神崎の方向性
9月と言っても、まだまだ暑い日が続いている。
通学時間帯のロードバイクは、なかなかの暑さの中を走るためそれなりに辛くはあったのだが、骨折により右腕を包帯で吊った状態の冬希はロードバイクに乗ることもできず、電車とバスを乗り継いで学校へいく必要があり、それはそれで煩わしくはあった。
「痛そうだね」
冬希が自転車ロードレースを始めるきっかけとなった想い人、荒木真理は心配そうに、それと共にちょっとだけ興味深そうに、冬希の、首から包帯で吊った腕を覗き込んでいる。そんな表情すらもかわいい、と冬希は思ってしまう。
「肩を動かさなければ、痛くはないんだけどね」
「鎖骨骨折って、腕を吊るんだね」
「肩を動かさないように固定するって感じらしいよ。確かにちょっと楽だし」
「ご飯食べられるの?」
「流石にそれぐらいは」
食べられない、と言ったら、食べさせてくれたのだろうか。と思ってしまう。だが、怪我していることをいいことに、自分で食べられるご飯を食べさせてもらおうという考えは、あまりにも浅ましい気がした。
「どれぐらいで治るの?」
「3ヶ月ぐらいでくっつくらしいんだけどね・・・」
冬希は、医師から手術を勧められていた。金属の板を取り付けて、ネジで固定する手術だそうだ。手術をした方が、骨も綺麗に付くということらしい。
「手術かぁ。するの?」
「多分、綺麗にくっついてくれた方が、肩が思うように動かないとか、痛みが残るとかってこともないらしいんだよね。ただ、手術ってしたことがないから。荒木さんはある?」
「ないね。するかって言われたら、ちょっと考えさせてって言っちゃうかも」
「うん、そんな感じ。一応、神崎先生に相談してみようと思うんだけど」
「そうだね。冬希君は部活のこともあるしね」
むぅ、と口をへの字にして難しい顔をした真理もかわいいなと、冬希は思った。
放課後、冬希は理事長室の神崎の元を訪れていた。
「すみません。無理する必要のないところで、無理をしました」
冬希の姿を見て、最初は驚いた様子だった神崎も、冬希から一通りの事情を聞くと、天啓かもしれないな、とポツリと呟いた。
「テンケイ?」
「いや、こっちの話だよ。手術はした方がいいよ」
「国体の方は大丈夫でしょうか」
「国体強化選手は他にもいるし、そっちからメンバーを選ぶことになると思うよ。それよりも、今は怪我を治すことに専念しよう」
失望させてしまうかもしれない、と危惧していた冬希だったが、神崎は、冬希のことを心配してくれている様子ではあるが、がっかりしたという雰囲気は一切なかった。
「今の状態だと無理だと思うけど、トレーニングとかはやっちゃダメだからね」
「はい」
冬希は、一礼して理事長室を辞した。
神崎は、誰もいなくなった理事長室で、目まぐるしく頭を回転させた。
全日本とインターハイ、国体は夏から秋にかけて集中しているため、そこに注力しているチームや学校は少なくない。インターハイで有力校だった清須高校などがいい例だ。
1年を通して好調を維持し続けるのは難しいため、どこにピークを持ってくるかは、それぞれの方針になる。
春に行われる全国高校自転車競技会に出場できないクラブチームは、1年を通して行われるクラブチームのJプレミアツアーを除けば、全日本選手権と国体、全日本選抜を目標にしてくるため、年末ぐらいからオフシーズンに入り、春先から徐々に調子を上げていく。
高校は様々で、夏のインターハイにピークを持ってくる学校もあれば、春の全国高校自転車競技会に目標を定める学校もある。ただ、大きなレースが集中している夏から秋をピークに持ってくる学校が多いのは確かだ。
それに対して、神崎は個人的な心情から全国高校自転車競技会にピークを持って来たいと思っていた。そのため、国体の本戦がある9月、10月から冬にかけては去年までなら、負荷の高いトレーニングは行わない、調整やリフレッシュの期間に充てていた。
