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17.苦いパンと甘いケーキ

 無事に王宮に戻ってきてから、数日があっという間に経っていた。特に変わり映えのしない、ただただ書類を処理し続けるだけの日々。


 前の人生のような空虚さこそないものの、何も進展がないというのはどうにももどかしいものだった。ニコラの案による、全国の小領主たちに出した通達、それだけが今の私たちの希望だった。


 小領主たちの目を借りて、国の中にひそんでいるだろう内乱の芽を見つけ出し、一つずつつぶしていく。なんとも地味だが、おそらく現状ではこれが最も効果的な手だろう。


 そんなことを考え込んでいたら、すっかり肩がこってしまった。大きく息を吐きながら顔を上げると、ちょうどこちらを見ているガブリエルと目が合った。


 彼は青い目を細めて、にっこりと可愛らしく微笑む。柔らかな蜂蜜色の髪が、ふわりと揺れた。その手には、しっかりと書類の束が握られている。彼は仕事を覚えるのが早く、日に日にできることを増やしていた。


 どうして彼は、こうも一生懸命なのだろう。私が彼に声をかけたから、彼はそう言っていたが、やはり心当たりがない。命に代えても私を守りたいと彼が思ってしまうような、そんなことを言った覚えがない。


 けれど、彼のそんなひたむきさは好ましいものだった。彼の頑張りに、何か報いてやりたいと思うくらいには。


 一度、彼を息抜きに誘ってみるのもいいかもしれない。ろくに趣味もない私には、アネットに教えられた街歩きくらいしか思いつかないけれど。


 ガブリエルに笑いかけて、さらに目線をさまよわせる。ものすごい勢いで書類を処理しているニコラの姿が目に入った。


 彼は集中しているのか、私の視線に気づかないまま作業を続けている。額にさらりとかかる黒髪が邪魔なのか、時々手でかき上げている。思いもかけない、なまめかしささえ感じさせる仕草だった。


 ついつい見とれていたら、彼は目だけを動かしてこちらを見てきた。けれど何も言わずに、その目はまた書類の上に戻ってしまう。


 私が経験したあの破滅の未来について知っているのは、彼だけだ。そして彼は、あの未来を阻止するために大いに力を貸してくれている。とても頼もしい味方だ。


 けれど最近、彼はどこかよそよそしいようにも思えた。時折物思いにふけっているし、どうしたの、と尋ねても、何でもありません、としか返ってこない。


 まさかあの未来のように私を見捨てるようなことはないと思うけれど、どうにも心配だ。けれどどうすればいいのか、さっぱり分からない。どうすれば彼の気が晴れるのか、そもそも何に悩んでいるのか。


 私が彼と出会ってから五年、彼のことは良く知っていると思っていた。それがただの勘違いと気づかされ、少し落ち込む。


 ため息をついた拍子に、書類が手から滑り落ちてしまった。それが床に落ちるよりも先に、浅黒いしなやかな手がそれをつかまえた。差し出された書類を受け取りながら礼を言うと、ミロシュは明るい月の色の目をわずかにほころばせた。


 彼は相変わらず、私に張りついている。私を守って、という命令を、それはもう忠実に守っているのだ。堂々と私にくっついている彼をガブリエルがうとましそうな、うらやましそうな目で見ているが、ミロシュは全く動じていない。


 彼とも長い付き合いだが、こうやって彼の姿を明るい昼の光の下で見るのは久しぶりだ。よく鍛えられたしなやかな体、とても機敏な身のこなし。ニコラも剣術には長けているけれど、ミロシュのほうが腕前は上だ。


 おまけに彼は、気配や姿を消すのもたいそう上手だ。こうして彼に護衛されている私ですら、時折彼の存在を忘れそうになる。それくらい自然に、彼は周囲に溶け込んでいるのだ。


 彼がついていてくれれば、前の人生のような大きな内乱が起こったとしても生き延びられるかもしれない。そんなだらけた考えが、時折頭をよぎるようになっていた。ミロシュが頼もしくて、つい油断し始めていたのだ。


 ところが、そんな甘い考えはあっさりと消え去る羽目になった。




 この日も私たちは、四人一緒に夕食の席を囲んでいた。みな今では、こうやって一緒に食事を取ることにすっかり慣れてしまっていた。めいめい思い思いのことを話しながら、和やかに食事は進んでいく。


 パンを口にしようとした私の手首を、ミロシュが突然つかむまでは。


「どうしたの、ミロシュ?」


 状況が分からずに首をかしげる私に、彼は低い声で言った。


「毒だ」


 思いもかけない事態にぽかんとする私とガブリエルを置いて、ニコラがミロシュに声をかけた。


「毒の種類は?」


「さほど珍しいものではない。数日寝込む程度の、弱いものだ。暗殺というより、嫌がらせだ」


「そうですか。それでも、リーズ様に害をなさんとした者がいるのは事実。いち早く気づいてくれて助かりました」


「我が君のためだ。お前に感謝されるいわれはない」


「相変わらず無愛想ですね。リーズ様の隣で仏頂面をさらさないでもらえますか」


「お前ほど無表情ではない」


 そんなことを手短にののしり合い、もとい話し合った後、ニコラが大股で部屋を飛び出していった。おそらく、下手人やその手がかりを求めて、厨房を改めにいくのだろう。


 ミロシュはミロシュで、なにやらてきぱきと手を動かしている。見ると、食卓の上のパンを調べて、さらにいくつかをより分けていた。ナプキンを取り上げて、きっちりとそれらを包んでいる。おそらく、あちらが毒入りなのだろう。


