春奈の悩みと、神崎の愉悦
カミラからの誘いを受けた夜、春奈は自室で1人、ベッドの上で膝を抱えながらどうするべきか考えていた。
怪我をする前までなら、喜んで飛びついた話だ。
乗馬を習うために、勉強をおろそかにしないと約束し、中学では常に学年1位だった。そして、神崎高校に合格したのも、乗馬を続けるための両親との約束のためだった。
だが、怪我をしたことで乗馬から離れ、他の色々なことを経験した。
県外にも、雛姫やあゆみといった友人も出来た。冬希と一緒に、色々なところへも行った。学校では真理という友人も出来た。乗馬以外にも、いろいろな楽しい事を知ってしまった。
春奈はもう、それらを失うのが怖くなってしまっていた。
しかし、それと同じぐらい、今日見た馬術大会で戦う選手たちは、魅力的に見えた。彼らと肩を並べて戦えるようになるチャンスは、もうこれを逃せば、春奈の元には訪れないだろう。
そこまで考えた時、春奈のスマートフォンが着信を告げた。冬希からだ。
「本当にもう、声が聞きたい時にどうして毎回かけてきてくれるんだろ」
春奈は、苦笑しながら出る。
「もしもし冬希くん?」
『もしもし、ん、ちょっと元気ない?』
「そんな事ないよ!嬉しい事なら一杯あったけど」
春奈は、カミラから誘いを受けたこと隠しつつ、馬術大会がすごかったこと、自分も半年ぶりに馬に乗れたことを話した。ドイツへの誘いを受けたことは、もう少し自分の中で整理がついてから話したいと思った。
『膝がもう大丈夫なのは良かった』
冬希は優しい、と春奈は思う。用事があって電話をかけてきたはずなのに、最初にこちらの心配をしてくれるし、話も聞いてくれる。膝のこともずっと気にしてくれていたのだ。
「何か話があったんじゃないの?ボクばかり話してごめん!」
『ああ、いいんだ。大した話じゃない。春奈が一緒に勉強をしている子が、荒木さんていう、俺の同じ中学の子だったって話』
「あ、真理ちゃん!冬希くんと同じ中学だったんだ」
『そう、さっきウチの近くの駅で荒木さんに会って、話を聞いた』
「そうなんだ。真理ちゃんとは仲がいいの?」
『荒木さんは、中学時代は俺が1番話をする女子だった。神崎に入学してからは今日初めて話したな』
「疎遠だったんだね。荒木さん、なんて呼んでるし」
『中学生で、同級生の女の子を下の名前で呼ぶ勇気はないよ。あ、でも荒木さんも春奈のこと、浅輪さんって言ってたよ』
「ええっ、ボクずっと真理ちゃんって呼んでたのに。あと、ボクの中では、ずっと春奈ちゃんて呼ばれてるつもりだったのに」
春奈は、およよと泣いてみせる。
『春奈』
「なあに?』
『話したいことがあったら、いつでも聞くから』
春奈は、しばらく何も言えなかった。
「わかった、自分の中でもう少し整理がついたら、冬希くんに相談する。約束するよ」
『そっか、待ってるよ』
電話が切れたあと、春奈は少し気持ちが落ち着いていることに気がついた。冬希の声には、精神安定剤のような効果があるのかと、春奈は思った。
春奈は、少しだけ元気になった心で、再び思考の海へと沈んでいった。
日本中に衝撃が走った。
インターハイ自転車ロードレースのエントリーリストが公表され、慶安大附属のエースは、全国高校自転車競技会で総合2位を獲得した植原ではなく、昨年の全国高校自転車競技会で、第1ステージから第4ステージまで全てで大差勝ちをして、フランスに渡った露崎隆弘となっていた。
露崎は、昨年5月に渡仏し、現地でアマチュアとしてレースに出場を続けており、今年に入って5月にフランスのプロチームの下に新規に作成された育成チームに所属することが発表されていた。
インターハイに出場する選手たちは、高校や大学卒業後に、プロになることを目指し、いずれは海外に出てツール・ド・フランスに出場するという夢を持っている者も多い。
露崎は、すでに海外に出るところまで成功してしまっている。しかもプロチームの育成チームに17歳にして所属できてしまっているのだから、全ての高校生からすると、雲の上の存在と言って良かった。
今年のインターハイは、現在3連覇中の清須高校の一強で、尾崎、丹羽を擁する静岡の洲海高校がそれを追い、今年の全国高校自転車競技会で総合優勝した船津の千葉の神崎高校、総合2位の慶安大附属、福岡の福岡産業高校の3校がどれほど戦えるかという構図だった。
しかし、露崎の参戦で、慶安大附属の総合優勝はほぼ確定的で、清須高校、洲海高校が露崎のステージ全制覇を阻止できるのかどうか、という展開に変わってしまった。
インターハイ3連覇の清須高校も、完全に脇役扱いとなってしまった。
清須高校は、鉄壁のチームワークと隙のないレース運びで最強の呼び声も高いく、尾崎・丹羽、そして船津も清須高校対策に取り組んで来たが、完全に風向きが変わってしまった。
「いやぁ、やってくれるねぇ、慶安大附属。監督のクビでも懸かっちゃったかな」
神崎高校の理事長兼自転車競技部の監督でもある神崎秀文は、困った困ったと言いながら、内心では楽しそうに見えた。
全国高校自転車競技会で、何としてもイエロージャージを獲りたいと言っていた頃は、どこか切羽詰まったものも感じていたが、冬希たちから見ると、今の神崎は、本当にただの自転車大好き少年だ。
実際に、神崎は楽しんでいた。自分の育てた選手たちが、露崎という、日本の自転車ロードレース史上に名を残すことが確実な選手にどこまで戦えるのか。そんな機会が与えられたことに、心から感謝していた。
「うちはいいんだけどねぇ。清須高校はどうするんだろうね。常勝校だから、負けるとまずいんじゃないかなぁ」
今度は、心配だ心配だと言いながら、やはり心から楽しそうだ。
最強の清須高校と露崎との戦いも、神崎は楽しみなのだった。