今年は、全国レベルでの活躍が多かったため、国体強化選手に選ばれ、本戦でも選手として出場することとなり、調整やリフレッシュなどという状況では無くなってしまっていた。
そんな中、冬希は骨折により第一線を退くこととなり、強制的に休養に入ることとなった。
元々、春先からずっと全国トップクラスのスプリンターと戦い続けてきた冬希は、流石に最近は疲れているようにも見えていた。
少なくとも故障の兆候はなかったため、無理矢理休ませるようなこともしなかったが、無休ませていれば、今回の事故もなかったかもしれないという点では、反省すべき点は自分にもあると神崎は思っていた。
だが、起こってしまった以上、この状況を最大限利用すべきだとも思った。
来年の全国高校自転車競技会で総合優勝を目指すには、難しい状況であると神崎は思っていた。
春先を目標としたピーキングができていない上に、神崎高校の総合エースとなる平良潤は、慶安大附属の植原博昭に完敗した。
植原の成長が神崎の予想を上回ったのは確かだが、潤がエース向きではないことも一因であると思っている。
優秀なオールラウンダーが、エースとしてのプレッシャーに耐えられずに勝てなくなる例は、むしろエースとして成功する例より遥かに多いのだ。
秋にはまたスポーツ推薦で自転車競技部の募集をかける予定にしているが、そこを当てにするようでは、もはや神頼みと何ら変わらない。やるべきことをやっていないのも同じだ。
柊と冬希で、どちらがエースに向いているかというと、性格的にはどちらもプレッシャーに押し潰されるようなタイプではないので、その点はどちらでも大丈夫だと思っていた。
柊はピュアクライマーで、冬希はピュアスプリンター。総合タイム差がつくのは山頂フィニッシュのレースが多いので、柊をオールラウンダーに転向させた方が良いのではないかと神崎は、頭ではそう思っていた。
しかし、直感的な部分では、冬希に期待する気持ちも少なからずあった。
神崎は、国内にはもう、冬希に対抗できるスプリンターは存在しないと思っていた。
冬希以外の有力スプリンターといえば、福岡産業の立花、清須高校の赤井が挙げられるが、どちらの選手とも既に勝負付けは済んでいる。
スプリンターを続ければ、このまま3年間、国内最強のスプリンターとして君臨し続けることになるのだろうが、それだけでは勿体無いと考えていた。
それでは、結局自転車ロードレースの選手として、底を見せないまま終わってしまうことになる。
海外に行かせるべきか。
それにしては、冬希は山を登れなさすぎる。海外では、平坦基調のレースと言っても、それなりに登りがあるところも多く、今の冬希では、スプリンターとしてではなく、ゴールまで辿りつけないという意味で通用しないだろう。
それを考えると、冬希にはどちらにしても山も登れる能力を身につけさせる必要があるということになる。
神崎は、冬希を来年の全国高校自転車競技会のエースにして、平良兄弟にアシストをさせるという案も視野に入れ始めていた。
課題は、国体が終わってからのトレーニングメニューで、来年の春までに間に合うかという点であったが、事故により冬希は強制的に国体を欠場し、早い休養に入ることになった。
神崎は、思わず
「天啓か」
と声に出して呟いていた。
上半身の怪我であれば、固定ローラーで足腰だけ安全に鍛えることはできる。一定ペースで山を登る練習は、むしろローラーでやる方が効率がいいかもしれない。
冬希が一線級のクライマーたちについていけないのは、最初から登る気がないという点の他に、筋肉質な上半身も一因であると、神崎は考えていた。
鎖骨骨折をしたことで、上半身のウエイトトレーニングはしばらくできないだろう。
この機に、山に登れる体作りをされることができるのではないか。
神崎の頭は、既に国体や全日本選抜を通り越して、来年の全国高校自転車競技会のことを考え始めていた。




