ツール・ド・モンス・アン・ペヴェル ③
セクター15の石畳の上を、メイン集団から単独で抜け出した坂東は、少しずつペースを上げながら走っていく。いきなり早く走ることも可能だが、自分がどれだけ石畳を走れるかは、他のチームや、さらにはジャンにもまだ見せずにおいた方がいいだろうと思った。今はまだ、手の内を晒すような場面ではない。
「裕理と佐賀の田んぼを走り回っていた時のことを思い出すな」
坂東兄弟の父は、地元で工場に勤務していたが、坂東が小学1年の時、東京への転勤の命令が出た。
坂東の父は、単身赴任するつもりであったが、妻である坂東の母の反対で、長男だけ父の転勤についていくこととなった。
坂東の父の会社はの転勤の家賃補助や手当は、単身赴任の場合と、家族を連れての転勤では、金額が倍近く変わるためだ。
そこに目をつけた坂東の母は、長男の輝幸だけを一緒に連れて行かせ、家族連れでの転勤という申請を行わせ、自分と裕理は佐賀に止まるという手段に出た。
母と裕理は、坂東の父の実家に住んでおり、家賃も生活費もかからない。それに対して、坂東の父と長男の輝幸は、家族連れの住めるレベルの家賃補助をもらいながらワンルームのマンションを借り、物価の違いによる手当も家族全員分受け取りながら、実際にはまだ小学1年生でそれほど大食いでもない長男と慎ましく生活していた。
会社側は、そもそもそういうやり方をする社員が出てくることを想定していないし、大きな企業が1名のために制度を変更することもなく、実態を知りつつも、容認されていた。
坂東は、父にロードバイク を買ってもらったのも、東京在住だったこの小学生の頃だった。
「兄貴、東京の人ごたっと喋り方やん」
数ヶ月に1度、佐賀に帰る時にだけ、裕理と過ごすことが出来た。
坂東がロードバイクを買ってもらったことを知ると、裕理は廃材置き場から捨てられた自転車の部品を集めて、ハンドルだけドロップハンドルで、それ以外がママチャリというひどい自転車を組み立て、佐賀で乗り回していた。
ある時、坂東がロードバイクを佐賀に持ち帰ると、歪な自転車に乗った裕理とサイクリングに出かけることがあった。途中で雨が降り出し、急いで帰るために、ショートカットして稲刈りが終わったばかりの田んぼを突っ切ろうと裕理が言い出した。
二人で田んぼの中に入ると、坂東はすぐに滑って転倒したが、裕理は平気な顔をして走っている。
勝手に田んぼの中を走る二人を見た農家のおじさんが怒って追いかけてきた時、裕理は一人で逃げて、坂東は捕まり、長時間お説教を食らった。
坂東が帰宅した時、裕理は一人で逃げたことを怒られると怯えていたようだが、意外にも坂東は裕理を責めず、どうやればあんな滑る場所をスイスイと走れるのか、と聞いてきた。
裕理の話では、ペダルをどこまで踏み込めば後輪が滑るかは、ペダルを踏む足とお尻で理解するのだそうだ。
ほんの僅かでも滑ったら、ペダルを踏む力を弱くする。反射神経が大事だと言った。
流石の坂東も、すぐに身につけることはできなかったが、短かった佐賀への里帰り期間を使い、数年かけて、ようやく農家のおじさんから逃げ切れるまでの、悪路の走行技術を身につけた。
坂東は、それほど苦労せずに石畳の上を走ることができた。そして、実際にセクター6を抜ける頃には、逃げ集団に追いつくことができた。
逃げ集団は、坂東を含めて8人となった。
全員で先頭交代を行う逃げ集団の中で、坂東も先頭交代に加わっていた。逃げ集団の構成は、プロコンチネンタルチーム5名、坂東も含むコンチネンタルチーム3名で構成されている。
ほとんどが格上のチームの選手で構成されており、実力もまた、所属チームのカテゴリが反映されるがごとく、プロコンチネンタルチームの選手達の方が強力だった。
坂東も、日本ではワンデーレースで無敗の強さを誇ったが、プロコンチの選手5人が作り出す平坦区間のハイペースの逃げの中で、先頭交代に加わる無謀さに、早々に気づいた。
「このままではゴールまで脚が持たん」
坂東は、無線でチームに言った。
『テル、1秒でも長く逃げ集団に留まるんだ』
箸にも棒にもかからない回答が返ってきた。だが、坂東は、逃げ集団から脱落しても文句を言うなと言いたかっただけで、建設的な意見を求めているわけではなかった。
セクター14に入る。800mの石畳区間。難易度は星2つだ。
坂東は、意図して逃げ集団の先頭で石畳区間に入った。石畳区間は、路面が悪い分スピードが落ちる。スピードが落ちれば、空気抵抗も減るので、先頭を走ることのデメリットがそれだけ少なくなる。同じ先頭を牽引しなければならないのであれば、石畳区間の方が楽なのだ。
そして、先頭を走っていれば、誰かの落車に巻き込まれるリスクもない。
セクター14を抜けて、舗装区間に入ると、坂東は先頭を譲って逃げ集団の最後方に下がっていった。
同じく、セクター13、セクター12、セクター11も同じやり方で切り抜けた。
逃げ集団の面々は、坂東のやり方に気づいていたが、平坦区間では坂東が演技抜きで苦しそうであること、そして同じ楽な区間を走らせるなら、強力なプロコンチネンタルチームの選手ではなく、脅威となり得ないコンチネンタルチームの選手、平坦区間で千切れそうになっているこの無名の東洋人に走らせた方がマシだと思っていた。
折り返しのセクター10を終えた時点で、メイン集団とのタイム差は1分となっている。
坂東も安定して逃げ集団で走ることが出来てきた。
相変わらず舗装区間ではプロコンチネンタルチームの選手たちについていくのが厳しいが、舗装区間で先頭交代することはなく、未舗装区間でだけ先頭を引くことで、上手くバランスを取っていた。
『テル、聞こえるか。ゴディニオンがメイン集団からアタックをかけて抜け出した。逃げ集団に合流する気だ。お前はメイン集団に戻ってきてジャンのアシストについてくれ』
何を言ってやがる、と坂東は思った。
SDGに対して、メイン集団の先頭交代に加わらない理由として、坂東は逃げていた。その理由からすると、ゴディニオンがアタックをかけたSDGは、もはやメイン集団の牽引は行わないだろう。そこで坂東を呼び寄せてメイン集団を牽引する役割に当てようと言うのだろう。それはわかる。
しかし、レースも折り返し地点を過ぎ、これからが勝負というタイミングで、チームとしては逃げを一人送り込めているのだ。例えゴディニオンが合流して逃げが9名となり、その中で坂東が最下位の9位だとしてもWCIポイントは40ポイント獲得できるのだ。それを引き戻すなど、正気の沙汰ではなかった。
ジャンが、自分以外の人間がWCIポイントを獲得しようとしているのを、妨害しようとしているのか。
「ボス、無線の調子が悪いようだ。よく聞き取れない」
『おい、テル!』
坂東は、耳元のマイク付きイヤフォンを引きちぎると、道路脇に投げ捨てた。




