勝者と敗者
一週間が経った。
冬希と真理は夏休み中であるこの一週間、変わらず学校に来ていた。
二人とも部活があるし、それぞれ課題も片付ける必要があった。
安田が守衛に連れて行かれる時、神崎は真理に
「後は僕に任せてもらってもいいかな。悪いようにはならないようにするから」
と言った。
真理は、少し不安そうにしながらも頷くと、神崎は優しい笑顔を浮かべ、安田たちの後を追って行った。
その後、どういう事になったのか、冬希も真理も知らされていなかったが、通学も下校もボディガードのように冬希が付き添うことで、真理も不安なく学校に来ることが出来た。
冬希は、真理のためというよりも、むしろ自分が不安だから真理に引っ付いて登下校したという側面もあった。
そして今日、冬希と真理は、神崎からどういう話になったのか説明を受けるため、理事長室に呼び出されていた。
「やあ、よく来たね」
神崎は上機嫌だ。
「彼は教員を辞めて、奥さんの実家のりんご農家を継ぐために長野に引っ越して行ったよ」
冬希と真理は、驚いた。その話自体はこの上ない朗報なのだが、どうしてそういう経緯になったか不思議でならなかった。
神崎の話ではこうだ。
冬希と真理を帰した後、神崎の連絡により安田を迎えに来たのは、安田の上司たる、冬希たちの母校の校長、そして安田の妻だった。
苦労人といった風貌の校長は、必死に汗を拭きながら、息子ほどの歳である神崎にペコペコと頭を下げた。
安田の妻は、丸々とした体型をしているが、目はくりくりとしており、落ち着いた様子だった。
校長、安田の妻、そして神崎の3者による話し合いが行われた。
その間、安田は門を閉めて応援に駆けつけた、正門側の守衛と、安田を連行してきた裏門側の守衛の二人に、厳しい取り調べを受けていた。二人とも、警備会社からの委託で配属された、元県警のOBだった。
二人は安田に対して、建造物侵入罪、暴行罪(冬希は暴力を受けたが、怪我はしてないため傷害罪にはならないらしい)などの罪状を告げ、逮捕は免れないだろうなどと話していたそうだ。
神崎、校長、安田の妻による3者の話し合いは、見事な利害の一致により、思いのほかスムーズに終わった。
逮捕という言葉を聞いた安田は、床に正座をしてポロポロと涙を流していた。
そこに話し合いを終えた3人が現れ、まず妻がそっと安田を抱きしめ、
「大変なことになってしまったけれど、私はあなたを見捨てたりしないわ。もうこっちに住むことは出来ないけれど、心配することはないわよ。罪を償ったら、私の実家の長野で一緒にお父さんの農園の手伝いをしましょ」
はっきりと心を折られてしまっていた安田は、縋り付くように妻を抱きしめ返しながら、
「すまなかった。もうしない」
と消え入るような声で言った。
その様子を見た神崎は
「そうですか。わかりました。長野に行かれるのでしたら、今後同じことも起きないでしょうから、我々も警察へ連絡することはしません」
と、もっともらしい表情で言った。
校長も
「神崎さんもそう言ってくださっているし、私も安田先生が円満に退職できるよう、手を尽くそう」
と優しく理解のある上司といった体で言った。
3人の流れるような連携プレーで、安田の退職は瞬く間に既定路線となってしまったが、もはや洗脳に形で、守衛も含めた全員による飴と鞭により思考力を奪われていた安田は、3人に対し、何度も感謝の言葉を口にし続けていた。
「彼は、一足先に長野に行って、奥さんのお父さんの手伝いをやっているそうだよ。奥さんと子供さんは、引っ越しや転校の手続きがあるから、少し遅れて長野に移るんだって」
神崎の話を聞き終えた真理は、心から安堵した様子だった。
冬希も、結末に驚いている。
「教師を辞めたので、もう被害に遭う生徒も出ないだろうし、長野に引っ越してしまったので、もう君たちの前に姿を表すこともないだろう」
神崎は、冬希の方を向いて言った。
