疲労の極致
ホテルに帰り、それぞれ思い思いの時間を過ごせる時になっても、尾崎は第5ステージのコース図を見つめていた。
尾崎は、第4ステージDNFという結果になり、明日の第5ステージには出場できない。
しかし、テーブルにコース図を広げて明日の展開を読もうとする尾崎の姿は、翌日にレースを控えたいつもの尾崎と変わらないように見えた。
大学受験に備えるためにインターハイで引退する尾崎は、もう卒業するまでレースに出ることはない。
しかし、今の尾崎はまだレースのことを考えている。もうそれは自転車ロードレーサーとしての習性のようなものなのかも知れない。
丹羽は、黙って尾崎の向かい側の席に着いた。
「明日の作戦を立てているのか?」
「ああ、自分はリタイアしたから知らんぷり、というのもちょっと違う気がしてな」
覆い被さるようにして地図を見ていた尾崎は体を起こして、丹羽の方に向き直った。
二人で多くのレースを勝ってきた。充実した3年間だった。
「丹羽、千秋の様子はどうだ」
「流石に疲れているようだ」
丹羽には、尾崎はとても落ち着いているように見える。エースの座を降りて、憑き物が落ちたように、穏やかな表情をしている。
「明日は厳しいかな」
「ああ、脚質的にも難しいと思う」
丹羽や尾崎は、オールラウンダーで平坦も登りもこなせる。しかし千秋は、今の所、純粋なクライマーだと見られていた。山頂ゴールの登りでは、中体連で優勝したほどの選手である植原にも勝てるが、山岳を含むコースでも下ったあとのゴールとなるレイアウトでは、分が悪い。
「できるだけ、傷が少なく終わらせてやってくれ」
「わかっている」
今の所、まだ気分で走っている千秋が、レースが嫌いにならないようにしてやりたかった。
清須高校の赤井、山賀、岡田の3人は、ホテルのベッドの上で、疲労で凝り固まった体を部員のマッサージによってほぐして貰っていた。
清須高校のコーチ、藤堂は過去3年でインターハイ3連覇を達成し、自身も注目される立場となった。
しかし、選手たちのコンディションを見る限り、4連覇は難しいと見ていた。
清須高校の理事長は、先代理事長の妻であるが、ほとんど他のレースに選手たちを出場させることを認めなかった。
インターハイで勝っているのに、インターハイ以外のレースで負けると、ブランド価値が下がる。他のレースに出る必要はないというのが、その理由だった。
学校の経営者としては、そういう判断もあるのかも知れないと藤堂は思った。
しかし、それは選手たちのステージレースでの戦い方を学ぶ機会を奪い、実戦経験の無さを突かれた戦いを仕掛けられることとなっていた。
3人とも、目の前のステージに全力を注いできた結果、その体に回復力を上回る疲労を蓄積させてきた。
なんとか、マッサージによって、少しでも疲労を取り除こうと試みてはいるが、3人の疲労はそういう表面的なものではなく、もっと体や心の深いところ、芯のあたりにどす黒く蓄積されていっているように見えた。
戦っても戦っても結果が出ないことに対する焦りや絶望が、人間の最も根源に近いところで戦う力を削いでいく。それが積み重なることで、調子を落としていくものなのだ。
そういった状況の中で戦った経験がないということは、ひたすら耐えて逆転の機会を待つという選択肢を、チームから奪っている。
エースの岡田は、昨年も選手として出場した。
その時は、序盤から昨年の3年生エースが総合リーダーとなり、岡田もそのアシストとして終始順調にトップを守り続けた。逆境と言える状況など、1度もなかった。
藤堂は、勝ち続けることの難しさを知った気がした。
勝ち続けるということは、勝って学ぶことはあっても、負けて学ぶ機会がないということだ。
勝つということは、やるべきことを学ぶ機会であり 負けるということは、やってはいけないことを学ぶ機会となる。
勝った時と負けた時で、それぞれ学ぶ内容が全く違う。
勝利ばかり続いたのでは、いつかは破綻する。勝利と敗北の両方から学んできたチームに敗れる時が必ず来るのだ。
勝ち続けてきた清須高校の隙をつくという攻撃を受けた。つまり、やってはいけないことをあえてやらせるという攻め方をされている。
神崎高校と洲海高校は、その辺りが実に上手かった。
今日の第4ステージの序盤では、平坦区間で赤井、山賀が集団を小さくするためのペースアップを行なっていた時、神崎高校はメイン集団のペースコントロールに一切参加せずに、自チームの選手たちを温存した。
登り始めで、洲海高校の尾崎が捨て身のアタックを繰り返し、岡田に消耗を強いた。
清須高校の選手たちにもっと経験があれば、様子を見るとか、余力を残して、とかの判断が自分でできたはずだ。他校にも先頭交代に加わるように要求することだって出来たはずだ。
TV中継でも、レースの出場経歴を見た解説者たちから、経験不足で対応できていないという指摘を受けていた。選手たちを責めるな、学校を責めろと藤堂は思った。
明日は激しいレースになってくれるな、と藤堂には祈ることしかできなかった。
冬希は、ホテルの部屋で、ぼんやりと地図を眺めている船津と、レース終わりなのに腕立てや腹筋をしている郷田を見ていた。
露崎から、郷田と話す場を設けてほしいという話は、まだ郷田にも船津にもしていない。
総合優勝争いをしている中で、余計なことに思考を費やしてほしくないと思ったからだ。
それに、総合優勝争いをしている中、チームメイトが敵方のエースと密談など、いい方向に物事が動く要素が何一つないことをやるつもりもなかった。
このことを打ち明けるとしたら、明日のレース後、総合リーダーが決まってからにしようと、冬希は思った。