高校自転車界最強の男
部室で全日本選手権の中継を見ていた植原は、監督である西尾の呼び出しを受け、体育教官室へと向かっていた。
2階が体育館で、1階が柔剣道場になっている棟の1階の入り口を入ると、すぐに体育教官室はある。
監督から呼び出しを受けたら、迅速に行動しなければならない。西尾はそれほど厳しい先生ではないが、だからと言ってダラダラとしているわけにもいかないのだ。
入口から体育館シューズに履き替え、体育教官室の前に立つと、ノックして大きな声で名乗った。
「自転車競技部の植原です」
「入れ」
「失礼します」
引き戸を開け、中に入る。他の教師たちはおらず、中には西尾だけがいた。
植原は、西尾の前まで歩いて立ち止まり、西尾の言葉を待った。
「全日本選手権は見たか」
「はい。我が校にとっては、残念な結果になりました」
「ああ、だが今回は仕方がない。コース適性的にうちのチーム向きではなかった」
慶安大附属は、全国高校自転車競技会にも出場した3年の沖田、2年の麻生、夏井の3名で臨んだが、麻生が30位完走しただけで、優勝争いにも絡めなかった。慶安大附属は、オールラウンダー中心のチームで、今回のようにワンデーレースのスペシャリストか、ピュアクライマーか、ピュアスプリンターかという様な極端なコースレイアウトには向いていない。
OBの要望で主力メンバーの一部を出してみたものの、やる前から結果は見えていた。
「呼び出したのは、インターハイの話だ」
植原の表情が固くなる。
慶安大附属は、すでに東京都の地区予選で優勝、インターハイへの出場を決めていた。
だが、問題はその前に行われた、静岡県伊豆にある日本サイクルスポーツセンターで行われた、東海グランプリ高校自転車ロードレースと呼ばれる大会の結果だった。
東京・神奈川・東海地区で行われるインターハイのリハーサル大会のようなもので、本調子でなかった植原は、負けてもいいからと言われて出場したものの、準優勝という成績を上げた。
ただ、負けた相手が悪かった。優勝したのは、神奈川関内高校の1年だったのだ。
静岡洲海高校の尾崎や丹羽に負けるならまだしも、その2人が出ていない大会で、1年に負けるというのは西尾も計算外だった。
慶安大附属は、経済界に多くのOBを持ち、その発言力も大きい。1年生をエースに起用する西尾への風当たりも強い。インターハイの結果次第では、首を切られる可能性もある。
「植原、お前にはインターハイではアシストに回って欲しい」
「・・・・・・」
そういう判断があるかもしれないと覚悟はしていたが、すぐには返事が出来なかった。
「エースは誰で行くのですか?」
そこが重要だと植原は思っていた。植原をエースから外したところで、他に戦える相手がいなければ、結果は変わらない。
「露崎が一時帰国することになったそうだ」
「本当ですか!?」
露崎隆弘は、去年の全国高校自転車競技会で、慶安大附属のエースとして出場し、第1から第3のスプリントステージを勝った後、山岳ゴールの第4ステージも圧勝し、国内に敵がいないと海外に渡った選手だ。
今年入学した植原とは面識はないが、休学して海外へ渡ったと聞いていた。歴代最強級の選手だ。
「インターハイは、規則上休学中の選手は出場できない。なので、一旦復学することになる」
露崎が戻ってくるなら、植原がアシストに回るのは当然とも言えるが、そこまでして勝ちたいのかと植原は思う。
「わかりました。僕は露崎選手のアシストとして出場します」
植原の背中を見送って、西尾は小さくため息をついた。
今年のインターハイは、例年になくレベルが高い。
静岡は、昨年の全国高校自転車競技会総合優勝の尾崎や、国体優勝の丹羽が出てくるだろう。千葉は今年の全国高校自転車競技会の総合優勝者である船津が当然出てくる。青山や郷田は全日本選手権に回ったため出てくる可能性は低いが、強豪であることには変わりない。そしてインターハイ3連覇中の清須高校。ここが優勝候補の筆頭だ。
それらを相手にするのは、並大抵のことではない。
植原は、いい選手だと思う。全国高校自転車競技会で、1年生にして総合2位だったのだ。3年になった時には、全国で頂点に立っているだろう。
しかし、神崎高校の青山冬希のように極端な脚質を持って1年時から最強世代を相手に勝ちまくるような選手ではないと西尾は思っていた。植原は総合力に優れ、大切に育てる必要のある選手だ。その頃に西尾が監督を続けられていたら、という条件付きではあるが。
それにしても、と西尾は思う。
千葉の神崎高校は、どうやって青山冬希という選手を見出したのだろうか。スポーツ推薦ということなので、恐らく何か片鱗のようなものを見出したのだろうが、彼の経歴を見る限りは、特筆すべき何かがあるようには、西尾には見えなかった。
自転車競技で活躍していたわけでもなく、他のスポーツで実績を残したわけでもない。
何か、優秀な選手を見出す術を知っているのであれば、神崎高校のスカウトなり監督なりに、是非ご教示いただきたいものだ。
露崎を自転車競技部に勧誘した時のように、偶然だったりするのだろうか。
露崎は元々スポーツ万能で、1年秋に水泳部で問題を起こして退部になった際に、西尾が何気なく自転車競技を勧めてみたのだった。
それまでは、ママチャリ以外には乗ったこともなかった。冬希や植原の今頃は、ロードバイクに触ったこともなかったのだ。天才というのは、ああいう人間のことを言うのだろうと、西尾は思ったものだ。
そして、勝つためだけにその天才を呼び戻すことに、インターハイ3連覇中の清須高校をも含むライバルたちに、申し訳ない気持ちもあった。
スプリント、山岳含む全6ステージ、全てを露崎が勝ったところで、自分は決して驚かないだろうと西尾は思った。
植原は、部室に向かって歩いていく。
思ったよりショックはない。別の誰かならともかく、相手は露崎だ。同じチームで出場するなら、それが尾崎だろうと船津だろうと、エースを譲るしかないほどの存在だ。
しかし、植原にはまだ信じられなかった。夏は日中に自転車に乗るのには適さないが、別にオフシーズンというわけではない。欧州でも同じだ。
この時期に日本に帰ってくる理由がわからない。
ただ、一点。西尾は一時帰国と言った。
海外で挫折して帰ってきたというわけではないということだ。だとすると、余計に理由がわからない。
植原は、部室に着くまでその理由について考え続けた。