母親
実況「郷田が抜け出した!集団からは誰も追わない!牽制しあっている!!」
解説「でも早く追わないと、このまま逃げ切ってしまいますよ!」
実況「坂東が動いた!青山を振り切った!青山が追う!大里も来た!」
解説「でも、結構差が開いてますよ」
実況「郷田が振り返った!まだ来ない!ああ、坂東がスプリントを開始する!青山も追うが伸びない!!」
解説「青山は、ここまで脚を使い過ぎています!」
春奈は、息をするのも忘れてTVに見入る。
実況「ああ、坂東届かない!郷田だ!郷田が全日本選手権を制しました!!全日本王者は郷田隆将です!!」
解説「いやぁ、ここまでずっとチームメイトを支えてきた名アシストが、ここで日の目を見ましたね。素晴らしい。こういう選手が勝ってくれると、私も本当に嬉しいです」
実況「青山は、郷田に勝利を譲ったのでしょうか」
解説「いや、もう青山には勝負するだけの脚がなかったんだと思いますよ。だから、郷田だけを行かせたんだと思います」
実況「残念なのは坂東、2年連続の制覇とは成りませんでした」
解説「坂東は、青山を意識し過ぎましたね。郷田が抜け出した時に、咄嗟に動けませんでしたから」
春奈は、ほうっと大きくため息をついた。
冬希は勝てなかったが、彼なりの判断だったんだろう。それよりも、ゴール前に喜び過ぎて落車しそうになっていることについて、春奈は少し怒っていた。
「もう、帰ってきたら教育的指導だ」
ぷんぷん怒りながら、サイクルジャージに着替えて、ロードバイクに乗る。
レースを見て、春奈も自転車に乗りたくなった。
とりあえず、学校に行こうと、江戸川を遡上していく。
学校に着くと、部室の前の自転車ラックにロードバイクを掛けてワイヤーロックをする。
リュックからスニーカーを出して履き替え、職員室に向かった。
「失礼します」
春奈が職員室に入ると、どこかの部活の顧問の先生がちらほら席にいるのが見えた。春奈は図書室の鍵を探したが、誰かが使っているのか、鍵は持ち出された後だったようだ。
仕方ないので、一旦図書室に向かうことにする。
休日で、誰もいない校舎の廊下を春奈は歩いて行く。校庭では、陸上部らしき生徒たちが走っているのが見えた。
図書館の前まで来ると、蛍光灯に灯りがついており、明らかに人がいることがわかる。
邪魔しないように、静かにゆっくりと戸を開ける。
女子生徒が一人、机に座って勉強しているのが見えた。
春奈は静かに、目当ての本の方へ歩いていく。
「あっ!」
勉強に集中していた女子生徒が春奈に気づいた。制服ではなく、サイクルジャージに身を包んだ春奈の姿に、明らかに驚いた様子で、机から教科書が落ちる。
「あ、脅かしちゃってごめんね」
春奈は急いで駆け寄り、教科書を拾い上げる。教科書の裏には名前が書いてある。
「はいどうぞ、えっと、荒木真理さん?」
ショートボブの髪は、綺麗な漆黒で、顔は綺麗な卵型。すごい可愛い子だ、と春奈は思った。
郷田隆将は、空港から電車を乗り継いで病院の最寄りの駅に到着した。
大きな荷物は、すべて監督兼理事長の神崎や後輩たちが引き受けてくれたので、直接病院に行くことができた。
一応、入口の前で父に電話をかけてみるが、出なかった。病院の中で電源を切っているのだろう。
郷田も電源を切り、病院内に入る。
受付で、母親が集中治療室にいると告げられる。
郷田は、緊張しながら、病院の2階にある集中治療室へ向かった。
場所は、案内板に書かれていたので、簡単にわかった。
両開きの大きな磨りガラスの自動ドアがあり、集中治療室と書かれている。
郷田が扉の前に立つと、両側に扉が開いた。
扉の先に、もう一つの自動ドアがある。これも磨りガラスで、扉の向こうを見ることはできない。
郷田は扉の前に立つが、今度は開かない。インターホンで看護師に連絡をする必要があるようだ。
郷田は、インターホンの受話器を取る。
直通のようで、すぐに呼び出し音がなる。
「はい」
若い女性の看護師の声がした。
「郷田の家族です」
「どうぞ」
自動ドアが開き、郷田は集中治療室の中へと入った。
集中治療室の中は、3つのベッドがあり、うち右二つが埋まっていた。
真ん中は、若い男の人のように見える。右側のベッドには、傍に立つ父の姿があった。
入口の左側、3つのベッドを見渡せる位置にカウンターのようなものがあり、ドアを開けてくれたと思われる看護師の女性が座っていた。郷田は軽く一礼して、右側のベッドへと近づいていった。
そこには、病衣を着てベッドに横たわる母の姿があった。
父が、ずれた布団をかけ直している。
郷田は、父のベッドの反対側に周り、母の様子を見た。口には酸素マスクをつけており、多少苦しそうにはしているが、目は開いており、起きているように見えた。
「戻ってきたか」
郷田は、黙って頷いた。
「母さん、隆将が帰ってきたぞ」
「ただいま」
郷田は、母の枕元で話しかけた。
酸素マスク越しなのと、人工呼吸器の音で、かなり近づいて耳を澄まさなければ、声を聞き取ることは難しかった。だが、僅かに聞き取れる音と、口の動きで何を言っているかを想像する。
「おかえり」
「ただいま」
「レースはどうしたの?」
「終わったよ」
「どうだった?」
郷田は、カバンの中からメダルの入ったケースを取り出した。
「勝ったよ」
ケースから金色のメダルを出して、母に見せる。
メダルがくるりとまわり、裏側に
【全日本選手権 少年男子ロードレース 優勝 郷田隆将】
という刻印が見えた。
「優勝したんだ。全日本選手権。日本一だって」
郷田は、上着を脱いで、下に着ていた全日本チャンピオンのサイクルジャージを見せる。
ジャージには、大きな日の丸と、【National Champion】という文字が描かれている。
郷田の母は、大きく目を見開く。両目から涙が溢れ出してきた。
何かを言いたそうに、口を動かす。
郷田は、母の言葉を聞き逃すまいと、顔を近づけた。
「私を日本一のお母さんにしてくれて、ありがとう」
郷田も、自分の両目から流れ落ちる涙を止めることができなかった。