国体 関東甲信越ブロック大会 レース後
東京代表のエース伊佐雄二は、ゴール前で何が起こったのか、全てを飲み込むことができていなかった。
ただ、光速スプリンターに差し切られた、ということだけは間違いなかった。
伊佐の目の前に植原が現れた。伊佐は、植原を直視することが出来ない。
「説明しろ、伊佐。なぜあのような戦い方をした。お前はスタート前の僕の話を何も聞いていなかったのか」
伊佐は青い顔をしている。
「大川選手が包まれ、青山冬希が下がった時、残り1kmと少しだった。あのタイミングでアタックをするのが唯一の勝ち筋だった。レース前にも言ったはずだ」
「勝てると思ってしまいました。脚も呼吸も余裕があって、今までやってことがないほどのスプリントが出来ると」
「麻生さんと夏井さんがアシストしていたんだ。お前が余力が残せているのは当たりまえだ」
伊佐は、俯いた。
「結城選手、三浦選手をギリギリまで引きつけました。スプリントを開始すると二人を引き離すことができました。スピードにも乗って脚も十分残していました。その状態でまさか後ろから差し切られるとは思いもしませんでした」
「冬希は、露崎さんや、全日本チャンピオンだった坂東さんにも勝ってきたスプリンターだ。そんな男に対して、お前はよくもゴールスプリント勝負などと」
夏井と麻生が割って入ってきた。
「もうよせ植原、俺も麻生も、伊佐に仕掛けるように指示を出さず、最終的には伊佐に判断を任せた」
「早駆けしても、三浦や結城にも差されて4位以下になっていた可能性もあった。チームリーダーとして気をはる気持ちもわかるが、もうその辺にしておけ」
先輩二人から制され、植原は言葉を飲み込んだ。
「青山、ゴール前までアシスト出来なくてすまなかった。
ゴール後、冬希に追いついてきた大川は、開口一番冬希に謝罪した。
「いえいえ、大川さんがあそこまで引っ張っていってくれたおかげで勝てたのです」
これは冬希の本音だった。大川があのポジションまで引き上げてくれていなければ、勝負すらできずに終わったかもしれない。
「ああ、よくやってくれた、大川」
平良潤も追いついてきて言った。
「冬希もよく勝ってくれた」
「展開が向きましたね。東京の伊佐君は、後ろをギリギリまで引きつけていたので、ゴール前までに差を詰めることができましたし、長野と神奈川の選手は、お互い牽制することなく勝負に出たので、その後ろを使うことができました」
薄氷の上の勝利だった、と冬希は思う。楽に勝てたレースなど、今まで一度もなかった。
違う展開になっていれば、違う展開なりのレースをしたと思うが、それで勝てていたかどうかなどわからない。
「俺だって、お前が勝てるかどうかずっと心配してやっていたんだからな」
潤の双子の弟、柊もやってきた。
「どうせ帰りの昼飯、何ハンバーグにするか考えながら走っていたんじゃないですか?」
「それは2番目に考えていた」
「え、もしかしてそんなに俺の心配を・・・」
「ちなみに1番目はハンバーグを何グラムにするかだ」
「・・・3番目は?」
「ドリンクバーをつけるかどうかに決まってるだろ」
「あんた、よくそれで恩着せがましく言えたもんだな!!」
「財布の中に、ドリンクバーの割引チケットがあったんだけど、2年前に有効期限が切れてたんだよな」
「財布の中を整理しろ!」
「お前にやるよ」
「いらないよ!!」
大川は、二人のやりとりを見て、固まっている。
「僕らは、いつもこんな感じだ。勝っても負けても、こんな感じだから、勝敗はあまり気にしなくても大丈夫だ」
潤は、大川に言った。
「ありがとう」
大川は、ふぅっと大きく息をつくと、ようやく肩の力を抜いた。
佐賀大和高校の自転車競技部の部室で、坂東裕理は自転車の整備を行なっていた。
今、メンテナンス用スタンドには前後輪が外された裕理の自転車が架けられており、裕理は後輪のギアを解体して一枚一枚、丁寧に拭いていた。
「裕理さん」
佐賀大和高校1年の天野優一が部室に入ってきた。全日本選手権では裕理の兄である坂東輝幸のアシストを完璧に務めあげ、自身も5位に入賞した。間違いなく佐賀大和高校の次のエースとなる人材ではあるのだが、決して謙虚な姿勢を崩していない。
「インターネットに速報が出ていました。国体の関東甲信越ブロック大会のスプリントステージは、青山冬希選手が優勝したようです」
「だろうな。あいつがブロック大会で負けたら、そっちの方が驚きだ」
裕理は、ケタケタ笑いながら振り向きもせずに言った。
「アシストの郷田選手がいなくなった点を不安視する声もあったようですが」
「あいつは、独走力もスタミナも並以下だが、瞬発力と、何より自分の脚を一切使わずにゴールスプリントに持ち込む点で優れているんだ。自分の空気抵抗を受けずに前に上がっていく時に、誰の後ろにつけていれば楽できるか、その判断が恐ろしく正確なんだ」
先日、裕理は東京で冬希と同じチームで走ってきたという話を、天野も聞いていた。ただ、一緒に走ってきただけではなく、色々と分析をしてきたのかもしれないと、天野は思った。
「郷田さんのアシストのおかげで勝てていたなんて、脳みそがお花畑の奴らは、まあいい鴨だろうな」
人間は、自分の信じたいことを信じようとする。そういった点に付け込めというのは、裕理がいつも天野に言っている事だった。
「裕理さん、それともう一つ。国体の九州地区ブロック大会で佐賀代表で出ていた小城学園と肥前館高校の混成チームは、2ステージ終えて、最下位に沈んだそうです」
裕理は、勢いよく立ち上がり、天野の方を振り返った。
「お前、そっちを先に言えよ」
裕理の顔は、満面の笑みに包まれている。
「裕理さん、国体のブロック大会の佐賀県代表を断ったのは、こうなることがわかっていたからなんですか」
「まあな。福岡は俺らのいる佐賀を全力で擦り潰しにくることはわかっていたからな。兄貴がいない今、俺らだけで抵抗するのはちょっと難しい」
「しかしこれで佐賀の出場枠は、2名になってしまいました」
「俺らが出ていても、似たような結果だったさ。要は、俺らがブロック大会で惨敗して佐賀大和から別の学校の選手に乗り換えられるのか、別のチームが出て惨敗して、俺らに泣きついてくるかの違いだ」
裕理は、確実に自分達が本戦に選手に選ばれるため、あえてブロック大会で負ける役を、他所の学校に押し付けたといっている。その手段の選ばない狡猾さが、天野が裕理を畏怖する理由でもあった。
「去年は、兄貴が全日本を獲った。今年は兄貴がインターハイでスプリント賞こそ獲ったが、その兄貴ももうフランスだ。うちもデカいところで国体の総合でも獲っておくか」
獲ろうと思えば獲れる、と自信満々でいう裕理に、天野はまだ残暑の厳しい9月であるのも関わらず、寒気すら感じた。




