1.巻き戻った時間
私は、女王になりたかった。どうしてそう願っていたのかは、もう覚えていない。
全ての始まりは、長く病に伏していた先王が息を引き取ったことだった。次の王の候補は、私を含めた三人。玉座をかけて、私たちは競い合った。
他の二人を蹴落とすために、私は手段を選ばなかった。どんなことをしてでも、勝ちたかった。女王になりたかったから。
一方で他の候補者たちは、笑えるくらいに正々堂々と、そして馬鹿正直にふるまっていた。そんなこともあって、私は二人を打ち負かすことができた。
そうしてついに、私は女王となった。はちきれんばかりの喜びが、胸を震わせていた。
けれどじきに、それを上回る空しさが忍び寄ってきた。長年の夢を、やっとかなえることができた。でもこれからは、何を夢見て生きていけばいいのだろう? 私はこれから、どうすればいいのだろう?
その答えを持っていないことに、即位してから気がついた。私はただ、呆然とすることしかできなかった。
それからの私は、すっかり無気力になってしまった。たった一つっきりの夢をなくしたまま、他の夢を見ることもできずに。
淡々と執務をこなすだけの、灰色の毎日。けれど幸か不幸か、そんな苦痛に満ちた生活は、そう長く続かなかった。
私は女王となるために、あらゆることに手を染めてきた。恐喝や買収で周囲を操作し、民を扇動して国を混乱させ、他の候補者の足を引っ張った。それだけでなく、邪魔者を暗殺したことだってある。実のところ、後ろ暗いことだらけだった。
どこから漏れたのか、それらの行いがとうとう民に知られてしまったらしい。じきに民は、私のことをこう呼ぶようになった。悪の女王、と。
民は悪の女王を倒すべく、一斉に立ち上がった。国のあちこちで、小さな騒乱がいくつも起こり始めた。やがてそれらは合わさって、国を丸ごと飲み込む内乱となった。まるで誰かが指揮しているのではないかというくらい速やかに、火の手は広がっていった。
一方の私は、もうすっかり無気力の沼に落ち込んでいた。こんな灰色の日々が終わるのならもうどうでもいいと、そんなことを考えてしまっていた。
武器を手にした民が王都に押し寄せ、王宮は燃え盛る炎に包まれた。ほとんどの臣下は私を見限り、反乱軍に身を投じていった。わずかに残った者たちは、私を守ろうとして次々に倒れていった。
そうして私はただ一人、玉座に座っている。もうここまで、炎は迫っていた。息をするだけで喉が焼けるように熱い。煙がひどくて、ろくに目を開けていられない。
これで、終わりだ。そう思ったとたん、私の心の中に様々な感情がわき起こって渦を巻く。
女王になど、ならなければ良かった。夢は夢のままにしておけば良かった。そんな後悔。
たくさんのものを失ってしまった。ひとりぼっちになってしまった。この手の中には、もう何も残っていない。そんな悲しみ。
そもそもどうして、私は女王になりたいと思ったのだったか。女王になって、何かしたいことがあったような気がするのに。そんな疑問。
そんな私の思考を、大きな音がさえぎる。とうとう、天井が崩れ始めたのだ。次々と、がれきが降り注いでくる。
最期に私は、ただ一人叫ぶ。誰の耳にも届かない、言葉にならない叫び声。
ああ、お願い。あと少しでいい、時間が欲しい。思い出したい。どうして、私は女王になりたかったのか。
その時、場違いなほど高らかな声が響いた。
「ここに、新たなる女王リーズ様が即位された!」
朗々とした声で、歌うように宣言しているのは壮年の男性。華やかな正装に身を包み、背筋をぴんと伸ばしていた。彼の向こう側には、きちんと整列した臣下たちの姿が見える。
玉座の間はついさっきまで炎に包まれていたとは思えないほど美しく、どこもかしこもぴかぴかに磨き上げられていた。
私は玉座に腰かけて、居並ぶ臣下たちを見渡していた。頭の上にはずしりと重い王冠、身を包んでいるのはひときわ豪勢で美しい、真新しいドレス。
辺りに響く男性の声、目の前の光景、自分の姿。その全てに、嫌というほど見覚えがあった。ここは、私の戴冠式の場だ。王宮が燃え落ちたあの時から、ちょうど半年前の。
私は、夢を見ているのだろうか。まさに今しがた、私は滅びる国と運命を共にしようとしていたところだというのに。けれど何もかもがあまりにも生き生きとしていて、とても夢とは思えない。
もしかして私は、過去に戻ってきたのだろうか。ありえないことだけれど、そう考えるほか説明がつかない。
驚きに目を見張り、そしてすぐに気づく。私は、これからまた女王として生きることになるらしい。ならばその先は、またあの灰色の日々と燃え盛る破滅だ。
どうせ過去に戻るのなら、もっと前、女王になる前に戻りたかった。そこからなら、もっとやりようがあったというのに。
「新たなる女王陛下に、敬礼!」
何事か長々と喋っていた男性が、しめくくりとばかりにそう叫ぶ。周囲の臣下たちが一斉に敬礼し、口をそろえて祝福の言葉を述べ始めた。
