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優子の成長

 冬希と優子は、墨田区にある体育館へ向かっていた。

 そこには、今日、将棋部の対局を行う藤田義弘がいるはずだ。

 鈴木のいたサーキットを辞して体育館へ向かう電車の中で、優子は心なしか落ち込んでいるように見えた。

 優子自身、自分が落ち込んでいる理由を明確に表現するのはまだ難しいのではないかと、冬希は思った。

 同年代の鈴木の戦う姿に、優子にとって少なからずショックを受けている。

 この状態で家に帰ったとして、安川家の優子に対する不満は、もしかしたら解消されるのかも知れない。

 しかし、冬希には、優子の目が力を失っているように見えた。

 優子が人並みに色々やる人間にはなるかも知れない。しかし、冬希は優子の持つ、何かに立ち向かおうとする姿勢は、失わせたくは無かった。

 今、藤田のところへ向かう理由があるとすれば、それなのだろう。


 冬希と優子は、体育館の玄関に着いた。

 そこには、毛筆で「高校王座戦挑戦者決定戦」「高校棋聖戦予選Aブロック」「高校王位戦挑戦者決定トーナメント2回戦」と書かれた貼り紙が掲出されていた。

 どうやら、広い体育館を借り切って、幾つものカテゴリの対局を一度に行なっているようだ。

 冬希と優子は、玄関で靴を脱ぎ、来客用のスリッパに履き替えて、「第1競技場」と書かれた1番広いフロアの入り口の扉を開け、中に入った。

 体育館の中は、多くの長机が並べられ、1つの長机につき、2つの将棋盤が置かれている。

 その将棋盤を挟んで、2名の対局者がそれぞれ向かい合って将棋を指している。

 対局が終わった対局者達は、感想戦を行なったり、まだ対局している人のところに見学に集まったりしており、想像とは違い、そこまで静かというわけでは無かった。

 入り口付近には、誰がどこで対局をするか、座席表のようなものがあり、冬希は藤田のいる場所を探そうとそこに向かおうとすると、優子が冬希の袖を引っ張った。

 冬希が振り向くと、優子が体育館のステージの方を指差している。

 藤田がいた。

 藤田が臨んでいる対局は、高校王座というタイトルへの挑戦者を決めるもので、今日この場で開催されている数多くの対局の中で、1番注目度が高いものになる。そのため、対局場所はステージの上となり、他の長机で行われている対局と違い、近くで見ることはできないが、ステージ脇に用意された大きな将棋盤で、二人の対局の状況を知ることはできるようになっていた。何から何まで特別扱いだ。

 冬希は、ステージ脇の大盤を見てみる。

「どう?」

 優子が小さな声で聞いてきた。

「負けている」

 冬希は、小さな声で短く答えた。

 冬希は、子供の頃に父に将棋を教えてもらって以来、しばらくの間、毎晩将棋盤に駒を並べて父の帰りを待つほど、将棋にのめり込んでいた時期があった。

 今でこそ、将棋を指す機会は無くなったが、父に勝てる程度には将棋が上達した。

 将棋の実力的には大して強くはない冬希だが、その冬希が見てわかるほど、藤田の敗勢は明らかだった。

 優子の目は、藤田の姿に釘付けになっていた。

 優子の自宅で会った藤田は、身なりが爽やかで、優しそうな眼鏡の奥の瞳は知性を湛えていた。

 しかし、優子が見つめる今の藤田は、口は半開きで呼吸が荒く、髪は掻き回されてボサボサになっており、血走った眼で盤上を見つめるその顔は、疲れ切っており、中年男性のように老けて見える。

