ツール・ド・モンス・アン・ペヴェル ④
SDGのゴディニオンがやってきた。
8人の逃げ集団は、コンチネンタルチームの選手が3人含まれているのもあり、そこまで早いペースというわけではなかった。しかし、それにしてもゴディニオンの追いついてくるスピードは早かった。
セクター9からセクター8までの間、10kmの舗装区間に、メイン集団から1分あった差を詰めて、1.8kmの石畳区間、セクター8の途中には逃げ集団に合流してしまった。
あまりにも突然だった。
坂東も含め、逃げ集団の誰もが、これほど早く追いつかれるとは思っていなかった。
逃げ集団にいるプロコンチネンタルチームの5人は、それぞれエースがメイン集団に控えている。
一人だけ別格の強さを持つ、ワールドチームのゴディニオンが逃げ集団に合流してしまうと、もうプロコンチネンタルチームの5人は、ゴディニオンに張り付くか、集団に戻ってエースを引き上げるか選択を迫られることになる。
しかし、ゴディニオンは一切の余裕を与えなかった。
難易度星4つの石畳の中、片手をハンドルから離して無線機をいじり、監督に指示を仰ぐことができる選手など存在しない。逃げ集団の選手たちがパニックに陥る中、ゴディニオンは逃げ集団に留まることなく一気に逃げ集団を突き放しにかかった。
反応できたのは、わざわざ無線機で監督に指示を仰ぐまでもない、リヨンというコンチネンタルチームで自身がエースであるジェラールという選手と、無線機をぶち壊した坂東だけだった。
ゴディニオン、ジェラール、坂東は石畳区間を抜け、舗装路に入っていく。
まるでダンプカーだ、と坂東は思った。
ゴディニオンという選手は、40近い年齢で、すでに全盛期は過ぎたと言われているが、それでも強烈な向かい風の中、ジェラールと坂東を引き連れて突っ走っていく。ジェラールにも坂東にもほとんど向かい風の影響はない。
逃げ集団にいた他の6人は、舗装区間に入って無線機を使って指示を仰ぎ、一度はゴディニオンを追おうとしたものの、すでに10秒ほど引き離されており、向かい風の中でお互い牽制しあって追走の先頭を牽きたがらなかったため、ゴディニオンや坂東たちのグループとの差がみるみる開いていった。
ゴディニオンの作るペースは凶悪で、坂東とジェラールは何度も千切れかけた。
しかしその都度、ここで千切れれば地獄だ、と坂東は己を奮い立たせ、ゴディニオンについて行った。
監督の指示を無視する、無線機を壊す。研修生の立場にある坂東がここまでやったのだから、レース後にタダで済む訳がない。
「口の中で、血の味がするぜ」
残るパヴェは7つ。ゴールまでの距離は50km。ゴディニオンから千切れて単独になれば、あっという間に後続に吸収されることになる。そうなればチームはクビで、2度と欧州でレースなど出来ないかもしれない。
「死ぬまで踏み続けるしかない」
坂東がそう覚悟した時、セクター7のパヴェに入った。
この石畳区間は、800mと短く、なおかつ石畳も凹凸が少ない星2うの難易度だ。
ペースが緩み、ジェラールも坂東も呼吸を整えることができた。
セクター7を終えて舗装路に戻っても、ゴディニオンはペースを上げようとしなかった。
逃げ集団にいた6名は、後続のメイン集団から抜け出したプロコンチネンタルチームのエースクラスの集団に吸収されたようだ。しかし、グループが大きくなると、その中でまた戦いが始まる。
人数が多いはずの追走集団は、お互いが牽制しあって、ペースが上がらなくなっていた。
余裕ができたジェラールと坂東は、ゴディニオンに先頭交代を申し出た。
スタートして程なく逃げ集団に乗り、ずっと逃げてきた二人だ。途中からメイン集団を飛び出してきたゴディニオンに対して先頭交代しなくても誰も責めたりはしなかっただろう。
「ゴディニオンに協力している姿を見たら、ジャンも監督も怒り狂っているだろうな」