それを聞きながら、そっとため息をつく。私は生きている。今ならまだ、やり直せるかもしれない。
いや、やり直すのだ。ぼんやりしていたら、またあの最期にたどり着いてしまう。何もかも捨てて逃げ出すか、破滅を止めるか、破滅に飲み込まれるか。私に残された道は、それくらいしかない。
「……四の五の言わずに、やるしかないのね」
私の唇から漏れたため息は、玉座の間に響き渡る祝福の声にかき消されていった。
戴冠式を終え、重い足取りで自室に戻る。そこにあった姿見の前に立ち、自分の姿をぼんやりと眺める。
暮れかけた夕日のような赤橙色の髪は、この国では珍しい色だ。雨上がりの森のような鮮やかな緑色の目が、まっすぐにこちらを見返してくる。
すでに子供ではなく、しかし成熟した女性というには少し早い、うら若き乙女。少し目尻の上がった意志の強そうな目と、整った面差し。一つの国の頂点に立っているとは思えないほど、ほっそりとしてしなやかな肢体。
戴冠式の正装に身を包んだ鏡の中の私と見つめ合いながら、もう一度状況を整理していた。
今の私に、あまり時間は残されていない。こうなったら、内乱が起こる前に逃げ出してしまおうか。女王としての地位も、責任も投げ捨てて。もう、これ以上苦しむのはごめんだ。ついさっき味わったばかりの死の恐怖を思い出し、身震いする。
その時、控えめに扉を叩く音が聞こえてきた。どなた、と静かに声をかけると、とても控えめな声が返ってくる。
「あの、ガブリエルです。……リーズ姉様に、一言お祝いを言いたくて。その、駄目でしたら、このまま戻ります」
「いいわ、入って」
そう返事をすると、扉がゆっくりと開いてきゃしゃな少年が姿を現した。明るい蜂蜜色の柔らかな髪が、ふわりと揺れている。ぱっちりとした大きな目は、不安げに揺らいでいた。
彼はガブリエル、私の義理の弟だ。今まで私は、彼に対して親愛の情を抱いてはいなかった。そもそも彼に興味がなかったし、政治の道具や手足として使うには彼は純粋すぎ、臆病すぎたのだ。
だから私は、彼のことをずっと無視していたのだ。それなのに彼は、昔からこうして時折私のもとを訪ねてきていた。哀れになるくらいにおびえながら、それでも懸命に。
今も、女王の義弟とは思えないほど質素な正装に身を包んだ彼は、一生懸命にこちらを見つめている。澄み渡った秋空のような深くて青い瞳で、食い入るように。
ふと、頭の中をよぎる光景があった。前の人生、あの内乱のさなかのことだ。
ガブリエルは、寝返った騎士の刃から私をかばって死んだ。少女のように可憐な顔を血で染めたまま、彼は微笑んでいた。それが、彼の最期の表情だった。
「……ガブリエル、近くで顔を見せて」
その面影を振り切るように首を振り、ガブリエルを呼び寄せる。やはり彼はおどおどとしたまま、それでも素直に近寄ってきた。
すぐ近くで、彼の顔をじっと見つめた。色が白くまつ毛は長く、そこらの女性よりはるかに可愛らしい。弱々しい表情と悲しげな目つきも彼の魅力を損なうものではなく、むしろ引き立てている。
ろくに戦うこともできない、気弱な十四歳の少年。彼はまだ、生きている。
「あの、姉様……?」
私があまりにも長く自分を見つめていることに戸惑っているのか、彼は恐る恐る呼びかけてくる。まだ声変わりも済んでいない、高く澄んでいながら少女のものとも違う、不思議な声だった。
それには答えず、そっと手を伸ばす。ガブリエルはびくりと身震いして、首をすくめた。まるで、私にぶたれるのではないかと考えているような、そんな仕草だった。
小さくため息をつき、そのまま彼の頬に触れる。温かくすべらかな、生命を感じさせるその感触に、胸がちくりと痛む。
私のせいで、彼は死んだ。もし私が女王の座を放り出して逃げてしまえば、内乱は起こらずに済むのだろうか。そうすれば、彼も死なずに済むのだろうか。
いや、そうとも限らない。もう既に、内乱の芽は国中に広がっているに違いない。私が逃げてしまえば、残ったガブリエルが民たちの怒りの標的になってしまうかもしれない。
ならば、二人で逃げてしまおうか。彼はきっと、おとなしくついてくるだろう。でももし、民たちが私たちを追いかけてきたら。私は戦えるが、彼は戦えない。無事に逃げ切れない可能性のほうが、高いように思えた。
どうすれば、今ここにいる彼を死なせずに済むのだろうか。あの時の彼の死に報いてやれるのだろうか。
無気力に生きていた頃の私なら絶対に考えなかったであろうそんな思いが、じわりと胸にわき起こる。
「……私一人が生き延びても、意味がないものね」
「ねえ、さま……?」
私の言葉の意味が分からなかったのだろう、ガブリエルが恐る恐るこちらを見つめてくる。その深い青の瞳をまっすぐに見返して、宣言した。
「私は、ここで頑張ることにするわ。まだ、できることはあるのだから」
私が死なないために。あなたを死なせないために。
戸惑うガブリエルの髪をくしゃくしゃとなでながら、心の中でそっと誓った。