全国高校自転車競技会 第9ステージ③
斫石峠の上りはまだ1㎞強は残っている。
植原は、このステージは最後の椿ヶ鼻の上りでの勝負になると考えていた。
黒川はどうかわからないが、少なくとも天野はそう考えているだろう。
永田が、脚を使ってでも、早めに勝負に出なければならないというのは、理解できた。
植原、黒川、天野、永田の4人の中で、一番総合タイムで後れている。
ただ、普通に考えてこんなところで脚を使うべきではないのだ。
椿ヶ鼻。
ヒルクライムの途中で脚がなくなるということは、全ての終わりを意味している。
ゴールまで続く急勾配の中、脚を休めたり、回復させたりできる個所など無いのだ。バイクを前に進めることすら困難になるだろう。
最後の上りに、冬希と同じタイミングで入れば、十分勝ち目はある。そう言えるほど、植原は調子が良かった。
総合タイム差は、たったの5秒。だが、植原は胸の奥から湧き上がる不安感の正体をつかみかねていた。
ふと、脳裏に前日の冬希と南のスプリントがよぎった。
冬希は、高校自転車ロードレース界のトップスプリンターだ。今日タイム差を逆転できたとして、安心して明日の平坦ステージを迎えられるとは思えなかった。
今日、山岳で冬希を逆転するとして、どの程度タイム差をつければ安全圏と言えるのか、それがわからないのだ。
永田を見送った冬希の態度には、余裕が見て取れた。植原にとっても、冬希はもはや底が知れない男になっていた。
永田が言った、全てを跳ね返す壁のようだという表現は、的を射ている。
前を走る審判車のサンルーフから、大会主催者が顔を出し、マイクでしゃべりだした。
斫石峠の下りは、風で道路に落ち葉が出ており、危険なので慎重に走るように、ということだった。
後ろを見る。黒川、冬希、天野の順だ。
「試してみるか」
植原は、ペースを上げた。黒川、冬希も追いすがる。天野は少し距離を置くことにしたようだ。
斫石峠の最高到達点を通過し、下りに入った。
大会前に試走した下りだ。確かに落ち葉は多いが、試走した時よりは減っているようだ。ステージ前に清掃されたのかもしれない。
道は細く、センターラインもない。だが、植原にとってはその方が走りやすかった。
集中力は高い。好調を維持している。
指先の、グローブのないむき出しの指でブレーキを握る。
振動を指で感じる。路面が荒いところは、グリップ力が落ちる。つまりは、車のタイヤがよく踏む。轍あたりだ。
車のタイヤが踏む位置よりの外側の、舗装が荒れていない部分で減速し、最内の、車のタイヤよりも内側の舗装が荒れていない部分へ切り込んでいく。
路面は、植原が期待した以上にグリップした。
黒川は、後ろについてきているようだ。流石にユースの最強選手なだけはある。
それに対して、冬希は少しずつ遅れてきている。
黒川は、植原と同じラインをトレースしているようだが、冬希は、植原の見立てでは、下りのラインが植原とは若干異なる。
植原が、曲がれるのに必要な最小限のブレーキしかかけないのに対して、冬希はトップスピードでコーナーに向かっていき、タイヤがロックする寸前までブレーキをかけて、全力で立ち上がっていくというものだ。
つまり、植原や黒川とは、コーナーの突っ込みで詰まるが、転回時に差が開く。減速した分、踏まなければならず、消耗もする。ただ、十分減速するので、コーナーでオーバースピードになるということは無いだろう。
植原は、一つのコーナーを終えた瞬間には、次のコーナーでどのようなライン取りをするか見極めを行っていた。神経は研ぎ澄まされ、手足のようにバイクを操り、下りをこなしていく。
冬希の遅れが顕著になった。
走り方の差、それは技術の差なのだ。
右側に、モトバイクが見えた。
そのわずか先で、誰かが落車をしている。
逃げていた5人のうちの2名。佐賀の水野でも、千葉の平良潤でも、静岡の千秋でもない、誰かという意識しかしていなかった。
際どいところで避けた。
モトバイクと立ち上がって再びバイクに乗ろうとする二人を外したラインを採った。
それらに気を取られた一瞬、前輪が落ち葉に乗った。
タイヤが滑り、左側にある側溝に前輪が落ちた。
引っかかるようにバイクは倒れた。
植原は転倒しながら、黒川が転倒し、滑っていくのを見た。
左肩に、激痛が走る。
骨折ではない。
肩が外れた。脱臼だ。
駄目か。
植原は、体を前傾させたまま項垂れた。
運が悪かったのではない、リスクを冒した結果、失敗したのだ。
ここまでか。
ふと、冬希の姿が目に入った。