しかし、コンチネンタルサーキットの中では最高峰のHCクラスのレースだ。2位、3位でも十分に価値がある。
ゴディニオンは、ゴールまで一人で行く気はなく、坂東やジェラールが牽けるペースで走るつもりのようだ。大ベテランのゴディニオンは、そういったスキルも持ち合わせていた。
3人での旅は、40kmを過ぎようとしていた。
後続では落車が相次ぎ、追走集団も10人を切っていた。
先頭グループでは、坂東が石畳区間を牽き、平坦区間をゴディニオンとジェラールが牽くローテーションが出来上がっていた。
坂東だけペースの落ちる石畳区間を牽くことについて、ゴディニオンもジェラールも何も言わなかった。
1つは、ペースが遅いとはいえ、先頭を走ることでそれなりに風を受けるということと、もう1つ、石畳区間で坂東の選んだ走行ラインが、二人にとっても走りやすかったからだ。
「この男、走りやすいラインを選びながら走っている。パヴェではこの男を先行させよう」
ゴディニオンは、石畳区間ではむしろ積極的に坂東に先頭を走らせた。
ゴディニオン、ジェラール共に、坂東が走った1番凹凸の少ないラインを、正確にトレースして走った。
しかし、セクター6、セクター5とクリアし、セクター4で、ついにジェラールが3人のグループから脱落した。
石畳区間を使って上手く脚を回復させながら走った坂東に対して、ジェラールは舗装区間で頑張り過ぎたのだ。
だが、その気持ちは坂東にも痛いほど良くわかった。ゴディニオンが二人を連れてきているのは、先頭交代することで少しでも体力を温存するためだ。
コンチネンタルチームの所属であるジェラールも坂東も、2つ上のカテゴリであるワールドチームのゴディニオンが本気になれば、簡単に置き去りにすることができる。ゴディニオンに見捨てられたら終わりなのだ。
坂東は、舗装区間でも先頭を交代するようになっていた。
ゴディニオンは、相変わらず坂東がついてこれる程度のペースを維持していた。ゴディニオンがいつ坂東を突き放しにかかってくるかと、坂東は警戒し続けていたが、ゴディニオンは動くことはなかった。エースクラスしか残っていない追走集団が、お互いに牽制しあった結果ペースが上がらなかったのだ。
セクター3に入る前、坂東はボトルゲージからボトルを取り出し、残っていた水を全て飲んだ。
「仕掛けるか」
坂東は、石畳区間に入る。ゴディニオンは坂東に続く。
入りやすいラインを選ぶ坂東の後ろを、ゴディニオンは正確にラインをトレースしながら走る。
ふと、坂東のロードバイクが大きく跳ねた。突き出た石の上を走ったためだった。坂東のラインをトレースしていたゴディニオンのロードバイクも跳ね、前後のボトルゲージからボトルが2本落ちる。
「しまった」
無事にセクター3を終えたが、坂東もゴディニオンもボトルを落としてしまった。
ゴディニオンは、後ろを振り返る。一応、チームカーは来ているが、残り20kmを切って補給禁止区間に入ってしまった。
直前に水を飲んでいた坂東に対し、そうではないゴディニオンは、一層体力を温存しなければならなくなった。
残り13kmから始まるセクター2に二人が差し掛かった。
にわか雨が降ったためか、石畳の上は濡れていて恐ろしく滑りやすくなっている。坂東もゴディニオンも迷わず、石畳の両側の土の部分を選んで走っていく。
1.2kmの石畳区間をすぎ、4kmほどの舗装区間が始まる。
「もう少し引っ張るか」
ゴディニオンは、スタミナに不安を感じていた。ボトルを失い、十分な水分補給ができなかった。
本当なら、セクター2を終えた時点で引き離しにかかるつもりだった。しかし、ここからのペースアップではゴールまでペースが維持できるかわからない。
しかし、ゴディニオンはこうも考えた。相手はコンチネンタルチームの無名の東洋人だ。仕掛けるのはセクター1が終わってからゴールまでの4kmの舗装区間でも十分だろう。