 冬希の見立てでは、もはや藤田に勝ち目はない。いつ勝負を投げてもおかしくない程だ。

 しかし、藤田は考える事を止めない。本当に辛そうに盤面を見つめている。

「辛いな」

 冬希は、優子に小さな声で言った。

 優子は、黙って静かに頷いた。

 どんなに考えても上手くいかない。そういったことを考え続ける。それがどれほど辛いことか。

 藤田がやっていることは、そういう事だ。

 その後、藤田は15分の持ち時間のギリギリまで考え続け、時間切れギリギリのところで、投了した。


 対局後、感想戦まで終えた藤田が、冬希と優子の元にやってきた。

「お疲れ様でした」

 冬希が慰労の言葉をかけた。

「君たちが来てくれるのは聞いていたから、今日は是非とも勝ちたかったんだけどね」

 対局中と変わらず、髪はボサボサで表情も披露の色が濃かったが、雰囲気は少し柔らかくなっているように見えた。

 優子は、鈴木の時は突然のことに上手く言葉が出てこなかったが、藤田に対しては少し話を聞いてみたいと思っていた。しかし、声をかけるタイミングがわからない。

「青山君、君は将棋は指せるかい?」

「はい」

「じゃあ、うちの部員の相手をしてやってくれないか」

「いいですが、弱いですよ」

 冬希は、藤田の後輩らしき女子生徒と向き合って座り、将棋を指し始めた。

 藤田は、優子に向き直る。冬希と藤田は、優子が何か言いたそうな顔をしているのをみて、二人だけで話せる状況を作ってくれたのかも知れない。

「あの・・・辛くないんですか?」

 優子は自分に絶望した。一歩を踏み出そうと散々考えた挙句、口から出てきた言葉がこれだ。

「辛いよ」

 藤田は、優しそうな表情で言った。

「なんでですか。将棋が楽しいからですか」

「ははっ、楽しくはないかな。勝てたら楽しいけど」

「楽しくない・・・?」

 優子は衝撃を受けた。

 先ほど会った鈴木は、大変な思いをしながらカートレースを続けているが、それは彼がカートで走るのが楽しいからだ。その部分については優子も共感できる。

「では、何故そんな辛い思いをしてまで将棋を指しているのですか?」

「他人に自慢できることが、これしかないからだよ」

「そんな・・・」

「僕はね、子供の頃から走るのが遅いし、力も弱いし、不器用だから球技もできない、あと字も汚かったな。とにかく何もできなかったんだ」

 藤田は、遠い目をした。

「将棋は、運動神経は要らない。勝てると嬉しいしね」

「それは、将棋が楽しいということとは違うのですか?」

「好きかどうかで言えば、好きだけど、将棋を指していて楽しいかというと、辛くて苦しいことの方が多い」

 藤田は、優子と向き合った。

「だけど、それは皆がやっていることだ。何かを達成しようと思えば、苦痛は伴う。それは当たり前だ」

「当たり前、ですか」

「そこでうちの部員にコテンパンにやられている彼も、光速スプリンターと呼ばれているけど、自転車ロードレースというのは、筋肉と心肺機能の限界を競う競技だ。上達しようと思えば、自分の限界に挑戦するような、厳しいトレーニングを行う必要がある」

 女子部員との対局中で、大駒の飛車を取られて慌てている冬希を見る。それほど厳しい環境で戦っているような雰囲気は感じられない。

「青山君。君は毎日苦しいトレーニングを行なっているんじゃないのかい」

 唐突に聞かれて、冬希は将棋盤から顔を上げた。

「でも、本当に死にそうなほど苦しいのは、週2回ぐらいですね。その時は、汗と鼻水と涙でグチャグチャになりながらペダルを踏んでますね」

「王手です」

「ああ、ま、待った」

「11手ぐらい戻さないと、結果は変わりませんよ」

 そのぐらいから詰んでいるらしい。冬希は、がっくり肩を落としている。

「ありがとうございました」

 優子は、藤田に礼を言った。


 優子は、一人で帰ると冬希に告げ、体育館から出た。

 情けない自分を見られるのが恥ずかしかったのだ。

 納得のできるアニメーションを描けるようになりたい。それが出来ないうちは、他のことに注力する余力はない。そう思っていた。

 上手くできない自分を、

「お前のような下手くそが、どの面を下げて身なりを綺麗にするというのだ」

 などと、貶めようとしていたのかも知れない。

 とにかく、優子は勉学や食事、家族との会話、その他日常生活を疎かにし、自らの作画技術の向上に打ち込んだ。

 叱られて当然だ。

 自分より努力もし、結果も残している人たちが、当たり前のように日常生活に支障をきたすこともなく、闘い続けているのだから。

 自分のような、まだ何もなし得ていない矮小な存在が、最低限の身なりも整えられないなど、勘違いも甚だしい。穴があったら入りたいぐらいだ。

 今まで、自分がいかに周りが見えていなかったか。

 父や姉たちから、散々言われていたことだ。だが、今日に至るまで全く理解できなかったし、聞く耳も持てなかった。本当に馬鹿だ。

 鈴木や藤田の姿勢を自分の目で見て、初めて自分の恥ずかしさがわかった。

 実際に自分の目で見せたほうがいい。姉たちや冬希は、そう思ったのだろうと、今ならわかった。

 青山冬希、不思議な人だ。

 優子は、自分の愚かさと他人の意見を聞かない偏狭さ、それと気付きながら、自分を馬鹿にすることも、嫌うこともなく、世話を焼いてくれた同学年の男子のことを考えていた。

 学校では、優子に話しかけてくる男子はいなかった。ガリガリの体にボサボサの髪、薄汚れた制服、接する価値のある人間には、到底見えなかったことだろう。

 だが、冬希はそんな優子に、突然公園で話しかけられ、ノコノコ自宅までついてきた。

 優子の作った原画を見て、上手いと褒めてくれた。

 優子の世話を焼いて、一日付き合ってくれた。

 考えてみるが、彼がそこまで優子にする理由が、見つからなかった。


 優子は、地下鉄の駅の入り口まで来たが、立ち止まり、体育館の方へ引き返すことにした。

 冬希に、礼を言っていないことを思い出したのだ。

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