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もう一つの懸念

 夏休み期間中の神崎高校では、理事長の神崎は理事長室で忙しくしていた。

 今は、学校内の教師の勉強会に使用する資料を作成している。海外の論文やレポートを翻訳し、教材として使おうとしているのだが、もう勉強会の時間ギリギリになっており、余裕がない状態だった。

 コンコン、とノックの音がする。誰だ、と神崎は思った。

 勉強会のためスケジュールはブロックしており、今日は来客予定も訪問予定も、全て断っているはずだ。

「どうぞ」

 可能な限り不機嫌にならないように声を抑えて招き入れる。

 扉が開き、入ってきた人間に驚いた。

「青山です。失礼します」

 部活ではよく顔を合わせる生徒ではあるが、こういう形で理事長室に訪れるということは初めてで、それだけで異常事態だということがわかる。

「青山君、少し待ってもらえるかな」

 神崎は、視聴覚ルームの副校長へ内線を掛けた。

「資料は今メールで送ったので、そちらで進めておいてください」

 え、という声が聞こえてきたが、神崎は構わず電話を切った。

「待たせたね。どうしたのかな」

 神崎は、応接用のソファーを冬希に勧めた。

 平静を装いながらも、どこか緊張した心持ちだった。


 露崎や坂東との話が終わった後、郷田はそのまま帰宅し、冬希は神崎高校に一度寄ることにした。部長兼理事長の神崎と話をするためだ。

 神崎は、忙しそうにしながらも、冬希のために時間をとってくれた。

 冬希は、神崎にあまり時間を取らせては申し訳ないと思いつつも、話が飛ばないように、順序立てて郷田の状況を説明していった。

「ええ、坂東選手は、あのレースに勝ったの!?」

 神崎は、目を輝かせながら身を乗り出して、冬希の話を聞いていた。もはや勉強会のことなど、微塵も頭には残っていないだろう。既に30代半ばだが、根っからの自転車少年だ。

「先生は、ご存知なのですか?」

「知ってるも何も、僕もヨーロッパで走っていたからね」

「もしかして、出たことが・・・」

「僕は、イタリアのチームで、イタリア人エースのアシストをやってたんだけど、そのエースの奴がツール・ド・モンス・アン・ペヴェルの選手に選ばれてね」

「アシストとして神崎先生も出場されたのですか?」

「いや、エースが泣きながら、出場を辞めさせてもらっていたのを思い出すよ」

「えぇ・・・」

「あれは本物の地獄だよ。まさに地獄の土曜日だ。落車事故は多いし、大きな怪我をする選手も多かった。レース自体、とても厳しいコースだったしね」

 石畳を走ったことがない冬希には、今一ピンと来なかったが、よほど過酷なのだろうと思った。

「郷田さんの気持ちは揺れていると思います。ですが、内定を辞退するということに抵抗・・・というか、負い目を感じているように思えます」

「そこまで深刻に考える必要はないんだけどね。内定を辞退するのも権利だし、毎年800人以上入社する会社だからね。一定数内定を辞退する人もいるから、多めに内定を出してるしね」

「内定を辞退することで、学校に不利益なことが発生したりとかは」

「利益はないけど、別に不利益もないよ。今年も情報システム科から30人内定をもらっているからね。毎年一人、二人は家庭の事情や体調の問題で辞退しているよ」

 情報システム科全員で概ね80人ぐらいだから、学校とかなり繋がりの深い会社だということになる。

 富士山ソフトウェアという会社は、プライム市場に上場している大手独立系SIerで、過去に、自転車選手としての夢を諦めた神崎がそのまま欧州に留まりITエンジニアとして仕事を始めた時、海外の企業の窓口として富士山ソフトウェアとやり取りをしていた時期があった。その時の関係が今も続いているのだという。

 神崎高校の情報システム科の生徒達は、元々勉強ができる生徒が集まっている上に、かなり実践的なスキルを叩き込まれ、尚且つ18歳という年齢で入社するため、将来的に会社の中心となりうることが期待されている。富士山ソフトウェアとしても、優秀な人材を送り込んでくれる神崎高校との関係については、細心の注意を払ってくれている。

「だから、郷田くんが迷っていたら、背中を押してあげてほしいんだ」

 冬希は、普段は陽気な神崎の両目に、いつもと違うを見た気がした。

「僕も、郷田くんが海外で走る姿は見たい。僕がそうだったように、エンジニアにはいつでもなれる。だけど、海外に挑戦するのは、できるだけ早い方がいいからね」

 神崎も冬希も、郷田に海外に行けと言うつもりはなかった。最終的には本人の意思が最も重要となるからだ。

「わかりました。先生も、郷田さんから話があったらよろしくお願いします」

「もちろんだよ」

 冬希は、深々と一礼すると、理事長室を後にした。


 神崎は、冬希が出ていくのを確認すると、応接用のソファーに座ったまま宙を見つめた。

 去年、編入してきた郷田の印象は、平坦を走れる選手、というだけのものだった。

 エースである船津の平坦区間のアシストとして丁度良い、という意味で、神崎は郷田の入部を歓迎した。

 大化けしたのは、4月に入学してきた青山冬希の発射台として全国高校自転車競技会の第2ステージを走ってからだった。

 元々、頭のいい男だったのだろう。ゴール前での動きは、よく考えられたものだったし、冬希が勝ったことで、自分が何をやるべきか、どういう局面で力を発揮できるかを、理解したように見えた。

 そこからは、別人のようだった。走りに力強さが加わり、何が何でも冬希を勝たせるという、迫力のようなものを身に纏っていた。

 青山冬希というスプリンターとの出会いが、郷田を変えた。

 船津の平坦アシストだけをやっていたら、現在のようにはなっていなかっただろう。

 神崎は、教師として、自転車競技の監督として、貴重な体験をさせてもらったと感じていた。

 先輩が後輩に影響を与えることは良くあることだろう。しかし、新しく入ってきた1年生が、3年生を別人のように成長してしまうという事態を目の当たりにして、この年になってもまだ、生徒たちに勉強させてもらっている。

 教師という仕事が自分に向いているなどと思ったことはなかったが、その仕事の楽しさを教えてもらった。

 冬希との出会いと、勝利が郷田を成長させたのだ。


 郷田が迷っていたら、という神崎と冬希の心配は杞憂に終わった。

 翌日午前中に、郷田から神崎へ、相談したいことがあるという連絡があった。

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[良い点] オペレーション•ゴウダ 発射台に載りました。まもなく点火です。今回のブースターはフユキ、いつもと逆です。 では、Tマイナステン…
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