不安と向上心
一、春奈の不安
表彰式の後、冬希達は自転車のメンテナンスをすると、バスで日田市内のホテルへ移動した。
ホテルに着くと、冬希はさっそく慶安大付属のマネージャー、沢村雛姫に借りた充電器を使い、スマートフォンの充電を行った。
TV中継もされる全国大会で、第1ステージからの3連勝だ。さぞかし祝福の電話やメール、メッセージで大変なことになっているだろうと思いきや、実際にはメッセージが4通届いていただけだった。
考えてもみれば、連絡先を知っているのは家族と自転車競技部のメンバー、それと春奈だけだ。
自転車競技部の面々は一緒にレースに出ているので、祝福の連絡など寄こすはずもない。
家族は母からメッセージが1件。
『テレビでみました。やりてなんですね。ではまた♪』というシンプルなものだった。
そして、残りの3件は春奈からだった。
実際には8件送られていたが、そのうち5件は、春奈の方で削除されていた。
うち2件は、第1ステージと第2ステージに勝ったことについての、おめでとうメール。
そして3通目は、ちょっと雰囲気の異なるメッセージだった。
『みんな冬希くんのことを応援してるし、勝つと凄い喜んでるよ。ボクもうれしいけど、戻ってきた時にちょっと遠い人になっちゃってそうで、少しだけ不安だよ』
冬希は驚いた。
普通なら、言う方と言われる方が逆な気がする。
平凡で、無理して神崎高校に入った冬希が、入試の成績が首席で、見た目も美しく、入学直後に生徒会に勧誘されるような最高クラスの女の子である春奈に持つような感情ではないか。
春奈のような女の子でも、そんなことを思う事があるのか、と冬希は意外に思った。
二、船津幸村の向上心
ホテルには、多くの選手たちが宿泊しているため、大浴場を使う場合は、各チームに割り当てられた時間帯に入る必要がある。
冬希達は入浴の時間帯になったので、大浴場に来た。
と言っても、潤と柊は疲れたと言って、風呂にも入らずに布団に倒れこんで寝てしまい、郷田はいつも部屋のユニットバスを使うため、今夜は船津と冬希の二人だけだった。
同じ時間帯に割り当てられた他の学校の選手たちもいたが、ゼッケンをつけていないので、誰が誰なのかわからない。
恐らく、黄色いジャージを着ていない冬希にも、誰も気づいていないだろう。
冬希と船津はそれぞれ体を洗い、湯船に入った。
筋肉に溜まっていた老廃物が、動き出すような感覚に陥った。
「船津さん」
「どうした?青山」
「俺から見て、人間的にも完璧で、他人よりずっと優れている人が、ちょっと活躍しただけの俺なんかを遠い存在だなんて思うことがあるんでしょうか」
船津は、しばらく考え込むと、言葉を選ぶように、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「一つは、相手が活躍している物事が、自分が追い求めている道である場合。つまり、自転車競技で活躍したいと思っている人間が青山を見たら、それはもう雲の上の存在だと思ってしまってもおかしくないな」
「なるほど、でもそれはちょっと考えにくいですね」
「他には・・・」
船津がふと、遠い目になる。
「自分が相手の傍に居たいと思っている場合だな」
冬希は、それかも知れないと思った。
「今は、一緒に居られるかもしれないが、相手が成功して、周囲の環境が変わることで、自分が相手にされなくなるのではないかという不安だな」
船津の語り口は、ただの一般論以上の何かを含んでいるように、冬希には思えた。
心配するような視線を向けてくるが、それ以上何も言ってこない冬希に、船津は観念したように話し始めた。
「家の近所に、幼馴染が居たんだ。女の子でね。親同士も仲が良かった」
船津の視線は、何もない宙を見ている。
「その子はね、女優になりたいとずっと言っていたんだ。俺はそうなのか、とそれだけだった。大人になってからの話だろうと思ってた」
冬希は黙って話を聞いている。
「ある日、劇団のオーディションに合格したらしく、その子は家族と一緒に東京に引っ越していった」
船津の目は、寂しそうに見えた。
「本当に突然だったんだ。会うと、決意が鈍るから、と俺には会わずに」
風呂場には、冬希と船津以外はもう誰もいなくなっていた。
「それから、彼女の名前をネットで調べた。下北沢での芝居に出たり、映画にも出演していた。頑張ってるし、活躍もしてる」
