国体の序章
郷田の父は、郷田に相談を受けた時,自転車ロードレースの選手として海外へ行くことに対して、良いとも悪いとも言わなかった。
ただ、
「母さんは喜んだと思う」
とだけ言った。
郷田の父は、母の入院により千葉まで連れて来られ、入院する母のために就職を決めたその地に、母を亡くした後も縛られることに、息子に対して負い目を感じていた。
もっと自由に生きてほしいと思いつつも、本人が決めたことに対して口出しすることに抵抗があった。
自分で決めた道なのだ。反対する理由はない。
内定辞退する上で,筋を通せなどということも言うつもりもなかった。自分の息子が,その辺りはしっかりしていることを,一番よく分かっている。しっかりしていなければ,ここまで悩むこともなかっただろう。
郷田は、神崎高校の理事長兼監督である神崎へ相談することにした。
神崎は,郷田からの連絡に少し驚いた様子だった。思ったより早かった,という驚きだったのだが,郷田は誤解した。
郷田からの,内定を辞退しても大丈夫かという相談に,神崎はまるで用意していたかのように,スラスラと論理立てて,郷田が気にしていることについて,郷田が質問する前に,それがどれだけ問題ないことなのかを説明してのけた。
実際に神崎は,郷田が気にするであろう点について考えて,事前に話すことを用意していたのだが,ここでも郷田は,さすが神崎先生だと感心しただけで,事前に冬希が根回しをしているとは気づかない。
以前,郷田は,自動車競技部のエースだった船津に,なぜ神崎高校の自転車競技部に入ったのかを質問した時、
「神崎先生の口車に乗せられた」
と言った。横にいた平良潤は,腕を組んでうんうんと頷き,冬希と平良柊は、あっ、と言う顔をしたので、きっと神崎は喋りが得意なのだろうと思っていた。
神崎は、その場で富士山ソフトウェアの人事部にリモート会議の開催を呼びかけ、出てきた採用担当者に郷田自身で説明を行い、内定辞退を申し出た。
担当者は、リモートとはいえ対面で郷田が事情を説明してくれたこと、また内定辞退の理由が、別の会社に行くわけではないという点もあったからか、終始和やかに応対をしてくれた。海外での活躍をお祈りしています、という事と、海外でのレース活動を終えて日本で仕事につく場合、他社ではなく自分に連絡がほしいということを言われた。
郷田は終始恐縮し、ディスプレイの向こうの採用担当者に深々と頭を下げた。
「郷田くん、海外へはいつ行くのかい?」
まだそこまで詳しく父と話をしていたわけではなかった。今日の、ただの相談のつもりで来たのだったが、気がつけばもう内定辞退までやってしまった。これが神崎の口車か、と郷田は思った。
「四十九日の法要で、母の納骨を済ませたらそのまま海外へ行くことになると思います」
父が福岡へ帰るタイミングでこっちの家を引き払えれば、それが最も効率がいい。
「郷田くん、情報システム科は、単位制だから、海外からでも課題を提出すれば、卒業することができる。卒業まで頑張れるかい?」
「はい、是非よろしくお願いします」
郷田は、卒業まで神崎高校の生徒であり続けることも、約束された。
千葉県の私立おゆみ野高校は、自転車競技の強豪校だ。
監督の槙田は、2年連続で千葉県の国体での少年自転車ロードレースチームの監督を務めており、昨年は自分の教え子である今崎が国体で7位に入った。
槙田のような雇われ監督にとって、国体の監督というのは、大きな名誉であり、ステータスでもあった。
国体が開催される県は、優勝を宿命づけられていると言っても過言ではなく、その年だけ他県から強力な監督を連れてきたり、高額なトレーニング機材を用意して選手たちを育成したりしている。
国体の監督を務めているというだけで、自転車競技に力を入れたい学校から声がかかる。槙田としては、自分が望むレベルの学校から声がかかるまでは、国体の監督という地位にとどまりたいと思っていた。
