不安
少し陽が傾いてきたかどうかという頃に、冬希は自転車の手入れを行うために駐車場に降りてきた。
すると、綺麗になった自転車を押していく男とすれ違った。
自転車のトップチューブに、いくつかのバツ印が見える。冬希は、全日本チャンピオンである、佐賀の坂東についての逸話を思い出した。
第4ステージで、集団から遅れて、ゆっくりゴールを目指す「グルペット」の中で、福島のスプリンター、松平幸一郎が言っていた。
「青山、佐賀の坂東には気を付けろ」
松平は、第1ステージで坂東に、コース外に弾き出された経験がある。
「怖そうな人ですもんね」
「あいつの自転車のトップチューブには、バツ印が書いてある」
「優勝回数とかですか?」
「いや、レース中に相手を落車させた回数だ」
「えっ!?」
「坂東は、接触して落車させてしまったら、自分への戒めのため、自転車のフレームのトップチューブにバツ印を書くようにしていると吹聴している」
「いや、もうそれ撃墜マークみたいになってるじゃないですか」
「しかも恐るべきことに」
「今度はなんですか?」
「トップチューブに綺麗にラップを貼って、その上に書いているそうだ。自転車を売るときに値段が下がらないように」
「しっかりしてる!!」
「佐賀県民は、基本的にがめついらしい」
「佐賀県民みんながそうではないと思いますけど・・・」
「まぁ、奴は、勝つためには手段を選ばないところがある。気をつけるんだな」
冬希は、すれ違った男が、佐賀の坂東だろうと確信した。
恐らく、自分のホテルの洗車場が混んでいたから、冬希達が泊まるホテルの洗車場を勝手に利用しにきたのだろう、と冬希は思った。
「噂に違わぬがめつさだ・・・」
禁止はされていないのだろうが、普通はあまり考えないのではないか。そういう、他人とは違う発想ができるところも、板東の恐ろしさなのかもしれない。
自転車を洗い、駐輪スペースに格納して冬希はホテルの部屋に戻った。
夕食までは時間があり、それぞれ思い思いに時間を過ごしていた。
冬希は、スマートフォンを確認し、浅輪春奈に電話をすることにした。
「あ、オレオレ」
『もう、普通にかけられないの?』
呆れた声が聞こえる。声を聞けただけで、冬希はちょっと安心した自分がいることに少しだけ驚いた。
「今日も、無事にレースが終わったよ。雨だったから大変だった」
『お疲れ様だね』
「今日もTV見てたの?」
『うん、あ、そういえば、尾崎選手の背中押してたの、映ってたよ」
「マジか。撮影してる人たち、すごいな・・・」
そんなにカメラバイクは多いわけではないのに、第6ステージでは立花にボトルを渡すところも撮られていた。
『尾崎選手、転んじゃったみたいだったね』
「そう、後輪が、スタート時に付けてたのと違うみたいで、あれ、パンクして交換したんじゃない?」
『正解!実況の人が絶叫してたよ』
「やっぱりそうか。それで、尾崎さんが自転車を立てた時に、後輪からすごい乾いた音がして、もうプラスチックのタイヤ付けてるんじゃないかってぐらいの」
『硬いってこと?』
「そう、以前、神崎理事長が、レース中にニュートラルカーに後輪交換してもらったら、空気圧が低すぎて困ったという話をしてて、もしかしたら、逆に空気圧が高すぎたのかと思って」
『そうなんだ』
「だから、尾崎さんに、空気圧、空気圧!って叫んで」
『あはは、尾崎選手、びっくりしたんじゃない』
「うん、でもすぐに言ってる意味に気がついたみたいで、空気圧抜いて自転車に乗ったので、そのまま背中を押したんだ」
『へぇ、なんか、TVで見たことを直接解説してもらうって楽しいね』
まだ誰にも話していない、特ダネだ。
その後、しばらく取り留めのない話をした後、冬希の目に、夕焼けに染まる海が見えた。
『どうしたの?』
「なんか、遠くにきたなと思って」
好きな女の子と同じ学校に行くために、自転車に乗り始め、最初はひいひい言いながら乗っていたのが、今では、全国の舞台で戦う立場になった。
自分が強い自転車選手だと思ったことは、一度もない。
チームメイトに、雛鳥のように大切に大切にゴール前まで連れて行ってもらい、本当に本気で自転車を漕ぐのは、ゴール前だけというレースで勝ってきた。
こんなに恵まれてていいのだろうか、と思う。
『え、どうしたの突然!?明日、死んじゃうの!?』
「死なないよっ!!」
本気で心配する春奈に、冬希は慌てて返事をする。
「明日は、スプリントする予定もないし、みんなと安全に集団でゴールするだけだから、大丈夫だよ」
『本当に?怪我とかしないように気をつけてね』
「大丈夫、大丈夫」
明日は何もないはずだ。スプリントもしないのだから。
冬希は、自分自身にも、安全だと言い聞かせた。




