心の決着
待機場所にも、自転車を洗う場所は、いくつか用意されていたが、どこも行列ができていた。
「うげ・・・」
雨でドロドロになった自転車を洗いたかった。だが、それは全ての選手に共通する思いだった。
とりわけ、表彰式に出ていたため、自転車の整備に取り掛かるのが遅れた冬希は、列の最後に並んだとて、いつ自分の番が回ってくか分からないほど、致命的な出遅れを喫していた。
自転車を大事にする思いは皆強く、普段は光速スプリンターなどと言って畏敬の念を抱いている選手が、悲しそうな顔でこちらを見ていたとしても、順番を譲れる様なものではなかった。
神崎高校の待機エリアに戻った冬希は、帰り支度をほぼ終えた平良潤、柊、郷田に遭遇した。
「みんな、もうメンテ終わったんですか?」
「ああ、船津は、ホテルのメンテナンスエリアで整備すると言って、先にホテルに戻っていったぞ」
「ああ、その手があったか」
「お前もそうするといい、荷物はまとめておいた」
「ありがとうございます!」
冬希は、自分の荷物が詰まったバッグを背負うと、自転車に乗ってチームメイトとホテルへ戻った。
「またこっちも・・・」
ホテルの洗車スペースにも、また行列が出来ていた。
ステージ優勝と総合1位の表彰は、表彰式の最初に行われるので、船津は洗車待ち渋滞に巻き込まれなかったようだ。
「先に風呂に入ったらどうだ」
「そうします・・・」
自転車を洗いたいのと同じぐらい、風呂に入りたかったのを思い出し、郷田に促されるまま部屋に戻り、部屋のユニットバスでシャワーを浴び、着替えを済ませた。
船津と郷田の3年生2人が泊まっている部屋に行くと、船津が1人で窓から海を見ていた。
「郷田は、大浴場に行ったよ」
「そうですか」
冬希は、船津の横に立ち、しばらく一緒に海を見ていた。
「船津さん、あれから何か連絡はしたんですか?」
冬希は、気になっていたことを聞いた。
「いや、送ってないよ」
船津は、海に視線を向けたまま、少しだけ目を細めた。
「あれだけ心に引っかかって、ずっとなんとかしたいと足掻いていた、強い思いが、今日勝ったことで、自分の中から綺麗に消え去ってしまったんだ」
それは、いい事なのではないか、と冬希は思った。
「俺の中で、ケリがついたんだと思う」
船津は、冬希の方に振り返った。
「長い、独り相撲だったよ」
憑き物の落ちた、それでいて自嘲混じりの船津の優しい目を見て、そこにどれほどの思いが込められていたのか、と冬希は胸が痛くなった。
「次は、直接会いに行って、言葉を伝えるよ」
「そうですね」
船津は、きっと胸を張って、別の世界で活躍する幼馴染に会いに行く事だろう。
「ところで、明日のステージだが、狙いに行くか?」
「いやー、でも何があるかわかりませんし」
「坂東に、スプリントポイントで迫られているじゃないか。チームとしても、獲れるものは獲っておきたい」
「船津さんの側にいて、もしもの時に備えていたほうがいいと思います。俺のスプリントジャージ守って、船津さんが総合リーダージャージ失ったら、本末転倒ですし」
「そうか」
船津は一呼吸置いた。
「だが、何かあったら、逆にお前が勝負することになるかもしれないという点は、忘れないでほしい」
「どういう事ですか?」
「例えば、俺がリタイアして、総合リーダーを守る必要がなくなった場合、お前は意地でもスプリントリーダーを死守することになるからな」
考えてみれば確かにそうだった。昨年も、福岡の近田がリタイアしたことで、舞川が山岳賞狙いになったという出来事があった。
「心の準備だけしておきます」
「ああ、それがいいだろう」
そろそろ洗車場も空いてきただろうと、冬希は体操着に着替えて、ホテルの駐車場に設営された、簡易洗車スペースへ向かった。




