14.久しぶりの王宮
次の日、私たちは予定より一日遅れて町を後にした。見送ってくれたセレスタンとアネットに別れを告げて、馬に乗る。
新しく馬を一頭買い入れて、ガブリエルはそちらに乗ることになった。本人は私と相乗りのほうがいいという顔をしていたが、さすがに王宮までずっと二人乗りしていては馬のほうがばててしまう。
そうして私たちは、速やかに王宮に戻っていった。行きとは違って盾の城に寄る必要はないので、最短経路を取ることができた。大変平和で、順調な旅だった。
しかし王宮につくやいなや、暗い顔のジェレミーが駆けつけてきた。
「お帰りなさいませ、陛下。実は、ガブリエル殿が……」
そこまで言ったところで、ジェレミーが口を閉ざす。彼の視線をたどると、そこにはガブリエルがいた。私のすぐ後ろで、いつものようにおどおどとした顔でたたずんでいる。
「……ガブリエル様、陛下と共におられたのですね。急に行方が知れなくなったので、心配しておりました」
ジェレミーはそう言って、心底ほっとしたような顔で微笑んだ。その顔を見ていたら、私まで申し訳なくなってしまった。
私がガブリエルの同行を拒まなければ、ジェレミーが心配するようなことにはならなかった。そんな気がしてならなかったのだ。
「あなたには迷惑をかけてしまったわね、ジェレミー。こんなことなら、ガブリエルを連れて行けば良かったのかもしれない」
「いいえ、姉様。王宮で待っているようにという姉様の言いつけを守れなかった僕が悪いんです」
そんなことを言い合う私たちに、ジェレミーがそっと口を挟んできた。
「ところで、どうしてガブリエル殿がいなくなられてしまったのか、いつどうやって陛下と合流されたのか、その辺りについてうかがってもよろしいでしょうか」
ジェレミーの声は低く優しく、こちらの心をほぐしてくれるようだった。私たちは目と目を見交わし、互いの情報を補うようにしながら、これまでのことを説明していった。
じっと耳を傾けていたジェレミーの目が、驚きに見開かれる。
「なんと、そのようなことになっていたのですか。私が余計なことを言ったばかりに。誠に申し訳ありません」
「いいえ、飛び出した僕が悪いんです」
「そもそも私が、留守番なんてさせなければ」
三人同時に、そんなことを口にする。三人が三人とも自分が悪いのだと主張しているこの状況がなんともおかしくて、思わずぽかんとしてしまった。それはガブリエルとジェレミーも同じだったらしく、二人とも目を丸くして口を閉ざしている。
どことなくくすぐったい沈黙の中で、押し殺したような吐息の音だけが小さく聞こえていた。どうやら、ニコラがこっそりと笑っているらしい。
ジェレミーが小さく咳払いをして、むずがゆい空気を追い払った。けれど彼の口元にも、小さく笑みが浮かんでいる。
「ともかくご無事でようございました、陛下も、ガブリエル殿も。長旅でお疲れでしょう、今日はゆっくりお休みください」
「リーズ様、今回の件についての報告は、私のほうで済ませておきます。どうぞ、そちらについてはご心配なく」
すかさずニコラが口を開いたが、その声はほんの少し揺らいでいたし、目元はわずかに下がっていた。慣れていない者には分からないだろうが、彼は明らかに笑っている。
どうもこのところ、彼は表情豊かになりつつあるような気がする。たぶん、私が破滅の未来を見てきたと彼に告げた、その日から。少しずつ、けれど確実に。
笑顔のニコラとジェレミーに見送られ、私とガブリエルはその場を後にした。
「姉様、その……本当にごめんなさい」
二人一緒に王宮の廊下を歩きながら、ガブリエルはまた謝罪の言葉を口にする。これでもう何度目になるのか分からない。あの砦で彼を助け出してからこっち、彼はずっとこんな調子だ。
小さくため息をついて、彼に向かって手を伸ばす。ガブリエルはびくりと肩を震わせて、身をすくめた。
私は彼に手を上げた覚えはないのだが、彼はずっと剣の家で疎まれていた。口うるさい年寄り連中辺りに、ぶたれたことがあるのかもしれない。ちょうど、そんな感じのおびえ方だった。
ためらうことなくさらに手を伸ばし、彼の頭にぽんと置いた。そのまま、ゆっくりと頭をなでる。
「ありがとう、ガブリエル。あなたが私の力になろうとしてくれたその気持ちは、嬉しい」
ガブリエルは恐る恐る顔を上げ、こちらを見た。
「でも、もうあんな無茶はやめてちょうだい。とらわれているあなたを見た時は、血の気が引いたもの。いいわね?」
可能な限り優しく声をかけると、彼の深い青の目にみるみる涙が浮かんできた。こんなにも怖がりで泣き虫な彼が、私の役に立ちたいという一心で、あんな無謀な行動に出た。
