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32.腹心たちの思い

 ガブリエルには席を外してもらって、自室でニコラと二人きりになる。どうにも気まずい空気が、部屋には流れていた。


「……その、ごめんなさい」


「何について謝っておられるのですか」


 彼の声は驚くほど平坦だった。やはりこれは、怒っている。


「あなたに黙って、一人で危険に飛び込んだこと……ね」


「ですが、貴女は私の主で、この国の女王です。貴女が思うまま動いたところで、私には腹を立てる権利すらありませんが」


「……それでもあなたは、ずっと私を支えてきてくれた。だから、やはり前もって相談しておくべきだった。今さらだけれど、そう思うわ」


 しゅんとしながら頭を下げる。少し間があって、頭の上から静かな声が聞こえてきた。


「女王陛下に頭を下げられるとは、中々に珍しい経験をしました。どうか顔を上げていただけますか、リーズ様?」


 恐る恐る彼の方をうかがうと、さっきまでのぴりぴりした雰囲気は消えていた。相変わらずの無表情だが、それは見慣れたものに戻っていた。


 思わず胸をなでおろして安堵のため息をつく私に、ニコラはしみじみと話しかける。


「しかし貴女が私に隠し事をしたのは、これが初めてですね」


「そういえばそうね。……私たちはこの五年、お互いだけを信じてやってきたようなものだから」


 正確には私とニコラ、それにミロシュの三人だったが、こと政治に関してはニコラに頼りっぱなしだった。


 私の言葉を聞いて、ニコラは嬉しそうに笑った。それはもう、はっきりと。普段冷静沈着な彼が浮かべた笑顔は、驚くほど無垢で、柔らかなものだった。


 なぜか、頬がちょっとだけ熱い。動揺をごまかすように、とっさに話をそらした。


「ね、ねえ、ニコラ。私がどうして女王になりたがっていたのか、あなたは知らないかしら?」


 前の破滅の未来で、最期に考えていたこと。どうして私は女王になりたかったのか、女王になって何がしたかったのか。その答えは今でも、思い出すことができなかった。


 付き合いの長い彼ならその答えを知っているのではないかと、ふとそう考えたのだ。


「いえ、残念ながら存じません。私が貴女と出会った時にはもう、ご自身が女王になるのだとおっしゃっていましたから」


 私がニコラと出会った五年前、既に当時の王、冠の家の当主は老齢で、病の床につくことが多くなっていた。そう遠くない未来に、王は崩御する。誰もがそう思っていた。


 そうなれば、私は盾の家の当主と、そして新たに選ばれた冠の家の当主の二人を相手に、玉座をかけて争うことになる。


 しかし当時の盾の家の当主も、王に負けず劣らず年を食っていた。だから私の競争相手は、いい加減頭が弱ってきている年寄りの当主か、代替わりして間もない新米の当主になる可能性が高かった。


 これなら勝てるかもしれないと、そう思った。そしてその予感は的中した。その結果あんなことになるなんて、思いもしなかったけれど。


「しかし、どうしてそのようなことを尋ねられるのですか?」


 不思議そうな顔で、ニコラが尋ねてくる。一瞬ためらって、すぐに言葉を返した。隠すようなことでもないのだからと、自分に言い聞かせて。


「……前の人生、破滅のあの未来において、私はどうしてもそのことを思い出せなかった。そして今も、それは同じ」


 自分をあざわらうような笑いが、口元に浮かんでいるのを感じる。


「あんなことになる前に、思い出せていたなら……もっと違った結末を迎えることができたのかもしれないって、そんな予感がするの」


「思い出せなくとも、何も問題はないでしょう」


 予想外の反論に、目を丸くした。ニコラは堂々と胸を張って、覚えの悪い子供に言い聞かせるような口調で続けた。


「今の貴女は、女王としてしっかりと国を治めておられます。無気力や自暴自棄とは、まるで無縁です。貴女はこのままでいいのです」


 きっぱりと言い切るニコラの言葉に、自然と笑みが浮かぶ。胸の中にわだかまっていたもやもやしたものが、少し軽くなったように思えた。


「ありがとう。あなたにそう言ってもらえるなら、まだ大丈夫ね」


「まだ、では困ります。ずっと、でなくては」


 そう釘を刺しながら、ニコラはもう一度優しく微笑む。


 今の私が無気力にとらわれずに済んでいるのは、きっと彼がいてくれるからだ。彼だけではない、ガブリエルにミロシュ、アネットにセレスタン、他にもたくさんの人たちが、私のそばにいる。


 前の私は、ひとりきりだった。唯一の味方であるニコラやミロシュにさえ、本当の意味では心を許してはいなかった。あんな悲惨な最期を迎えてようやく、私はそのことに気づくことができた。


「……ありがとう」


 唐突に礼を言う私に、彼は何も言わなかった。ただ穏やかに微笑んだまま、じっと私を見つめ続けていた。






 そんな風に二日目も無事に過ぎて、私はただ一人でぼんやりと窓辺に座っていた。窓の外には、綺麗な星空が見えている。美しい星たちが、まるでこちらを誘うようにまたたいている。


