10.姉として、弟のために
どうして、ガブリエルがこんなところに。彼は王宮で留守番をしているはずではなかったか。呆然としたまま彼の顔を見つめていると、下卑た笑い声が聞こえてきた。
「やはり『悪の女王』でも、弟のことは見殺しにできないみたいだな。いやあ、これはいい拾いものをした」
ガブリエルを人質にとったならず者は、小汚いひげ面に大きな笑みを浮かべてそう言い放った。
私に向けられた呼び名に、背筋が寒くなる。『悪の女王』。また、その名が民の間に広まり始めているのかもしれない。あの破滅に、また一歩近づいてしまった。そう思わずにはいられなかった。
震えそうになる膝に力を込めて、しっかりと地面を踏みしめる。とにもかくにも、ガブリエルを奪還しなくては。悩むのも恐れるのも、その後でいい。『剣』を握り直し、構えを取ろうとする。
「おおっと、動くんじゃねえぞ、女王。喋るのもなしだ」
反射的に、動きを止めた。勝利を確信したような顔で、ならず者が言い放つ。
「全員、武器を捨てろ。誰か一人でも動いたら、この餓鬼の喉笛をかっ切ってやるからな」
ならず者は私たちに見せつけるように、ガブリエルの首元に刃物を食い込ませた。赤いしずくが一筋、彼の首を流れ落ちていく。
頭の中に、あの時の記憶が一気によみがえる。赤く染まった、ガブリエルの顔。たくさんの血。ああ、止めなくては、死んでしまう、終わってしまう。
手が震えて、『剣』を取り落とす。金色に輝く優美なそれは、私の足元の石畳でからんと乾いた音を立てた。
私がしっかりしなくては。そう思うのに、頭が真っ白になってしまっている。何も考えられない。繰り返し再生される恐ろしい記憶から、一歩も出られない。
顔を上げるのが怖い。ガブリエルを見るのが怖い。私はただ、宙を見つめて震えることしかできなかった。
そうこうしているうちに、さらに奥からならず者たちがぞろぞろと現れた。みな余裕の表情をしている。
「いやあ、こいつを捕まえた時はとっとと売り飛ばそうかと思ったが、あの方の助言通り残しておいて良かったな」
「全くだ。ところで、あれは何なんだ?」
見下したような顔で私たちを見渡していたならず者たちの視線が、一か所に集まった。
のろのろと、横目でそちらをうかがう。『盾』を構えたセレスタンと、その後ろに隠れたアネットが見えた。彼女の額には、まだ『冠』が輝いたままだ。
二人の姿を見た時、少しだけ落ち着きが戻ってくるのを感じた。自分はまだ、ひとりではない。そう思えたのだ。
「なんでこんな可愛らしい娘っ子が、こんなところにいるんだあ?」
「だな。戦えるようには見えねえし」
「女王のお付きなんじゃねえのか?」
「だったら、近くの町に置いてくるだろ、普通は」
そんなことを話しながらも、連中の目は油断なく私たちに注がれている。これでは、隙をつくことすらできない。何もできない自分の無力さが悔しくて、唇を強くかみしめた。
「わたしに任せて、リーズ」
ならず者たちの下品な声の合間に、高く澄んだ小さな声が聞こえてきた。その涼やかさに、はっとなる。
目だけを動かして、声の主を見やる。ならず者たちが唯一警戒していないアネットが、セレスタンの背中に隠れたままこちらを見つめていた。彼女は優しく微笑んで、大きく息を吸う。
「みんなお願い、あの人たちを吹っ飛ばして!」
突然、アネットがそう叫んだ。ならず者たちは一瞬ぽかんとしていたが、またにやにやと笑いだした。無力な少女が恐怖のあまりに漏らした叫び声に過ぎないと、そうあなどっているようだった。
特大のいななきと共に、馬の群れが殺到してくるまでは。
私たちの背後から聞こえてきたひづめの音に、ならず者たちが気を取られ、うろたえる。ガブリエルの喉から、刃物がわずかに離れた。
その一瞬を狙って、大きく前に踏み出す。地を蹴って、全力で跳躍する。ガブリエルに向かって、手を差し伸べながら。