コースわきに突っ込んだ植原、路面に転がった黒川を避けようとして、自身も擁壁に突っ込んでいた。
十分に減速していたおかげで、転倒は免れたようだが、パンクかフレームが破損したか、前輪を外して佇んでいる。
天野は、丁寧に避けて先へ行った。
自分のせいで、こんな形で大会が決着するのか。
後ろの集団から、続々と選手が通過していく。
慶安大付属のチームメイトが集まってきた。
「大丈夫ですか。植原先輩」
「肩が外れた。近江、手伝ってくれ。一人じゃ入れられない」
「え……」
集まってきたチームメイト全員が絶句した。
「急げ。このまま終わらせるわけにはいかないんだ」
このまま一生悔恨を残すぐらいなら、今のこの痛みなど、あってないようなものだ、と植原は思った。
斫石峠のトンネルの中から、植原が仕掛けた。
植原とは、ステージ開始時で総合タイム差が5秒しかない。冬希は、追うしかなかった。
下りに入った。道が狭く、急カーブの連続だが、植原は考えられないスピードで突っ込んでいく。
黒川もほとんど離されずに植原を追走する。
冬希はとてもついていけない。
ついに植原は審判車を抜いた。審判車は道路脇へよけ、黒川、冬希もそれを抜いていく。
冬希は、植原、黒川に離されていく。
辛うじて二人の後姿は視界にとらえているが、見えなくなったら、あっという間に置き去りにされるだろう。コーナーの進入角やスピードを二人の動きを見ながら、進入角度を予測できているから、この程度の遅れで済んでいるのだ。
ついに二人の後姿が見えなくなった。
正気の沙汰ではない、と冬希は思った。
コース両脇には、審判車から注意があった通り、落ち葉が溜まっている。レース前にある程度は除去したのかもしれないが、現時点でこれに乗ってしまえばスリップして右側のガードレールや左側の擁壁に突っ込むことになる。
植原と黒川は、ギリギリまでコースを使いつつ、さらに後輪を滑らせるように角度を変えたりしながら、コーナーを転回していっていた。考えられない動きだ。
コーナーに入る瞬間、視界に何かをとらえた。
植原、そして黒川が落車していた。
とっさにブレーキを握るが、前後輪共にロックし、冬希はそのまま擁壁にまっすぐ突っ込んだ。
擁壁との間にある溝に前輪があたり、両手に衝撃が走る。
前輪が土の法面にめり込み、なんとか停止した。転倒も免れた。
冬希の後ろに、審判車が止まり、後続の選手たちへの交通整理が始まった。
横を、天野が通過していく。
黒川は既に立ち上がって、自転車を起こそうとしているが、植原は肩を抑えている。冬希は、鎖骨を骨折した時のことを思い出した。
植原に駆け寄ろうとしたとき、冬希のバイクから、パァンという破裂音がした。前輪がパンクしたのだという事はすぐにわかった。衝突の瞬間、リムがチューブを噛んでしまったのだろう。
後続の30人ぐらいの集団が追いついてきた。東京の夏井、麻生、森田、近江、山口は多田、そして千葉も潤と竹内が続々と落車した3人の元に集まってきた。
「大丈夫か、冬希」
「転んではないですが、前輪がパンクしました」
「竹内」
竹内が頷いた。
「植原、大丈夫か」
潤が自らのバイクの前輪を外し、冬希のバイクにとりつけている間に、冬希は植原に声をかけた。
「すまんな。巻き込んでしまった」
「いや、それは仕方ない。俺も避けられなかった。そんなことより怪我は」
「肩を脱臼した。一人で戻せなかったので、後輩の力を借りた。筋を痛めたが、骨折よりマシだろう」
植原は、外れたチェーンを戻し、バイクにまたがった。
そんな簡単なものなのか、と冬希は首を傾げた。
「冬希、こっちもいいぞ」
潤が冬希のバイクを押してきた。後ろには竹内。伊佐も追いついてきていた。
「潤先輩、天野が先行したと思います」
「アタックを掛けた永田が前に行っていた。レースは動いていたと言っていい、総合リーダーの落車とはいえ、天野も待つわけにはいかなかった、ということだろう」
「追います」
「落ち着いて行けよ」
「はい、永田も天野も、俺に動かされているんだと思います」
「そうだな」
潤はうなずいた。
植原に無理をさせたのも、恐らくは自分の存在なのだろう、と冬希は思った。今ならわかる。
黒川も多田と話している。
「大丈夫か」
「ただのかすり傷だ」
「いや、それはそうなんだろうけど」
「青山、植原。前を追うぞ」
黒川がバイクにまたがり、東京の5人、千葉の3人、そして多田、黒川の計10名で落車地点から走り出した。
「下りは無理せずに。下り終えて平坦で追いつきましょう」
冬希の声に、全員が頷いた。