 明日からは、またいつも通りの日々だ。それが分かっていても、どうしても今部屋から出たくなってしまった。近くのテラスでほんの少しだけ夜風に当たって、すぐに戻るだけなら構わないだろう。


 一応物音を立てないように気をつけながら、部屋の入口に向かう。そのままそろそろと、扉を開けた。


 扉の向こうには、ミロシュが突っ立っていた。まるで、私が脱走しようとしているのを予期していたかのように、私の進路をその体でふさいでいた。


「……ええっと、こんな時間にこんなところで、何をしているの?」


「俺は我が君の護衛だ。明日の朝まで、あなたが部屋から出ないように見張っていた」


 表情一つ変えることなく、ミロシュは堂々と答えた。


「仕事熱心なのは、いいことなのだろうけれど……もう深夜よ」


「あなたが起きている間は、俺も眠る訳にはいかない」


「ねえミロシュ、ちょっとだけ見逃してくれないかしら。そこのテラスで少し夜風に当たったら、すぐに戻ってくるから」


 身長差のせいで、自然と上目遣いになる。ミロシュはほんの少し頬を緩めつつ、私の目をしっかりと見返していた。


「……分かった。ならば俺も行く」


 短く答え、彼は道を開ける。そのまま二人で、王宮の廊下をゆったりと歩いていった。どちらも無言だったけれど、それがむしろ心地良かった。


 一番近くのテラスに出ると、そこには満天の星空が広がっていた。まるで今にもこちらに降り注いできそうなほどたくさんの星が、楽しげにきらめいている。今日は、月は出ていなかった。


 手すりにつかまって、夜風に髪をなびかせながら空を見渡す。久しぶりに、とてもいい気分だった。ずっと気にかかっていた憂国軍の問題が、ようやっと解決したからだ。


 もちろん、まだ油断するには早い。それは分かっている。けれど、こうして前よりも一歩前進できた。今はそのことを素直に喜んでいたかった。


 うっとりと目を細めたその時、腕に何かが触れた。反射的にそちらを見ると、私の左腕にミロシュがそっと手を当てていた。ちょうど、先日彼の吹き矢がかすめた辺りだ。


「……傷を、見せて欲しい」


 こちらと目を合わせないまま、暗い顔で彼はそう尋ねる。ええ、と小声で答えると、彼はゆっくりと寝間着の袖をまくり上げていった。すぐに、私の腕がひじの辺りまであらわになる。


 ミロシュは壊れ物でも扱っているかのような手つきで、私の腕を両手でつかんでいる。


 吹き矢がかすめた傷はとても小さな、細い糸のようなひっかき傷でしかなかった。この暗さでは、目を凝らしてもろくに見えないくらいかすかな傷。


 けれど彼は指で傷跡をなぞりながら、切なげなため息を漏らしていた。


「俺は我が君を守りたい。それなのに、俺があなたを傷つけてしまった」


 そのあまりに悲痛な様子に、尋ねずにはいられなかった。左腕を彼に預けたまま、おずおずと切り出す。


「……ねえ、ミロシュ。あなたはどうしてそこまで懸命に、私に従っているの? 昔助けた分の恩はもう返してもらっているし、あなたが望むなら自由になっても」


「嫌だ!」


 ミロシュが私の腕をつかんだまま、声を荒げて私の言葉をさえぎる。彼のこんな表情は、初めて見た。


「俺は、俺の意志で我が君に従っている。あなたの力になることこそ、俺の全てだ」


 きっぱりとそう言い放ちながら、彼はすがるような目で私をじっと見つめている。やけに熱っぽい、うるんだ目だ。


 月のない夜に、彼の目がまるで月のように浮かび上がる。その輝きから目を離すことができなくて、私はただ彼と見つめ合っていた。


 狼に狙われた子ウサギは、きっとこんな気分なのかもしれない。本能は危険を告げているのに、魅入られたように動けない。


 どれだけそうしていたのか、彼はすっと目を閉じた。緊張でこわばっていた私の体から、ふっと力が抜ける。


 彼はかがみこみ、私の腕に顔を寄せた。うっすらと残っている傷跡に、そっと唇を寄せる。夜闇の中で灰色に見える彼の前髪が、優しく私の腕をくすぐった。


「ああ、でも……あなたを傷つけたのが、俺で良かった」


 陶酔したような声音に、思わずびくりと身を震わせる。それでも、私の腕をつかんだままの彼の腕が離れることはなかった。


「あなたを傷つけていいのは、俺だけだ……もし他の誰かだったら、俺は決してそいつを許せない」


 歌うような抑揚をつけて、ミロシュはささやく。それはひどくゆがんでいるように思えるのに、同時にぞくぞくするほどの甘さもはらんでいた。


「リーズ、様……」


 ひんやりとした夜風が、ひときわ強く吹きつけてくる。それなのに、少しも寒いとは思わなかった。ミロシュに腕をとられたまま、私はただ立ちすくんでいた。

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