「我が君、こちらは安全だ」


 残りのパンを指し示しながら、彼は自信たっぷりにそう言う。その顔は明らかに得意げだった。その横では、またガブリエルが不満そうな顔をしていた。おそらく、この事態に自分だけ何もできないことが悔しいのだろう。


「……ええ、ありがとう。やはりあなたに護衛を頼んでよかったわ」


 まだ呆然としながら、そんな言葉を返す。ミロシュは何も言わなかったが、それは嬉しそうに、にっこりと笑った。凛々しい顔立ちには不釣り合いな、あどけない笑みだった。




 この日の騒動はここで終わった。手早く食事の残りを詰めこんで、そそくさと執務室に移動する。誰も、ろくに口をきかなかった。さっきまでの和やかな空気とは打って変わった、居心地の悪い緊張感だけが満ちていた。


 そして次の日の午後、そろそろ休憩を入れようかという頃合いのことだった。ガブリエルがいきなり立ち上がり、ぱたぱたと元気良く駆け出していったのは。


 ミロシュが私の護衛となってからというもの、彼はどことなくふさぎ込んだ様子だった。けれどこの時は、不思議なくらい生き生きとしていた。


 しばらくして、彼はお茶の用意が一式載せられたワゴンを押しながら戻ってきた。その一番上には、きれいに切り分けられたケーキが並んでいる。干し果実やナッツがたっぷり入っていて、上には泡立てたクリームも乗せられている。素朴だけれど、とてもおいしそうだ。


 ガブリエルが何か言うより先に、ミロシュがワゴンに近づいていく。彼はケーキや食器に顔を寄せて、じっくりと慎重に調べ始めた。


「……毒なんて入っていません。これはみんな、僕が一人で作ったものですから。誰かが近づかないように、ちゃんと鍵をかけた場所にしまっておきました」


 泣きそうな顔で、ガブリエルが抗議する。


「昨日あんなことがあったばかりですし、せめて姉様に、安心してお茶を楽しんでもらいたくて」


 けれどミロシュは一歩も引かず、冷たく言い放った。


「お前が我が君に危害を加えないという、根拠がない」


「ぼ、僕は」


 浮かんできた涙をぐいと袖で拭って、ガブリエルは勢い良く顔を上げる。


「僕だって、姉様の役に立ちたいんです! 僕はニコラさんみたいに賢くはないし、ミロシュさんみたいに強くもないから、こんなことしかできないけれど」


「なぜだ」


「だって、僕は……姉様に救われたから」


 ガブリエルは、私のことを大切な人だと言っていた。私がひとりぼっちの彼に声をかけたから、そんな理由で。


 そして今彼は、私に救われたと言っている。やはり心当たりがない。小首をかしげて、彼の言葉に耳を傾ける。


「……僕と母様が剣の家に来た時、誰も僕のことを見ていませんでした。母様は父様にかかりっきりになっていたし、父様にとっても、僕は母様にくっついてきたおまけでしかなかったんです」


 ケーキの甘い匂いが漂う部屋の中に、ガブリエルの高い声だけが響く。


「僕は寂しくて、たった一人でずっと泣き暮らしていたんです。そうしたら姉様が、僕のところに来て言いました」


『悲しいのなら、立ち上がりなさい。何もないのなら、戦ってでも勝ち取りなさい。めそめそしていても、誰も救ってはくれないわ。自分で強くなるしかないのよ』


 いまいち記憶にない。きっとそれは私にとって、ささいなことでしかなかったのだろう。いつまでも泣いている子供にいらだって、泣き止ませようとした。多分、それだけだ。


 実際私は、それからも彼のことを少しもかえりみなかったのだから。胸にこみ上げてきた後ろめたさに、そっと唇をかむ。


「だから僕は、頑張って強くなろうとしているんです。いつか、姉様が僕を認めてくれる時まで。いいえ、それからも」


 ほんの少し照れ臭そうに、ガブリエルが笑う。いつもの弱々しい笑顔ではなく、落ち着きを感じさせる大人びた顔をしていた。


 いつの間にか彼は、一人前の男性へと成長を遂げ始めていたらしい。目を見張って彼を眺める。まだ子供らしい細い手足にも、少女のような面差しにも、そのきざしが見えていた。


 彼が私を大切に思うようになったきっかけは、ささいなものだった。むしろ、ただの勘違いだった。けれどもし私が真実を伝えても、彼は笑って首を横に振るのだろう。それでも、僕の思いは変わりません、と。根拠はないけれど、そう確信できた。


 後ろめたさの代わりに、誇らしさが胸に満ちる。彼が弟で良かったと、そう思える。


 小さく微笑んで、ワゴンに近づいた。ケーキをひとかけら行儀悪く指でつまんで、口に放り込む。優しい甘さとナッツの食感が心地良い。


「とってもおいしいわ、ガブリエル。少なくとも、料理の腕についてはもう一人前かもしれないわね」


 にっこりと笑いかけると、ガブリエルはまた目を潤ませた。さっきまでの大人びた表情はどこへやら、いつもの泣き虫に戻ってしまっている。


 鼻をぐすぐすと鳴らしながらお茶の準備をする彼を手伝いながら、私はささやかな幸せをかみしめていた。

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