ツール・ド・モンス・アン・ペヴェル ①
「テルは、レースでパヴェを走ったことはあるのか?」
レースのスタート前、坂東の所属するチーム「ヌヴェール」のエースとして出場するジャンのアシスト、ヨハネスが話しかけてきた。
ヨハネスは山岳系の選手だ。小柄で無駄のない体をしている。
「ヨス、日本には石畳などない。こんな酷いところを走る理由などない」
「ヨーロッパサーキットの中でも、路面状況が最悪な、地獄の土曜日と呼ばれるレースだ。せいぜい楽しむんだな」
ヨハネスは、ジャンのところに行くと、何かを耳打ちした。
「俺は何をすれば良い?」
坂東は、チームリーダーであるジャンの所に行って指示を仰いだ。
「チームの1番後ろに引っ付いてこい。前を走られて落車されると大変だ。下手すると巻き込まれて最初のセクターでレースが終わっちまう」
「わかった」
レースが始まった。75kmを往復する150kmのレースで、スタート地点はそのままゴール地点となる。
石畳区間は、第21セクターから順番にカウントダウンされ、最後が第1セクターとなる。坂東は、残りの石畳区間の数がわかりやすくて良いと思った。
「なあ、ヨス。セクター21とセクター1が同じなんだよな」
「バカか、当たり前だろう」
「じゃあ、なぜ第21セクターの難易度が星4つなのに、第1セクターの難易度が最高の星5つなんだ?」
「知らねぇよ。行きと帰りで逆方向から侵入するから、なんか走りにくいんじゃないか?」
そんな単純な問題なのだろうかと、坂東は疑いを持っていた。しかし、ヨハネスの意見を否定する明確な理由もなかったため、これ以上は、何も言わなかった。そもそも、セクター1まで無事に辿り着けるとは限らないのだ。
第21セクター、モンス・アン・ペヴェルに入った。レースの名前の由来にもなった3kmの石畳区間だ。
集団は2列になって石畳区間に侵入していく。しかし、坂東が見る限り、2つの隊列は石畳の上ではなく、石畳の両側の土が剥き出しになった部分を走っている。その外側はもう畑だ。
「おい、ヨス。全然、石畳じゃねぇじゃねえか」
「うるさい。こんなゴツゴツした石畳の上なんて走れるわけないだろう」
そうか?と坂東は思った。
試しに、誰一人走っていない石畳の上に乗ってみる。
突然、両腕に細かい振動がきた。サドルからお尻への振動も厳しい。
「これは確かになかなかだな」
だが、走れないほどではない。肘を柔らかく使い、少しだけお尻を浮かせるような意識で、振動を抜く。
石畳の両側の土の上を走る選手の中、坂東だけが真ん中を走り続けている。
次第に石畳の両側の路面が悪くなり、小さな水溜りなどが見られるようになってきた。3日前まで雨が降っていたとのことで、まだ完全に乾いていないようだった。
しかし、隊列は石畳の両側の土の上を走ることをやめない。
チーム「ヌヴェール」の隊列の先頭を走るビルが手を挙げた。
「パンクだっ!!」
未舗装区間は、パンクしやすい。さらに路面に濡れている部分があったことにより、小石が付着する。パンクの起こりやすい条件が揃っていた。
ビルは減速し、後ろを走っていたアシスト達、そしてジャンはビルを避けて石畳の上に乗った。
「うわぁああああ」
ヨハネスが、石畳の上を走り出した瞬間、自転車が大きく跳ねて、そのままコース脇の畑に落ちていった。
ヨハネスは、ジャンのグループの中でも1番体重が軽く、最も石畳に向いてない選手だった。
「無茶しやがって・・・っていうか、何のために出てきたんだ」
坂東は、慣れない手つきで耳元の無線機のスイッチを入れ、チームに報告を入れた。
「ボス、ヨスが飛んでいったぞ」
『・・・わかった。こっちで回収しておく』
まだスタートして10kmと走っていない。だが、ヨハネスだけではなく、集団の後続でもパンクや落車が相次ぎ、最初のセクターにして多くの脱落者を出していた。
メイン集団は、最初の石畳区間を通過した。
ヨスは、そのままチームカーに回収され、パンクして遅れているビルも、集団への復帰が絶望的になれば、同じくチームカーに回収されるだろう。
「これが石畳か」
集団のあらゆる箇所で混乱が起こっていた。こんな区間が続くかと思うと、流石に嫌気が差すが、モンス・アン・ペヴェルは、星4つの難易度で、これと同等の難易度の石畳区間は、他に4箇所しかない。
「まあ、何とかなるだろう」
気を取り直した坂東が、チームメイトの姿を探そうとした時、後ろから声がした。
「おいテル、ボトルを取ってこい」
高圧的な声がし、坂東は後ろを振り返る。
「・・・誰だ、お前」
「俺だよ!ジャンだよ!」
坂東が分からなかったのも無理はない。
ジャンは、ジャージも顔も泥だらけで、チームはもちろん、誰かも判別できないようになっていた。
石畳区間で、石畳の両側を走っていた選手達は、大体似たような惨状だった。
「ジャン、ボトルはどうしたんだ?」
スタートして15kmほどだ。2本のボトルを飲み干すなど、あり得ないことだ。
「石畳の振動で、全部飛んでいったよ!!」
「まあ、そうだろうな」
ビルを避けて石畳に乗った瞬間、ジャンの自転車のボトルゲージからボトルが落ちていくのを坂東も見ていた。
セクター21とセクター20の間に、ボトルを持ったスタッフが一人待機しているはずだ。
坂東は、スタッフを探し、走りながらボトルを受け取った。
走りながらボトルを取るという行為は、落車のリスクを伴う。
従って、チームのエースに直接取らせるのではなく、アシストが取りに行き、エースに渡すということが多くなる。ボトルを取りに行くのも、アシストの立派な仕事ではあるのだが、坂東は、まるで椅子に座ったままテーブルの上にあるコップを持つように、いとも簡単にボトルを受け取って見せた。
坂東は、ボトルをジャンに渡す。
レースは、セクター20の石畳区間に入ろうとしていた。