船津の声色が、ちょっとだけ変わる。
「一方的なんだよ。彼女は俺がなにをやってるかなんて知らない。でも彼女の情報はネット上でどんどん知ることが出来るんだ。酷いじゃないか」
調べなければいいだけの話なのかもしれないが、船津は、完全にその情報を遮断できるほど気持ちの整理がついていないし、恐らく今後も付くことは無いのかもしれない。
「会いに行けば会えるかもしれない。でも、今の俺は、彼女の眼を見て、対等に話が出来るだけの何かを、まだ持っていない気がするんだ」
船津は話し始めて、初めて冬希の方を見た。
「俺はこの大会で、総合優勝する。そうすれば、嫌でも俺の名前は、彼女の耳に入るだろう。そうなってこそ」
船津は湯船から立ち上がった。
「俺は、彼女と対等の立場で、話が出来る気がするんだ」
冬希も立ち上がる。
「そうしたら、彼女に会いに行って、言ってやりたいんだ。酷いじゃないかってね」
船津は笑っている。
冬希は、船津のこの大会にかける思いを、初めて聞いた気がした。
「青山、浅輪さんを大事にしろよ。あんな子を不安にさせるなんて、男のやる事じゃないぞ」
船津の心情を思うと、その言葉は冬希の心に重く響いた。
「でも、船津さんの幼馴染の人、実はもう、俺の名前は、知ってたりしますかね?」
「そうかもしれないな。俺が総合優勝できなかった場合は、お前が会いに行ってくれるか?」
「一人でですか?一緒に行きましょうよ。『青山は俺が育てた』って言って」
二人は、軽口を叩きつつ脱衣所へ向かった。
三、電話
部屋に戻るともう20時を回っていた。
冬希は、春奈に電話を掛けた。
潤と柊は、一旦起きてそれぞれ部屋についているシャワーで汗を流したのか。浴衣に着替えて布団で寝ていた。
二人を起こさないように、冬希はベランダに出ている。
「もしもし」
「あ、オレオレ」
「還付金詐欺かな?」
「すみません、冬希です・・・」
「わかってるよ。電話番号出てたもん」
電話の向こうで春奈は、けたけたと楽しそうに笑っている。
「電話かけて大丈夫なの?」
「うん、柊先輩も潤先輩も疲れ切って寝てる」
「今日のレース、大変だったみたいだもんね。テレビでも、史上最大のハイペースだって言ってたよ」
「あ、俺のこともなんか言ってた?」
「えっとね、強すぎる!とか、手が付けられません!とか言ってたよ」
「まじか、聞かなきゃよかった」
明日からは山岳の3連戦だ。日本中をガッカリさせそうな気がしてならない。
「そっちはどうなの?学校でなんか変わった事とかあった?」
「うーん、相変わらず生徒会に誘われてるんだよね。断ったのに」
手が早いと噂の、イケメン生徒会長の顔を思い浮かべる。
「そ、そうなのか・・・」
冬希の胸に不安がよぎる。
「ふふっ、心配?」
「心配・・・です・・・」
「素直でよろしい」
春奈は上機嫌だ。
「生徒会に入っちゃったら、昼休み、冬希くんとご飯食べれないからね。結構楽しみにしてるんだよ。ボク」
大会が始まってから、春奈とお昼を食べることも無くなってしまった。
まだ大会3日目なのに、一か月ぐらい前の話のように錯覚する。
「放課後だけだったら、生徒会を手伝えないことも無いんだけどね」
「今度、放課後デートしよう!」
冬希は思わず口走っていた。
「え?デート?どこ行くの?」
「あ、それは・・・葛西臨海公園とか?」
「あそこ好きだけど、放課後に行く場所じゃなくない?」
「じゃ、じゃあそっちは休日に行くとして、放課後のほうは・・・」
「放課後の方は?」
「持ち帰り検討させてください」
「そっかぁ、でもデートの約束が入るんだったら、生徒会のお手伝いは出来ないなぁ」
うんうん、仕方ないと、春奈は一人納得している。
「じゃあ、大会終わって戻ってきたら、葛西臨海公園と、放課後デートの約束、楽しみにしてるね!」
「了解しました」
いつの間にか、二つデートの約束をしてしまった。一つで良かったのではないだろうかと思うが、後の祭りだ。
冬希も楽しみではないわけでもないので、まあ良しとする。
「表彰式で、ジャージ着せてくれる可愛い子にデレデレしちゃだめだよ」
「え?してる?」
「すごい顔してるよ!」
「まじか、キリっとした顔するよ。表彰台に上がる機会があるかどうかわからないけど」
「あはは、楽しみにしてるね!」
春奈との電話を終える。
冬希にとって、大会が終わった後の楽しみが一つ増えた。




