全日本選手権⑤
冬希と郷田が追いついた時、シャイニングヒルの菊池翔馬、大里誠は仲違いをしているように見えた。
坂東に敗れ、戦意を失っていた菊池を、大里はここまで曳いてきた。だが、一向に先頭を交代しようとしない菊池に対して、イライラが募っていた。
「おい翔馬、いい加減に先頭を替われ。いつまで俺に曳かせる気だ」
「お前の方が脚が残っているんだから良いだろう」
「なんだと!?」
「俺はずっと登りで坂東を攻め続けていたんだ。大体お前がもっと登りで坂東に攻撃を仕掛けていたら、先に潰れたのは坂東の方だったんだ」
「無茶を言うな、俺はお前と違ってスプリンターなんだ。登りでそこまで余裕なんてない」
「そんなことを言って、ゴール勝負のために脚を溜めておこうとか思ってたんじゃないのか」
大里は怒りのあまり、握った拳を振り上げていた。だが菊池を殴ってしまいそうになる寸前で我慢し、
「もう勝手にしろ」
とだけ言って、菊池の前を走り続けた。
大里にしても、菊池にしても、考えていることは一緒だった。
なぜ、こんなに上手くいかないのか。ここ最近は、二人とも楽に勝てることが多くなっていた。調子も良く、ここでも自分達に勝てる相手などいるはずがないと、高を括っていた。
冬希は、前を走る二人に気づいた後、後ろをついてきているニュートラルカーに下り、前とのタイム差を確認した。
前の坂東とは2分半、さらに前の先頭集団とは、1分半。残りは40kmとちょっとしかなく、現状では先頭集団に追い付くのは難しい。
「郷田さん」
冬希は、郷田に前とのタイム差を伝えた。郷田も冬希と同意見で、このままでは前に追いつくのは無理だという結論に至った。スタートからのクライマーたちのアタックは、成功したということだ。
「郷田さん、あの二人にも働いてもらいましょう」
「そうだな。俺も同じことを考えていた」
郷田にしては、人の悪そうな表情をしているのを見て、冬希は笑ってしまった。
作戦が決まると、冬希はまたニュートラルカーの所まで下がった。
「すみません。ボトルを4本ください」
冬希は、ボトルを渡してシャイニングヒルの二人を懐柔しようと思った。
「3本しかないんだ」
ニュートラルカーからの返事は意外なものだった。そんなことがあるのか、と冬希は驚愕した。ニュートラルカーにボトルが積んでいないなどと言うことがあるのか。
「今日、スタートした時には、80本積んでたんだよ。でも、もうみんな配ってしまった」
ニュートラルカーのスタッフは、心底申し訳なさそうに言った。
スタートしてすぐに登りということで、満タンのドリンクボトルを2本差してスタートする選手は皆無だった。せいぜい、一本か、その一本も半分程度にした水を入れていない選手が、ほとんどだった。
みんな考えることは同じで、下ったタイミングでニュートラルカーでボトルを貰えば良いと思っていたのだ。その結果、ニュートラルカーの後部座席に溢れんばかりに積んでいたドリンクボトルはほぼ売り切れてしまった。
「あ、そうだ。青山選手。コーラならあるよ」
「コーラ!?」
この暑い中、自転車で走りながらコーラを飲めるなど、こんな幸せなことはない。
「ください」
冬希は、キリッとした表情でコーラを要求し、ニュートラルカーのスタッフは、小さな缶のコーラを、プルダブを開けた状態で渡してきた。
冬希は、嬉々として缶のコーラを口に含み、その全てを壮大に噴き出した。
「どうしたんだ、青山」
郷田が、微妙な表情で戻ってきた冬希に問いかけた。
「ぬるいコーラを飲まされました」
冬希がイメージしていた、キンキンに冷えたコーラではなく、人肌程度にぬるくなったコーラを飲むハメになった。ぬるいコーラは、炭酸もコーラも存在感を示すことなく冬希の口に入り、そのまま気管に直行して、冬希は派手に咽せた。
そもそも80本もボトルを積んでいたニュートラルカーに、クーラーボックスなんて場所を取るものが積んであるはずもなく、キンキンのコーラなど提供できるはずもない。少し考えればわかることだが、コーラの誘惑が冬希の思考を狂わせていた。
結局冬希は、ニュートラルカーから3本のドリンクボトルと、1本のペットボトルの水を受け取り、水は飲めるだけ飲んだ後、頭から被ってペットボトルをニュートラルカーに返した。
ドリンクボトル3本は、1本を郷田に渡し、残り2本をシャイニングヒルの二人に渡した。
二人は、黙ってボトルを受け取り、飲めるだけ飲んだ後、それぞれのロードバイクのボトルゲージに差した。
「一緒に前を追いましょう」
冬希は、二人に声をかけた。
「はぁ、なんだよお前。そっち2人同じチームなら、お前らの片方が曳けよ」
冬希は、こめかみのあたりがピクピクするのを感じた。それをいうのだったら、そちらだって同じチームだろうが。
「青山、こいつらはダメだ。置いていこう。俺が曳く」
郷田が前に出る。
「アシストに連れて行ってもらうとか、お前アシストがいないと何もできないのか?」
侮蔑を込めて言う菊池に対して、冬希の回答はあっさりしたものだった。
「そうですよ。俺は郷田さんのアシストがあるから勝ててきたんです。郷田さんがいなかったら、全国でなんて一回も勝てていませんよ」
菊池も大里も、唖然として冬希を見ている。
「お二人は、アシストなしで、自力で勝ってきたのかもしれないですけど」
菊池も大里も、今回上手くいかない理由を、はっきりと突きつけられた気がした。
二人には、クラブチームでアシストをしてくれている人がいた。それは大人で、菊池には、クラブチームの代表が営む自転車ショップの常連の40代の男性、大里には、つい最近まで実業団で走っていたという30代の元選手。
菊池は、自分が勝つたびに、アシストをしてくれていた男性も含めた他のチームメイトを見下す発言を繰り返した。大里も、スプリント勝負で勝った後、自分一人で勝ったかのような態度を取っていた。
今回のレースでは、二人を導いてくれる大人のアシストはいない。二人はそれぞれ、全く力を発揮できない状態となっていた。
「青山、行くぞ」
「ま、待ってくれ」
郷田が冬希を引き連れて行こうとした時、それを止める声がした。菊池だった。
「俺たちも一緒に行く。全員で先頭交代すれば、まだ追いつける」
大里が言った。
冬希は、もう二人に先ほどまでの不貞腐れた空気は感じなかった。