花火
朝5時、スマートフォンのアラームが鳴り、冬希は目を覚ました。
毎週土曜日は、春奈と待ち合わせをして、江戸川を走っていた。春奈は膝を怪我した影響で、うまく膝に力が入らなくなっていた。そのリハビリも兼ねて、土曜日の午前中は、一緒に走る約束をしていた。
しかし、もう一緒に走ることもない。春奈は、既に日本にいないのだ。
「気力がないな」
冬希は、声に出して呟いた。
本来、特別朝に強い方でもない冬希が、早朝に起きて準備し、待ち合わせの場所に向かって時間通りに家を出発することができていたのは、春奈が待っていてくれたからだった。
冬希は、1時間ほど布団の中で、色々とトレーニングに出発する理由を考えていた。理由がなければ、動けなかった。
冬希は、自分を説得することを諦め、何も考えずに私用のサイクルジャージに着替え、誰もまだ起きていないリビングに降りてバナナを2本食べ、自転車に跨って自宅を出発した。
真夏は、躊躇しているとあっという間に気温が上がってしまうため、練習をサボる理由を考えようとする自分を消し去る必要があった。練習が必要だという自分と、練習をサボろうとする自分を戦わせると、勝負がつかないのだ。
冬希は、市川橋を東京側に渡り、そこから江戸川を北上していく。
千葉側にもサイクリングロードはあるが、冬希は東京側のサイクリングロードの方が走りやすいと感じていた。
右手に河川敷の野球場を見ながらしばらく走ると、柴又公園が見えてきた。
春奈と走る時、休憩場所としてよく利用していた。葛飾柴又寅さん記念館があり、いつか入ってみたいねと、二人で話したことがあった。しかし、それはもう叶わなくなった。
さらにしばらく北に走り続けると、みさとの風広場に着いた。
春奈と二人で立ち寄った時に、慶安大附属の植原と雛姫に出会った。春奈はこの時、ヘルメットとアイウェア、さらには虫が口に入らないようにと、フェイスマスクをつけていたため、後日春奈と会った植原は、春奈の可愛さに驚いていたのを思い出した。
冬希はそのまま運河河口から利根運河に入り、学校まで走り続けた。
神崎高校に着くと、職員室へ行き、部室の鍵を借りて部室の前に戻った。
部室の鍵を開け、鉄棒のような構造をした自転車ラックを運び出し、組み立て部室の前に立てる。自分の自転車をラックにかけ、誰もいない部室に足を踏み入れる。
平良兄弟は長野の父の実家に里帰りだというし、船津は受験勉強、郷田は資格の勉強のためか、しばらく誰もこない部室。
しかし、冬希は部室の中で、1台のロードバイクを見つけ、息を呑んだ。
それは、春奈が乗っていたピンクのコルナゴだった。
ドイツに行く春奈が、借りていた自転車を返しにきたのだろうか。乗ってくれる人を失ったロードバイクが、窓から差す光に照らされて、孤独に佇んでいた。
冬希は、コルナゴに近づいた。しかし、手を触れようとして、結局触れることができなかった。触れて、どこかに春奈の存在を感じてしまったら、きっと耐えきれなかっただろう。
冬希は、部室内の折り畳み式の長テーブルで学食に併設された購買で買った惣菜パンを幾つか食べ、一緒に買ったペットボトルの水を、ロードバイクのドリンクボトルに注いだ。
パイプ椅子に座ったまま、テーブル越しにピンクのコルナゴを眺める。
不意に、春奈の跨った姿が目に浮かび、慌てて打ち消した。
冬希は、湧き上がる寂寥感に胸を締め付けられた。
辛くなり、目を閉じてテーブルに突っ伏した。
「冬希くん、寝てるの?」
冬希が顔を上げると、春奈が悪戯っぽい笑いを浮かべながら、冬希を覗き込んでいる。
「寝てないよ」
まだ若干寝ぼけている頭をフル回転させながら、冬希は精一杯の虚勢を張る。
「だって、すごいヨダレだよ」
「え、うそ」
冬希は、慌てて口元を拭う。
「嘘だよ!」
春奈は、楽しそうにケタケタ笑う。
「変な夢を見てたんだ」
「夢って、ほらやっぱり寝てたんじゃん」
「春奈が、学校辞めて海外に行ってしまう夢」
