郷田の衝動
朝8時、郷田の父の読経の声が聞こえる中、郷田は父と自分の分の朝食を作っていた。
母が入院した時から、郷田は家の家事を父と分担して行ってきた。
とはいえ、食事や洗濯、掃除などは、仕事をしている父より郷田の方が時間が取れたため、郷田が行うことが多かった。
あまり凝った料理はできないが、味は一定以上のレベルだ。
遺骨の置いてある後飾り祭壇で読経を終える頃には、朝食の準備は整っていた。
「父さん、飯にしよう」
「ああ、ありがとう」
父は、無口な方だったが、感謝の言葉は必ず口にした。
朝食は、和食でタンパク質を多く摂れるものを郷田は意図して選んでいた。
干物や鮭の西京焼きなど、魚が多く、納豆、卵も欠かさず付いてくる。
その代わり、味噌汁はフリーズドライの物であったし、野菜もキャベツの千切りや切っただけのトマト、そして白飯は、郷田が夏休みに入るまではレトルトのものを使用して、適度に手を抜いていた。夏休みで多少時間が取れるようになった今では、定期的に5合の米を炊き、余った分をラップに包んで冷凍している。今日はそれを解凍したものだ。
郷田の父は、もともと福岡でトラックの運転手をしていたが、郷田の母が千葉の病院に転院するタイミングと、その会社が関東に進出するタイミングが上手くあった為、転職することなく、千葉で仕事をすることが出来ていた。
偶然、転院先の病院が、物流の拠点となっている地域の近くであったため、通勤時間も短い。
トラックの運転は、夜間の仕事だった。
夜8時ごろから集荷を行い、朝方にかけて各地の大手ショッピングモールに配送を行う。
ドライブレコーダーで制限速度は厳しく管理されており、仮眠を取らなければならない時間も決まっている。さらには配送先で荷下ろしをできる時間帯も定められており、緻密な計算が必要となる。決して楽な仕事ではない。
しかし、一人でトラックを運転していられるドライバーは、人付き合いが得意ではない郷田の父にとって、極めて居心地の良い仕事だったのだそうだ。
朝の読経は、郷田の父が帰宅後に行っていた。
「隆将」
郷田が箸を止め、顔を上げる。
「四十九日の法要後、母さんと一緒に福岡に帰ろうと思う」
母さんと一緒に、という言葉で一瞬、胸が締め付けられた。
福岡を出るときには母は生きていた。それが遺骨となって福岡に帰るのだ。生死は人の常とはいえ、切ない。
「お前は好きにしなさい。もう父さんたちに付き合う必要はないのだから」
この地にやってきたのは、母の治療のためだった。母は亡くなり、もうこの地に留まる理由はない。
父は、実家に帰ることになるだろう。実家には、まだ壮健な祖父母がいる。仕事もある。
しかし、母の治療に付き合って千葉まで来た郷田は、高校卒業も控え、すでにこちらで就職も内定を貰っている。それは、既に一人で生きていけるだけの力を持っていることを意味する。
選択肢は2つある。父に従って、福岡に帰るか。内定をもらった会社に就職するため関東圏に留まるか。
結論は最初から出ている。
自ら就職を希望し、自分の資質を認めて内定を出してくれた会社を袖にすることはできない。期待してくれたことに対して、期待に応えることで恩を返したい。
逆に、関東圏に留まる理由を失った郷田にとって、それが唯一のアイデンティティとなっていた。
郷田自身も、このままでいいのかと、散々悩んだ。
自らの望むことはなく、ただ、他者への恩義のためだけに生きると言う行為は、果たして人間として生きているといえるのか。
自分ではなく、親しい人がそういう歪にも思える人生を歩もうとしていたら、郷田は間違いなく止めていただろう。しかし、今の郷田には、内定をくれた会社の恩に応えること以上に、自分のやるべきことを挙げることが出来なかった。
「少し、考えてみる」
郷田は、絞り出すように、父に言った。
その夜、郷田は父が仕事へ出かけた後、ローラー台にまたがり、トレーニングを行った。
課題は順調、家事も毎日行なっているので溜まる事はなく、それほど時間をかけずに終わらせることができる。他にやることもなく、郷田は自然にトレーニングを行っている。
今までも、トレーニングは行っていたが、学校があり、母の入院先へ着替えなどを届けるなど、それなりに多忙であったため、実際にはトレーニングする時間に、かなり制限があった。
しかし、今では、日中の父が寝ている時間は、ローラーの音で起こさないように自粛しているが、それ以降の時間については、今まで以上にトレーニングができる環境にあった。
ローラー台の出す出力の値は、郷田の能力が全日本選手権や国体の時より上がってきていることを示していた。しかし、ローラーでのトレーニングの数値が、そのまま実戦で出るとは限らない。
固定ローラーは、バランスを崩しても転倒することはないが、その分、普段のレースでまっすぐ走ることや、転倒しないためにバランスを取ることに使う筋肉などは、実戦ほど使えていないことになる。
「レースに出てみたいな」
郷田がポツリとつぶやいた。自分がどの程度走れるようになったか、知りたい。
郷田の心に、小さな衝動が湧き上がった。その時、後輩から一通のメッセージが届いた。
『青山冬希:レースに出ませんか?』




