろう。けれど彼は何も言わず、静かに微笑みながら寄り添ってくれていた。
「我が君。俺はあなたのそばにいる。何があろうと。……たとえあなたが、俺を拒もうとも」
彼はあの破滅の未来を知らない。あの未来で、私と彼の間に何があったか知らない。それなのに、彼はとても穏やかに、そんなことを言い放っていた。