ゴディニオンは、仕掛けるのを待つことにした。
「上手くいった」
坂東は、心の中でほくそ笑んでいた。
セクター3は、往路のセクター19と同じだ。あの突き出た石に乗り上げた選手は、坂東が見る限り全員ボトルを落としていた。
自分のラインをトレースするように仕向けていた坂東は、自らあの石に乗り上げることで、ゴディニオンのボトルを落とさせることにした。
セクター2が終わった後に仕掛けないということは、水分補給できなくなったことに対して不安があるということだ。セクター2が終わった直後に仕掛けられていたら、坂東になす術はなかった。
勝負は最後の石畳区間、モンス・アン・ペヴェルだ。レースの名前の由来にもなっている3kmの長く荒れている石畳区間。坂東とゴディニオンはそこに差し掛かっていた。
「なんだこれは!!」
ゴディニオンが叫んだ。
「これは・・・」
坂東も言葉を失った。
セクター1、モンス・アン・ペヴェルは、石畳の両側の土の部分が走れないように、黄色いプラスチック製のブロックが置かれていたのだ。
無論、セクター21、つまり往路でここを走った時には、そんなものがなかった。
坂東もゴディニオンも、ただでさえにわか雨で滑りやすくなった石畳を、強制的に走らされることとなった。
坂東が先、ゴディニオンが後ろでモンス・アン・ペヴェルに突入する。
ゴディニオンが異変に気づく。徐々に坂東に離されているのだ。
「まさか・・・!」
「ゴディニオンさんよ、相手がついてこれる程度のペースで走っていたのが、あんただけだと思ったか?」
坂東は、舗装区間でゴディニオンがペースを抑えて走っていたのと同様に、石畳区間では、ゴディニオンやジェラールのついてこれるペースに抑えて走っていたのだ。
石畳区間で仕掛けても、どうせすぐにゴディニオンに追い付かれる。坂東は、自分の手の内を隠しつつ、ゴディニオンに容易い相手だと思わせることにより、ここまで連れて来させたのだ。
にわか雨が降って滑りやすくなったことも、石畳の両側にブロックが置かれたことも、坂東にとっては僥倖だった。モンス・アン・ペヴェル往路が星4つで復路が星5つだったのには、こんなカラクリがあったのか。
坂東は、タイヤが滑らない絶妙のペダリングと上から真っ直ぐ地面にロードバイクを垂直にして走らせる重心コントロールで、石畳を加速していく。
稲刈り後の田んぼに比べれば、石畳が敷き詰められている分まだマシだ。
ゴディニオンは、焦れば焦るほど後輪が跳ねて、上手くトラクションがかからない。石畳区間な選手だと言われてきたが、それも他の選手たちに比べたらで、濡れた石畳の上をまるで舗装路のようなスピードで走り去っていく坂東とは比べるべくもない。
セクター1、モンス・アン・ペヴェルを通過した時、坂東はゴディニオンに30秒の差を広げていた。
残り4km、必死に逃げる。
ゴディニオンもセクター1から舗装区間に戻り、全力で坂東を追う。
しかし、あまり差が縮まらない。ここからゴールまで、強烈な追い風が吹いていた。
坂東は、高校の自転車競技選手だった頃から平坦区間の走りが得意な選手だった。追い風に乗り、時速50km後半で逃げ続ける。
ゴディニオンも必死に追うが、坂東に追いつくには、時速60km以上で走る必要があった。流石にそれは不可能だった。ギアも足りない。
残り2km、ついにゴディニオンが追撃を諦め、ペースを落とした。
坂東は、何度も後方を振り返りながらゴディニオンが来ていないことを確認すると、世界中に見せつけるように、悠然とゴールラインを通過した。
久々の優勝だ。今年はずっと、青山や郷田にやられっぱなしだった。そのことを考えると、自然と笑みが溢れた。
歓声を上げる観客とは対照的に、凍りつく各チームの関係者を見渡しながら坂東は不敵な笑みを浮かべ言い放った。
「まあ、こんなもんだろう」




