全日本選手権①
「はぁ、はぁ、もうダメです」
冬希は、限界までペダルを踏む。滴り落ちる汗を拭う余裕もない。
郷田は、冬希の方を見ることもなく、黙々とペダルを踏み続ける。郷田の心拍も上がっており、決して余裕のある状態ではない。
「じゃあ、この辺りにしておきましょうか」
潤が、手に持ったストップウォッチと二人のサイクルコンピュータとを見ていった。
全日本選手権のスタート地点である、ひがしもこと芝桜公園の駐車場に設けられた待機エリアで、冬希と郷田はローラー台に載せた自転車に跨り、ウォーミングアップを行なっていた。
通常の自転車ロードレースは、最初はゆっくりスタートし、アクチュアルスタート時に、逃げたい選手数名が本気でアタックを開始するが、大抵集団はゆっくりとそれを見送る場合が多い。
しかし、今回はワンデーレースの全日本選手権で、スタート直後から登りが開始される。
郷田も冬希も、登りのスペシャリストという訳ではないので、十分に準備しておかなければ、スタート直後に集団から置いてけぼりを食らい、いきなりレースが終わってしまう可能性がある。
よほど登りに自信があるクライマー以外は、大抵同じ様にウォーミングアップを行なっている。
優勝候補の筆頭に挙げられていた、シャイニングヒルの菊池などは、呑気にコーヒーなどを飲んでいる。カフェインの摂取は、彼なりの準備なのかも知れないが、冬希などからすると、その余裕がとても羨ましかった。
郷田が潤から飲み物を受け取り飲んでいると、理事長兼自転車競技部の監督でもある神崎秀文から呼ばれた。
神崎は、郷田を自身が借りているレンタカーの陰まで呼ぶと、急に深刻な表情で言った。
「お母さんが、肺炎で集中治療室に運ばれたという連絡があったんだ」
郷田は、レース用のジャージに着替えてウォーミングアップを行なっていたため、病院から郷田のスマートフォンに掛かってきた電話に出ることができず、学園に電話が入り、学園から神崎に連絡があったのだ。
郷田の表情が強張った。母が入院した時から、もしかしたらいつかこういう連絡がある日が来るのではないかと思っていた。
「お父さんはもう病院に向かっているそうだ。今すぐ病院に行った方がいい。女満別空港の朝一の便は満席で、次に羽田に飛ぶ便は5時間後になるけど、もしかしたら釧路空港に直接行ったほうが・・・・・・」
「先生」
郷田が、神崎の言葉を遮った。いつもの郷田ではあり得ないことだった。
「次に乗れる飛行機が5時間後なら、レースが終わった後でも同じです。空港で4時間何もせずに待つより、レースで走っていたいです」
神崎は黙った。
実際は、神崎も同じ考えではあったのだが、どちらにしても同じだから、レースに出てくれとは言えなかった。神崎も大切な身内を失ったばかりだ。何もせずに色々考えてしまうより、同じ待つならレースに出てしまった方が良いという考え方もわかる。だが、そう簡単に切り替えられるものなのだろうか。
神崎は、郷田を見た。まっすぐに神崎を見つめている。神崎にはもう、無理にでも帰れと言う気持ちは無くなっていた。
「わかった。13:40の便は、予約しておく。無理せず、怪我しないで無事に帰ってくるんだよ」
神崎は、郷田に言った。
「先生、後このことは」
「わかってるよ。青山君や、潤君、柊君にも言わないでおくよ。ゴール地点で、車を準備しておくからね」
「ありがとうございます」
郷田は深々と頭を下げた。
郷田は、父に電話をかけた。父の話では、レントゲンで肺の半分ほどが白く写る状況だが、重篤な状況かと言われると、そうは見えないらしく、酸素マスク越しに一応会話はできているということで、郷田は少し落ち着きを取り戻した。
父からは、全国の舞台で自分の役割を果たせ、そして帰ってきて母に直接言って聞かせろ、と言い付けられた。
郷田には、もはや迷いはなかった。自分の活躍を母に話し、喜んでもらう。それが郷田の今の最大の目標となった。
郷田は、冬希達の待つ待機エリアへと戻っていった。
冬希と郷田は、集合地点に並び、スタート待ちの列の中程でスタートラインに並ぶことができた。
前年度の全日本チャンピオンである坂東が、スタート待ちの列の横を通り過ぎて先頭に出た。
途中、冬希達を一瞥していた。
最前列には、坂東のチームメイトで弟でもある坂東裕理と、1年生メンバーの天野優一がいるのが見えた。シャイニングヒルの2名は、ギリギリに集合場所にやってきて、余裕の集団最後尾だ。
競技役員が、一通り注意事項を述べ、事故がない様にと念を押してスタートライン上から道路脇に出ていった。
号砲が鳴り、全日本選手権のスタートが切られた。
そしてスタート直後のクライマー達のアタックは、冬希達、坂東、そしてシャイニングヒルの2名のいずれの想像も超えた激しいものだった。
最前列の佐賀大和高校の3人が止まって見えるほど、クライマー達は全力で登りを登り始めた。
先頭を切っているのは、全国高校自転車競技会でも「山岳逃げ職人」と呼ばれていた秋葉、続いて福岡産業高校の舞川もいる。知っている顔では、宮崎の日南大学附属の有馬、小玉、涌井も続いている。京都の「逃げ屋」四王天も食らいつこうとするが、ピュアクライマー達の本気のアタックに、流石についていけない。
レースは完全にクライマーVSスプリンターのような形になってしまった。
クライマー達は、意地でもこの山岳でスプリンターを篩い落とさなければならない。追いつかれれば、ゴール前のスプリントで勝ち目はない。
スプリンターは、何がなんでもクライマーから離されてはならない。離されれば、160kmを自分の力のみで走る、孤独な旅が待っている。
選手達は、阿鼻叫喚の地獄の中に居た。あちこちで怒号が飛び交う。
「兄貴、とてもついていけねぇ!先に行ってくれ!」
「馬鹿野郎、泣き言を言うな!」
前方では、佐賀大和高校のアシスト、坂東裕理が下がっていく。
「日向、先に行ってくれ。俺はもうダメだ!」
「早いよ、松平!!」
冬希達の右側では、福島の会津若松高校のスプリンター松平が脱落し、日向が逃げを捕まえるべく加速していく。
「一体なんだってんだよ、こいつら必死になりやがって!」
「おい、急ぐぞ。翔馬!」
冬希達の横を、最後方にいたシャイニングヒルの二人が抜いていく。
「青山、ペースを乱すな!無理のないペースで刻むんだ!」
「わかりました!」
冬希達も声を掛け合って連携をとりつつ、一定ペースで登り始めた。
ウォーミングアップで拡張されていた冬希の血管を、大量の酸素を含んだ血液が身体中に酸素を運ぶ。想像していたより、呼吸も足も辛くない。
郷田は冬希を振り返り、まだ多少の余裕を持っている表情を見て、少し安堵した。
「よし、このペースで最初の山岳をクリアするぞ」
レースはまだ、スタートして2kmも進んでいなかった。