やけにゆっくりと時間が流れているように感じられた。周囲の音が、ひどく遠くから聞こえてくる。
ガブリエルに飛びかかり、そのまま押し倒す。それが合図になったかのように、周囲のならず者たちが四方に散った。迫りくる馬たちから、逃れるために。
あの馬は、私たちが乗ってきたものだ。それがアネットの呼びかけにより、ならず者たちを攻撃するために駆け寄ってきたのだ。
そして今、馬たちは私とガブリエル目がけて突っ走っている。あの速度では、止まることも方向転換することもできない。
恐ろしく大きなひづめの音が、間近に迫る。押し寄せてくるけたたましい音を聞きながら、ガブリエルをかばうように抱きしめる。馬たちの立てる砂煙が、ふわりと頬をかすめた。
「……まったく、無茶をする」
予想していた衝撃は来なかった。代わりに聞こえてきたのは、あきれたような、感心したような声だった。
そろそろと顔を上げると、セレスタンと目が合った。妙に近くに、彼の顔がある。思わず目をぱちぱちとしばたかせる私に、彼は優しく苦笑してきた。
ゆっくり首を回して状況を確認する。私たちの隣にセレスタンがかがみ込み、『盾』を掲げていた。どうやら彼が、とっさに私たちと馬との間に割り込んでくれたらしい。
周囲では、逃げ遅れて馬に蹴飛ばされたならず者たちがうめいている。けれど無事なものもいて、また砦の中に逃げ込もうとしていた。
「逃がす、ものですかっ!」
すぐに立ち上がり、石畳に落ちたままの『剣』を拾い上げた。ガブリエルを人質に取られた分の怒りを乗せて、『剣』を振り回す。手加減こそ忘れなかったが、一人ずつ順に追い回して、存分に叩きのめして回った。
あっという間に、その場にいた全てのならず者たちは地面に転がる羽目になっていた。ニコラと騎士たちがてきぱきと動き、手際よく縛り上げている。
一仕事終えて額をぬぐっていると、ガブリエルが恐る恐る近寄ってきた。縛られていた縄もほどかれ、自由になった両手を胸の前で握りしめている。
「ガブリエル、その……大丈夫? 怪我はしていない?」
戸惑いながら、そう声をかける。さっきは必死だったので気にならなかったが、こうして落ち着いてみると、やはり彼とどう接していいのか分からない。
もっと他にかけるべき言葉があるのかもしれない、あるいはそっとしておくのが正解なのかもしれない。そんな思いが、ぐるぐると頭の中を回る。
私の声を聞くと、ガブリエルは深い青の瞳にうっすらと涙を浮かべた。その肩が、小さく震えている。
「姉様、僕……足手まといになってしまいました……」
「いいのよ。ひとまず、あなたが無事なようで良かった」
王宮で私の帰りを待っているはずの彼が、どうしてこんなところにいるのか。聞きたいことは色々とあったけれど、何よりも無事に彼を救い出せたことが嬉しかった。まだ戸惑いは消えないけれど、この気持ちは確かなものだ。
そろそろと手を伸ばし、彼の肩に触れる。彼はびくりと、小さく身を震わせた。温かい、生命を感じさせる確かな感触。
さらに腕を伸ばして、彼をそっと抱きしめる。私よりほんの少し小さい彼の体を、しっかりと捕まえるように。
ガブリエルは戸惑っているのか、何も言わずに立ち尽くしていた。しかしやがて、その肩が大きく震えだした。どうやら、声を殺して泣いているらしい。
「……もう、大丈夫だから」
ガブリエルの背中をそっとさすりながら、優しく語り掛ける。こみあげてくる愛おしさのままに。
私は昔から、彼に興味がなかった。前の人生で彼の最期を見届けるまで、ずっと。
けれど新しい人生を踏み出した私は、もう彼を死なせたくないと思うようになった。けれどそれでも、彼にどう接していいか分からなかった。
彼の背中に回された自分の手を見て、そっと苦笑する。あんなことがあってようやく、私はしっかりと彼に触れることができた。
やっと、私は彼の姉になれたのかもしれない。泣きじゃくるガブリエルの髪をなでながら、そんなことを思った。