高校総体自転車ロード 第3ステージ(霞ヶ浦〜筑波山)⑦
インターハイ3連覇中の清須高校のエース岡田は、集団を冷静に分析していた。
洲海高校の尾崎と、神崎高校の船津。この二人は去年と今年の全国高校自転車競技会の総合優勝選手だ。疲労の色は隠せていないが、まだ実力は計り知れない。
それに対して、福岡産業の近田と、日南大附属の有馬。この二人はいつ千切れてもおかしくないだろう。二人ともアイウェアを装着したままになっているということは、外す余裕がないということだ。
ヒルクライムの場合、スピードが落ちる分、アイウェア内の風通しが悪くなり、曇って視界が悪くなることがある。尾崎、船津はすでに登り始めで外していた。
尾崎の後ろにいる、洲海高校の千秋、これはもう尾崎の周りを漂う浮遊霊か何かだと思うことにした。どうせ勝負には絡んでこない
あまりゆっくり登っていると、尾崎、船津の脚も回復してしまう。何より、その後ろから露崎が迫ってきている。
不動峠を通過する前に、モトバイクの示した総合リーダーとのタイム差はまだ1分あったが、こちらも油断できない。
岡田は、温存していた脚を使って、尾崎や船津達を引き離しにかかった。
岡田のアタックは、特別にキレのあるものではなかったが効果は抜群で、尾崎、船津はすぐに反応できたが、近田は殆どついてきているだけという状態で、有馬はついていけず、完全に遅れた。
岡田は後ろを振り返る。岡田自身は余裕はあるが、尾崎、船津は苦しそうだ。確実に脚を削ることができたようだ。
一度尾崎、船津、近田に追いつかれたが、岡田は再びアタックをかける。
今度は近田が反応できず、遅れていく。近田と一緒に、千秋も呪いの言葉を吐きながら遅れて行った。
岡田は、幾度となく揺さぶりをかけるが、尾崎、船津はかろうじてではあるが、離れない。だが、岡田に対して攻撃を仕掛ける力も残っていないだろう。
ゴール前でアタックをかければ、間違いなく勝てる。
岡田は、勝利を確信した。
近田、千秋を抜いた露崎は、先頭の3人の姿が近いことを察した。
そして、風返峠で、はっきりと3人の後ろ姿を捉えた。
露崎は、脚を緩めて3人の様子を窺った。
岡田が、船津、尾崎に対してアタックを仕掛けているようだ。だが、船津、尾崎もギリギリ食らいついている。
一旦この3人と合流してからアタックをかけても、同じように3人に食らいつかれる可能性がある。そう思った露崎は、少し離れた後方から、一気に加速して勢いをつけた状態で、3人を抜きにかかった。
岡田、船津、尾崎の3人は、露崎の前を走っていたモトバイクが自分達を追い抜くのを見て、後ろから露崎が迫っていることを知った。
「しまった」
岡田は慌てて露崎について行こうとするが、船津達に対するアタックを仕掛けたばかりで、まだ呼吸が整っておらず、露崎に引き離されていく。
船津も、岡田についていくのが精一杯で、露崎を追走するどころではない。
意外と簡単だった。3人が潰しあってくれていたおかげで、パンクで遅れて微妙になったステージ優勝が転がり込んできた。露崎はそう思って振り返ったが、一人、尾崎だけが自分についてきていることに気がついた。
露崎の、助走をつけてのアタックは、尾崎にとっても不意をつかれた形になった。
しかし、総合リーダーのイエロージャージを着用した露崎の後ろ姿を見た瞬間、尾崎の心拍数は跳ね上がり、血は沸騰した。
尾崎が総合優勝した時の全国高校自転車競技会は、第1ステージから第4ステージまで圧倒的な速さで制し、残りのステージを放棄して海外に渡った露崎不在の後、本命不在の混戦と言われた。
ギリギリの争いを戦い抜いて、尾崎は総合優勝を勝ち取ったが、尾崎はその価値を信じきれずにいた。
露崎がいなくなったから勝てた。露崎がいたら尾崎の総合優勝はなかった。それらは尾崎が一番傷ついた言葉であり、一番自分自身を傷つけた言葉でもあった。
全国高校自転車競技会での総合優勝は嬉しかった。しかし尾崎の胸の奥に、小さくて深い傷が残った。
尾崎にとっては、今じゃなかった。去年から、ずっと見えない露崎の背中を追い続けてきたのだ。
今、目の前に露崎がいて、今まさに自分を引き離して行こうとしている。
何度、夢に見たかわからない。
何度、目が覚めた後に、夢だったことを知って、失望したかもわからない。
それほど切実に願い続けた瞬間が、いま目の前にあった。
たとえ、今日を最後にレースを走れない体になったとしても、後悔はない。
絶対に離されるわけにはいかない。
尾崎は、ギアを軽くして、ペダルを回す回数、つまりケイデンスで勝負することにした。
脚は、乳酸が溜まると動かなくなる。心拍と呼吸は、我慢すればまだ保つ。
露崎が、驚いた顔で尾崎を見た。
再び露崎が加速する。しかし、尾崎は離れない。
自分の呼吸音がうるさい、口の中で血の味がする。
8%ほどの勾配を、露崎の付き位置で耐え続けた尾崎を待っていたのは、ゴールまでの斜度5%程度の直線だった。
尾崎は必死に食らいつく。
しかし、単体で冬希を上回るスプリント力をもつ露崎は、異次元の瞬発力とスピードで、最後の直線だけで尾崎を突き放した。
ゴールラインを、露崎が先頭で通過する。
そしてほぼタイム差なしで、尾崎はステージ2位でゴールラインを通過した。
尾崎は、ゴール直後に自転車を降りると、アスファルトの上に大の字になった。
「はあっ、はあっ」
大きく深い呼吸を続けるが、一向に苦しさが和らがない。ずっと苦しい。
もう殺してくれと言いたくなる。
選手に選ばれなかった洲海高校の後輩達が駆け寄り、酸素缶を口に当てて放出ボタンを押してくれる。
酸素缶のおかげか、単純に時間が経って回復したのか、少しだけ呼吸が楽になった。
「負けた」
声に出して言ってみると、ただそれだけのことだった。
ただ、勝負もしないまま負け続けていた今までに比べ、決着がついたことが嬉しかった。
「お疲れ様」
尾崎を覗き込んできたのは、露崎だった。
露崎は自転車に乗ったまま手を差し出し、尾崎を引き起こした。
尾崎は地べたに座ったまま、上半身だけ起こした。照れ臭くて、露崎の顔をまともに見れない。
「お前、強いなぁ」
感心したように言って、露崎は去っていった。
尾崎は、その姿勢のまま顔を伏せ、涙が流れるままに任せた。
負けた。露崎は強かった。だけど、認めてもらえた。
1年半長かった。だが、決着はついた。
それが、尾崎はたまらなく嬉しかった。