胸の内に何とも言えない気持ちがこみ上げてくる。庇護欲と切なさと、愛おしさと申し訳なさとが複雑に混ざり合った、不思議な感情だ。
ガブリエルは目をしきりにまたたかせながら、涙のにじんだ震えた声で答える。
「でも、僕、感謝してもらえることなんて、何も……それどころか、たくさんの人に、迷惑ばかりかけて」
「そう思うのなら、これからの働きで埋め合わせてくれればそれでいいわ。だから、謝るのはもうおしまい」
にっこりと笑って断言すると、彼は宝石のように美しい涙をぽろぽろと流しながら、ぎこちなく微笑みうなずいた。
私はさらに彼の頭をなでながら、笑顔で涙を流す彼を見守っていた。
その日の夜、またニコラがお茶の用意を手にしてやってきた。
「長旅で心身共にお疲れでしょうから、いつものものと薬草の配合を変えております」
「ありがとう、いつもあなたの気遣いには助けられているわ」
そう答えると、お茶を入れている彼がかすかに肩を震わせた。ほんの少しこわばった顔で、彼は湯気を立てるカップを差し出してくる。
彼の言う通り、確かに普段のお茶と少し香りが違っていた。これはこれで、悪くない。
ゆったりとお茶を飲む私を見ながら、ニコラは何か言いたそうにしていた。やがて苦しげに、彼が口を開く。
「……貴女はすっかり、変わってしまわれたのですね」
「あなたには、そう見えているのね。だったら、いいことだわ」
「どうしてそう思われるのでしょうか」
こちらを見つめるニコラの目が、不安げに揺らいでいる。彼にしては珍しい表情だ。
「前にも言ったでしょう、私は破滅の未来を見てきたのだと。私が変わらなければ、きっとまたあの未来にたどり着いてしまう。それだけは、どうしても避けたいの」
そう答えると、ニコラはすっと視線をそらした。そのまま、小声で言う。
「……その未来について、詳しくお話してはもらえませんか。貴女が死を迎えようとしている時に、私はいったい何をしていたのか」
少しためらって、全てを打ち明けることにする。彼に見捨てられたくない、彼に信頼されていたい。だったらまずは、こちらから彼を信頼するしかない。
そして全てを聞いた彼は、うめき声をあげながら両手で顔を覆ってしまった。
「確かに、そんな未来は……ごめんです。私のいないところで、貴女がひとりきりの最期を迎えるだなんて」
普段冷静な彼とは思えないほどはっきりと、彼は嘆いていた。その姿を見ていると、ふと頭に浮かぶことがあった。彼ならば、前の人生での彼自身のふるまいについて、想像できるのではないか、説明できるのではないか。
「……一ついいかしら、ニコラ」
彼は押し殺したような声で、はい、と短く答えた。
「あの未来であなたが私を見限った、その理由が今のあなたには見当がついたりはしない?」
「……はい、分かります」
驚いたことに、彼はすぐにそう言葉を返してきた。こちらを見ないまま、彼は続ける。
「その未来で、貴女はすっかり腑抜けてしまわれた。女王としての誇りも何も投げ捨てて、落ちぶれてしまわれた。そうでしょう?」
「そうね。その点については否定できないわ」
あの頃の私は、ただの抜け殻だった。夢をつかみとり、その結果全てを失くしていた。
「きっと私は、そんな貴女を見ていられなかったのだと思います。貴女のそばにいることが、辛かったのでしょう。……それと」
ニコラの声が揺れ、途切れる。けれど彼はすぐに、また話し始めた。ずっと低い声で。
「私が貴女を支えることをやめれば、また貴女が自分の足で立ち上がられるかもしれない。元の輝きを取り戻されるかもしれない。そんなわずかな可能性に、賭けようとしたのかもしれません」
彼の声は、もうささやき声のようなものになっていた。吐息交じりに、彼はつぶやく。
「私は、誇り高く輝く貴女のそばで、貴女を支えていたい。私は貴女に初めて出会ったその日から、ただそのことだけを望んでいます」
そう言ったきり、ニコラは口を閉ざしてしまった。こちらを見ないまま。
「……それで、前に私が『逃げたい』と言った時、あなたはあんなにも取り乱したのね」
ニコラに近づき、その肩に手をかける。彼は一瞬びくりと体を震わせたが、それ以上動きはしなかった。
「話してくれて、ありがとう。あなたがそんな賭けに出なくて済むように、全力を尽くす。だからこれからも、私を支えてちょうだいね、ニコラ」
ニコラはかすかにうなずいた。その横顔には、戸惑いと喜びが浮かび上がっている。彼の手がのろのろと動いて、私の手に重ねられた。指の長い、ほっそりとした優美な手だった。
私たちはそのまま、ただ黙って寄り添っていた。