「そうなんだ、寂しかったの〜」
春奈は、冬希の頭を、よしよしと撫でた。
気持ちいいな、と冬希は目を細めた。
冬希が目を開けると、そこには、春奈の姿はなかった。
誰もいない部室には、ピンクのコルナゴがあるだけだった。
開いた窓から風の音だけが聞こえている。
冬希は、胸の苦しさに耐えきれなくなり、窓を閉め、部室の前に出した自転車ラックから自分の自転車を下ろして壁に立てかけると、自転車ラックを部室の中にしまって、施錠した。
鍵を職員室に返すと、部室の前に戻って自転車にまたがり、冬希はその場から逃げるように走り出していた。
利根川を遡上し、関宿まで行くと、補給食であるスポーツ羊羹を食べ、すぐに南下を開始した。
関宿も含め、江戸川は春奈との思い出が多すぎる。
冬希は、胸を締め付けられるような思いを抱えたまま、走り続けた。
しばらく走り続けると、サイクリングロードに徐々に人が増え始めていた。
「しまった、今日は江戸川の花火大会だ」
花火の見物客を目的とした人が多くなると、帰れなくなるかもしれない。
冬希は慌てて、江戸川のサイクリングロードの千葉側を、海に向かって走り続けた。
しかし、人が多く、安全のためそれほどスピードは出せない。
ついに、自転車に乗って走れないほどの人混みになり、冬希は、自転車を降りた。
市川方面に向かって歩く人たちの群れの中で、冬希は一人自転車を押して歩いた。
ビンディングシューズのクリートが邪魔で、うまく歩けない。
普段なら、自転車で駆け抜けられる場所を、冬希は情けない気持ちになりながら、何倍も時間をかけて歩いていく。
次第に、川に浮かぶ屋形船の数も多くなってきた。
屋形船の屋根は人が登れるようになっているようで、人が寝転んで空を見上げている。
人が密集しており、なかなか進めない状態が長いこと続いて、ようやく1番混んでいる箇所を抜けることができた。しかし、今度は冬希が抜けてきた、打ち上げ場所付近に向かう人たちを、かき分けながら進まなければならなかった。
もう辺りは薄暗い。
冬希は、疲れ切った表情で歩き続ける。
そして、後ろで、ドーンという大きな音がした。
冬希が振り返って空を見上げると、大きな花火がひとつ空に開き、バラバラという音を立てながら、キラキラと落ちていた。
すれ違うカップルのうち、女の子が男の子の手をひき、
「ほら、もう始まってるよ!」
と走り出していく。
冬希は前を向き、再び歩き出す。
冬希と同年代ぐらいの、浴衣を着た女の子と、甚平を着た男の子の二人が、緊張した面持ちで手を繋いで歩いてくる。
「意外と、浴衣の人多くてよかったね」
女の子が俯き加減で、男の子の方を見ないまま言った。
「うん」
男の子も、少し下を向いたまま、小さく頷いた。
すれ違った後、冬希は足を止め、空を見上げた。
花火が、また上がった。
冬希は、ヘルメットを脱いで、夢の中で春奈が撫でてくれた頭を触ってみる。夢の中だったが、はっきりと心地よい感触が残っている。しかしそれも、時間が経つと忘れてしまうのだろう。
冬希は、自分が女の子に対して器用だなどと思ったことは、一度もなかった。
高校に入学し、学校内では付き合い始める男女もいた。昼休みに一緒にご飯を食べている男女も、少なからずいた。自転車ロードレースをやっていく上でも、植原と雛姫、立花とあゆみなど、お互いに好意を抱いているであろう男女を見ることも、少なくなかった。
しかし、そんな人たちの中にあって、卑屈になることなく、心の平穏を保ったまま過ごしてこれたのは、春奈がいつも側にいてくれたからだった。
春奈がいてくれることで、冬希の高校生活は生きやすかった。
冬希の両目から、涙が溢れてきた。
絶対に必要な人が、冬希の元を去っていった。
絶対に失いたくない人を、失った。
アイウェアを外して、目を拭おうとして冬希は止めた。
涙を流しながら、花火を見上げる人たちの間を、自転車を押して歩き始めた。