しかし、来年からはその地位が危ぶまれていた。
神崎高校が、全国で躍進を遂げて、春の全国高校自転車競技会では船津が総合優勝。全日本選手権でも郷田が優勝して全日本チャンピオンを獲得している。
今や、県内で最強の学校は神崎高校で、年度末の国体監督の選定時に、神崎高校の監督が選ばれるのは間違いない状態となっている。
槙田に残された道は、神崎高校の選手を使わずに、国体で総合優勝して、監督としての手腕を見せつけることだ。
「神崎君は、今日も欠席だそうだ。委任状をもらってきた」
成田市の高校で監督を務める教師が、一枚の紙をひらひらさせながら言った。
千葉県総合スポーツセンターの一角にある会議室で、9月に行われる国体の関東ブロック大会の選手の選考が行われようとしていた。
「神崎さんは、学校の理事長も務めているから、忙しいのでしょうね」
富津市の高校で監督を務めている20代の若い教師が言った。
「今日は、千葉県のエースを務める選手を決めます。本人の承諾を得てから、後日アシスト選手たちの選定を行います」
槙田は、ホワイトボードの前に立ち、ペンを取って言った。その場にいる17人全員が頷く。
「まず、最初に名前が上がるべきなのは、全国高校自転車競技会で総合優勝した船津幸村、そして全日本選手権優勝の郷田隆将ですが、この両名は部活を引退すると同時に、県の強化選手からも外れる申請が出ていますので、除外させていただきます」
「ならば、神崎さんとこの青山冬希だろうな。現在では突出した実力を持つスプリンターだ」
「ああ、関東どころか、日本全国を探しても対抗できるスプリンターはいないだろう。強いていうなら、清須高校の赤井、福岡産業の立花ぐらいだろう」
「ですが、青山はピュアスプリンターであり、総合優勝を狙える選手ではありません。おまけに、郷田のアシストあってこその選手であり、郷田がいない状態では力を発揮するのは難しいでしょう」
槙田は即座に否定した。
「神崎さんのところには、他にも登れる選手がいただろう。双子の平良兄弟だったか」
「ああ、知っているよ。二人とも全国高校自転車競技会では、船津君をアシストして阿蘇でも最後の方まで上位に残っていた」
槙田はこれも即座に否定する。
「平良兄弟は、優れたクライマーかもしれませんが、全国高校自転車競技会では、総合成績が50位台と80位台です。青山に至っては、100位以下でした。総合成績上位を目指すのは難しいでしょう」
「では、一体誰がいるというのかね」
「そうだ、否定するだけではなく、君も意見を言い給え」
参加者の幾人かが、苛立ちを込めて言った。
「習志野東高校の、大川選手です」
会議室内が、ざわついた。
「大川君は、自転車ロード個人タイムトライアルの選手じゃないか」
「ええ、大川は、全日本選手権の自転車ロード個人タイムトライアルで4位、インターハイの個人タイムトライアルで2位に入っています。実力、実績で言えば、県下ナンバーワンでしょう」
「ロードレースはこなせるのか?」
「元々、彼はロードの選手です。スピード、スタミナを兼ね備えたオールラウンダーです。部員の人数が足りず、全国高校自転車競技会の予選会にも、インターハイの県予選にも出てきていませんが、もし出ていたら、神崎高校に勝っていたかも知れません」
その場にいた全員が黙り込む。確かに、船津と郷田が引退した神崎高校は、総合優勝を狙うにしては、実績が不足しているように見える。
「個人タイムトライアルの選手としても選ばれているのだろう?ロードにも出てくれるのか」
「世間話程度ですが、本人は興味を示してくれましたよ」
槙田は、自信満々に言った。
「決を取りましょう。国体ブロック大会で千葉県のエースとして走ってもらう選手は・・・」
投票の結果、過半数の10票を集め、大川が国体ブロック大会の千葉県のエースに選ばれた。
槙田は、心の中でほくそ笑んだ。
この時まだ、槙田は自分の計画通りに進むと信じて、疑っていなかった。