「お咎めなし、という結果になったけど、不満かい」
冬希は首を横に振った。警察に突き出せば、社会的地位は失墜するが、初犯の建造物侵入罪と暴行罪で、どれほどの量刑が安田に科されるのか冬希にはよくわからなかった。それほど長期間、安田の自由を奪うことは出来なかったのではないかと思う。
自由になった安田が、逆恨みをして真理に危害を加えるという未来もあっただろう。神崎は、安田を改心させることで、その未来を消して見せたのだと冬希は思った。
「青山君は、中学時代に随分あの先生に嫌われていたみたいだったから、一発ぐらい殴り返すのかと思っていたよ」
真理もそう思っていたのか、冬希の方を見つめている。
「俺は、あの先生に、そこまでの感情を持ったことがなかったんだと思います」
2年間担任を務めた安田に対して、今思えば、「学校にいる大人」以上のものと捉えていなかった。それ以上の関心を払って維なかった気がする。それが、逆に安田をあそこまで頑なな態度にさせてしまったのかも知れない。
「それに、万が一暴力事件で自転車競技部の活動が制限されたり、学校自体が悪く言われるのも嫌でしたし、殴ることで、あのひとの心にシコリを残すと、まだあの人との縁みたいなものが続きそうで。それを考えると、私怨から一発殴ることに、そこまでの価値を見出せなかったんだと思います」
「そうだね。復讐なんて無意味だ。さすが僕の自慢の生徒だ」
神崎は、うんうんと満足そうにうなづいた。
「それにしても、あの奥さんは相当な曲者だったよ。頭も切れるし、あの先生には勿体無い奥さんだったよ」
神崎の話では、安田の奥さんは校長、神崎と3者で話し合っている時に嬉々として、
「私の実家の父がりんご農家をやっているのですが、誰も跡を継がなくて困っていたのです。あの人に継がせる方法がないか考えていたのですが、ちょうど良かったです」
と言ってのけたそうだ。流石にこれには神崎も面食らったという。
「結果的に、あの奥さんの一人勝ちみたいな形になってしまったなぁ」
神崎はぼやいてみせた。
冬希と真理は、顔を見合わせて笑った。日常を取り戻す事ができた。とりあえず、二人はそれで満足だった。
安田は、本来望んでいた形かどうかはともかく、一身上の都合で退職という形になり、勤務年数に応じた退職金も受け取ることになる。
それでは、今回の敗者は誰かと言うと、全く別のところにいた。
「潤さん、無事に解決しました。ご協力ありがとうございました」
お礼を言いにきた冬希と真理に対して、安田が裏門付近に姿を表したときに、一番最初に挨拶をした女子生徒、つまり女子の制服を着せられた平良潤は、安田から女子として全く疑われなかったことに対して、痛くショックを受けていた。
「本当の女子生徒に頼むのは、どうしても危険が伴うからね。お願いできるかな」
と神崎に請われ、
「絶対にバレますから」
と何度も言いつつも引き受けてくれた。しかし、全くバレる気配はなかった。それどころか、校内を歩いても、誰一人違和感を感じなかった。そのことに、潤は傷ついていたのだ。
「まあ、そう落ち込まないで。国体のブロック大会の、2日目のエースは潤くんで行くって、おゆみ野高校の牧田先生から連絡があったから」
後からやってきた神崎が慰めの言葉をかける。
「本当ですか!?」
自転車ロードの関東甲信越ブロック大会は、初日は平坦コース、2日目は山岳コースで行われる。
1県4人チームで、総合タイムではなく、順位ごとに与えられるポイントの2日間の合計の多い県が、本大会も4人で出場でき、上位4チームが3人、それ以外は2人で本大会に挑まなければならなくなる。
千葉県チームの初日の平坦のエースは当然冬希で、2日目のエースは潤で行くという。
インターハイでは体調を崩し、出場できなかった潤は、落ち着いた普段の表情とは打って変わって、喜びをあらわにしていた。




